| ■きみが涙を流すなら 46■
 
 「ああ、重かったあ!」
 
 元気な相原おかんの声と彼女が荷物を下ろすドサッという音が、やけに大きく響いた。僕と相原、それに浩一さんは目を見合わせた。
 
 「ど、どうしよう……」
 
 相原は、すがるような目つきで浩一さんを見る。浩一さんは、苦しそうにぎゅっと目を閉じた。
 
 「お兄ちゃん、誠、いてるのー?」
 
 相原おかんは大声で呼びかけるが、兄弟は返事をしない。というか、出来ないのだろう。
 
 僕は何か、何か上手い言い訳はないかと必死で考えた。これだけ部屋が荒れてしまっていては、何もなかったことには出来ない。だけど、どうにかして彼らの秘密を守ることは出来ないのか。だって相原は、おかんには知られないように、ってこれまでこんなに頑張ってきたのに!
 
 そのとき、僕の脳にビリッと電気が走った。
 
 一つだけ、思い付いた。それで誤魔化せるかどうかは分からない。だけど、何も言わないよりはマシだ。多分。僕は顔を上げた。
 
 「相原。浩一さんと香織ちゃんのことがバレへんかったら、ええんやんな?」
 
 相原の腕をつかみ、小声で彼に確認する。しかし相原は僕の言うことがいまいち呑み込めなかったらしく、こちらを見て「え?」と首をかしげた。
 
 「ちょっともー、返事くらいしなさいよー」
 
 相原おかんの足音と声が、こちらに近付いてくる。駄目だ。相原たちにきちんと説明する時間がない。
 
 「二人とも、口裏合わせてや!」
 
 早口でそう言って、僕は勢いよくリビングを飛び出した。相原おかんはすぐ目の前まで来ていて、危うく彼女と衝突するところだった。
 
 「ひゃあ!」
 
 僕が急に目の前に現われたので、相原おかんは文字通り飛び上がった。
 
 「何……あっ、吉川くんっ? いやあ、びっくりしたやんかあ!」
 
 相原おかんは、丸い目を更に丸くした。どんな顔をしても、相原おかんはかわいらしいおばちゃんだ。ああ、彼女がリビングの中を見たらどう思うだろう。僕は、心臓がメキメキと万力で潰されるような気分になった。
 
 「あの……ごめんなさい!」
 
 僕は、深々と頭を下げて全力で謝った。怪しまれないように、きちんと演技出来るだろうか。僕は唾を飲み込んだ。それから、勢いをつけて顔を上げる。
 
 「あの、その、先に言うときますけど、この部屋、えらいことになってます」
 
 「えらいこと?」
 
 「え、ええと、あの、おれ、相原……くんと、お、お付き合いさせてもらってるんですけど」
 
 相手は既に知っていることとはいえ、改めて言葉にするのは物凄く勇気がいることだった。しかも相手の母親に。こんな緊急時でもなければ、心の準備なしには絶対に言えないことだ。演技でもなんでもなく、冷や汗が首筋に浮かぶ。顔が熱くなってきた。
 
 「うん。それは誠から聞いてるよ」
 
 優しい笑顔でそう言われて、ついうっかり泣きそうになってしまった。相原から聞いてはいたけれど、実際にこうもあっさり受け入れられるなんて。でも、今は駄目だ。感涙にむせび泣くのは、この場を凌いでからだ。
 
 「それが……ちょっと、香織ちゃんにばれてしまって」
 
 僕は、強張りそうになる口を懸命に動かした。怪しまれませんように、怪しまれませんようにと心の中で何度も唱える。
 
 「それで揉めてもうて……結果、リビングがえらいことに……」
 
 兄に同性の恋人がいると知った香織ちゃんが、激昂して暴れた。それを止めようとした浩一さんが負傷した。
 
 ……僕には、そんなシナリオしか思い付かなかった。自分だけじゃなくて、相原もネタにしてしまっているのが心苦しいけれど、そこはもう後で謝り倒そう。
 
 そのとき、背後から物凄い力で腕をつかまれた。何事かと思って振り向いたら、相原だった。この上なく険しい顔をしている。僕は一瞬怯みそうになったけれど、どうにか目に力を入れて相原を見返す。
 
 「吉川お前、何言って……」
 
 僕は大きめの声で、「相原」と言葉をかぶせた。
 
 「正直に言おうで、な」
 
 言いながら、相原の目をじっと見る。頼むから、話を合わせてくれ。だってもう、こういう方向しか思い浮かばない。空き巣が入った、とでも言おうかと一瞬考えたが、それだと警察を呼ばれてしまう。僕は渾身のテレパシーを相原の目に送った。頼む、相原。頼む!
 
