| ■きみが涙を流すなら 47■
 
 結局僕たちは、リビングの掃除はしなかった。相原おかんが、「何処に何があるか、全部自分で把握できないと嫌やの!」と固辞したからだ。
 
 だけど多分、彼女は僕たちに気を遣ってくれたのと思う。何せ僕も相原も浩一さんも、色んな意味で疲れ切ってグダグダになっていた。正直、今すぐにでも大の字に寝そべりたい気分だった。なので、その辺を汲み取ってくれたんじゃないかと。
 
 ああ、僕は多分、一生相原おかんには頭が上がらない。
 
 「そんなら……お疲れ様でした」
 
 相原家の玄関の前で、僕は見送りに来てくれた相原を振り返った。太陽がまぶしい。そうかまだ陽は沈んでいないんだと思うと、何だか変な気持ちになる。ここに来てから、随分長い時間が経ったような気がするのに。
 
 ぎらつく太陽とは対照的に、相原の表情は暗かった。無理もない話だ。なんて声をかけようか迷っていたら、唐突に相原が僕の手を握ってきた。指と指を絡ませて、ぎゅっと力を込める。こないだみたいに友人の手を戯れに握ってみせました……という感じではなく、かなりマジな雰囲気だったので、僕はかなり焦ってしまった。
 
 「あ、相原くん、こ、ここ……外っす、よ……?」
 
 しかも、きみん家のまん前ですよ!
 
 遠慮がちに尋ねてみるも、相原は何かを考え込んでいるようで手を離してくれない。誰かに見られたらどうしよう。門の外からここは丸見えだから、家の前の道を誰かが通ったらアウトだ。僕は足をそわそわさせた。だけど無下に振り払うことも出来なくて、どうしたものかと途方に暮れてしまう。
 
 「吉川」
 
 相原は僕の名前を呼んで、伏せていた視線を上げた。そして僕の目をじっと見る。あまりにまっすぐ見つめられて、僕はたじろいだ。
 
 「な、何。どうしたん」
 
 そう言うと、相原は口を開いて何かを言おうと息を吸い込んだ。が、しばらくそのまま僕を見つめ、やがて息を吐き出して項垂れる。
 
 な、何だろう。何を言おうとしたんだろう。
 
 不安になりつつ、手元に視線を落とした。誰かの手を掴んでいないと不安だと言いたげな相原の手は、いつもよりも細く見えた。
 
 「ごめん……」
 
 小さい声で、相原が呟く。
 
 「吉川、全然関係ないのに……。めっちゃ巻き込んでるし……」
 
 「え、あ、そんな、いやいやいや」
 
 僕は首を横に振った。
 
 「おれこそ、勝手なこといっぱい言ってごめん。咄嗟やったから、相原のことまでダシにしちゃったし……」
 
 そう言うと、相原は泣きそうな顔になった。それを見て、僕も泣きそうになった。彼にそういう顔をされるのが、一番堪える。相原といえば笑顔、のはずなのに。
 
 「そんなん、そんなん……。おれは、ええやんか。でも、吉川は……違うやん。そんなんあかん、やん」
 
 相原の言葉は不明瞭で、文章の繋がりも相当怪しかったけれど、彼の言わんとすることはよく分かった。水くさいと思う反面、彼の気持ちも理解出来るし、そういう風に僕のことを気遣ってくれるのは嬉しい。だけど、何でそんなこと言うねんと苛立ちもする。関係ない、なんて突き放すようなこと言うなよと悲しくもなる。
 
 僕の感情は毎秒毎秒変わっていって、自分でもどう思っているのかがよく分からない。もっとずっと時間が経ったら、この気持ちに名前をつけることも出来るかもしれない。だけど今はとにかく、相原の真っ青な顔と浩一さんの血の赤さと香織ちゃんの泣き声と相原おかんの優しい笑顔が頭の中で交錯して、胸が苦しい。
 
 「相原、おれのことは別に……」
 
 「いや、あかんよ。あかんって。だって、吉川が原因でも何でもないのに」
 
 「相原」
 
 「何を吉川くんひとりに謝らせてんの、って、ほんまにその通りやと思うし、おれは何をしとってんつう感じやし、何かもう、何やろ、なんて言うか……」
 
 相原は切れ切れに言