 「香織に……ばれてもうたの、誠」
 
 相原おかんは表情を引き締めて、相原に確認した。相原は僕の腕をつかむ手に、ぐっと力を込めた。それからしばらく間を空けて、
 
 「……うん」
 
 と、小さな声で言った。僕は下を向いて咳をするフリをして、ほっと息を吐き出した。ごめん、相原ごめん。勝手にこんなこと言って、ほんまにごめん。
 
 「……とりあえず、中、入るわね」
 
 相原おかんは、リビングに続く戸を指さした。
 
 「はい……。ほんま、すみません……」
 
 僕は頭を下げながら、身体を横にずらした。
 
 「いやあ! 何これ!」
 
 リビングの中に入った瞬間、相原おかんは悲鳴を上げた。その悲痛な声が、胸と脳にグサグサ突き刺さる。僕は慌てて、彼女の丸い背中に向かって再度謝った。
 
 「すいません、ほんまに! 責任持って掃除するんで……」
 
 「誠!」
 
 僕の言葉を遮って、相原おかんは相原の頭をバシッと叩いた。自分が叩かれたような気になって、僕は思わず首を引っ込めた。
 
 「あんたは何を、吉川くんひとりに謝らせてんの! あんたらふたりのことでしょうが!」
 
 いつものニコニコ顔からは想像もつかない激しい口調に、僕は面食らってしまった。一瞬、頭の中が真っ白になる。相原も少しの間、目を見開いて硬直した。が、すぐに、
 
 「ご、ごめんなさい」
 
 と、謝った。僕は焦った。まさか、相原が怒られるようなことになるなんて。
 
 「え、い、いやおばちゃん! 謝ったのはおれの勝手で、相原は何も……」
 
 「吉川くんは、ちょっと静かにしといてね」
 
 今度はにっこり笑って、相原おかんは言った。先程の厳しい声音が耳に残っているので、その笑顔も何だか怖い。僕は素直に黙った。
 
 「そんで、何。これは香織ひとりがやったことなん」
 
 相原おかんは、ぐちゃぐちゃになった部屋を見回した。
 
 「……いや……、おれもちょっと……。カッとなってて……ごめんなさい」
 
 相原がそう言うのを聞いて、僕は奥歯を噛み締めた。
 
 相原、自分もやったことにした……!
 
 胸の奥がぎゅっとなる。相原は、香織ちゃんだけの責任にしなかった。違うんです相原は何もしてないんです、と言ってしまいそうになるのを、僕はどうにかしてこらえた。
 
 「何やってんの。あんたがしっかりせんとあかん、って言ったでしょ」
 
 「うん……ごめん」
 
 謝る相原に、相原おかんは呆れたように溜め息をついた。
 
 「お兄ちゃんはどうしたん……いやっ、どうしたん、その手!」
 
 浩一さんの手に巻かれた包帯を見付けて、相原おかんは叫び声をあげた。
 
 「兄貴は、おれと香織の喧嘩を止めようとして、そんときにちょっと、割れた花瓶で手ェ切ってもうて」
 
 相原は、そう説明した。浩一さんは床に座ったまま、相原を見上げた。とても何かを言いたそうな顔だった。多分この、浩一さんはただ巻き込まれただけ、という流れに物申したかったんだと思う。だけど結局、彼は何も言わなかった。ちゃんと黙っておいてくれた。
 
 「ちょっと……大丈夫なん、お兄ちゃん」
 
 「大丈夫。吉川くんがちゃんと手当てしてくれたし」
 
 浩一さんは、静かな声で頷いた。抑揚のない、いつも通りの声だった。
 
 「あらあ……ほんまに、えらいこと……。そんで香織は今、何処にいんの」
 
 「部屋にいる」
 
 浩一さんが答えると、相原おかんは「よし」と頷いた。
 
 「そんなら、ちょっと香織と話してくる」
 
 そう言って相原おかんがリビングを出ようとするので、僕は息を呑んだ。
 
 「ちょ、ちょっと待って!」
 
 僕と相原は、ほぼ同時に相原おかんの肩をつかんだ。香織ちゃんと話をされては困る。だって彼女は、僕と相原の関係を知らない。今この状態で、彼女にそんな話をして刺激を与えるのは危険だ。 
          相原おかんは、怪訝そうに振り返った。
 
 「あの、おかん! この話、おれ、香織とふたりで話つけたいんやんか。だからちょっと、悪いねんけど、おかんは黙っといてくれへんかな!」
 
 相原は、必死の形相で言い募った。僕は心の中で、相原を応援する。が、頑張れ。頑張れ相原!
 
 「部屋の掃除は、おれが責任持ってやるから、だから今は、香織には何も言わんとって! あいつも、部屋をこんな風にしたことに関しては、反省してるから」
 
 「そんなん言うけどあんた、また喧嘩になったらどうすんの。その度に家の中こんなんにされたら、たまったもんとちゃうわよ」
 
 「もう絶対、絶対、喧嘩せえへんから! おれと吉川ふたりのこと、ってさっきおかんも言ったやん!」
 
 そんな感じでふたりはしばらく言い合っていたけれど、最終的に息子の熱意というか勢いに圧されたのか、相原おかんは、
 
 「……そう? そんなら、あたしは何も言わんとくけど……」
 
 と、言ってくれた。僕と相原は、深く深く息を吐き出した。腹の底から力が抜けていく。これで目の前にある問題はクリア出来た……んだろうか。
 
 「そうや、吉川くん」
 
 「は、はい」
 
 相原おかんがこちらを向いたので、僕はやや緊張して背筋を伸ばした。まだ安心するには早そうだ。腹に力を入れ直し、気合いを入れる。すると彼女がすっと、手を持ち上げるのが目に入った。僕も叩かれるのだろうか、と一瞬身体が逃げそうになった。いや、叩かれるぐらい何だ、と思って覚悟を決めたら、相原おかんは僕の手を両手でぎゅっと握った。
 
 「吉川くん、これで嫌になったりせんといてね……!」
 
 「えっ?」
 
 彼女の言う意味がすぐには理解出来なくて、僕は間抜けな声をあげてしまった。相原おかんは溜め息をついて、首を振る。
 
 「うちの香織が、ほんまにごめんなさい。難しい年頃やし、あの子に理解してもらうのは、すぐには無理かも分からへんけど……。でもこれで、誠のこと嫌になったりせんといてあげてねえ」
 
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、僕は言葉に詰まった。胸が、強く押されたようになる。だって、こんなことになったのは僕のせい、って言ってるのに。それなのに、僕のことを気遣ってくれる相原おかん。目の前がぐらりと揺れた。
 
 「いや、そんな……、そんなん……、おれの方こそ……」
 
 色んな意味でいっぱいいっぱいになってしまって、上手く喋ることが出来ない。否応なしに声が震える。あ、やばい。泣いてしまうかも。歯を噛み締めて堪えないと……と思うのに、何故か僕の口は止まらなかった。あかん、何かもう訳分からんなってきた。
 
 「だってほんま、あの、おれこそ……っていうか、おれが、すいません……」
 
 「あらあら、何を言うてるの」
 
 「だ、だって、相原は全然そんなんじゃ、ゲイでもなんでもないのに、お、おれのせいでこんな面倒なことになって」
 
 「そんなん、誠が勝手に吉川くんのこと好きになったんやから、吉川くんが気にすることとちゃうでしょ」
 
 「か、勝手に、って……」
 
 それは違う。だって僕が告白しなかったら、今も僕と相原はただの友人だったわけで……。
 
 そう言おうとしたら、相原おかんは「いいの、いいの」と言って笑った。
 
 「いいのよ、ほんまに。そんなこと、何にも気にせんでいいのよ」
 
 あ、もう無理。
 
 そう思った瞬間、僕の目からぶわっと涙が溢れた。ああ、また泣いてしまった。相原の前で泣くのは、これで何度目だろう。更に、好きな人のおかんの前で泣いてしまうってどうなんだろう。
 
 でも、これはもうしょうがない。どうしようもない。
 
 こんな風に優しく笑われたら、泣くしかないじゃないか。
 
 
 次  戻
 
 
 
 
 |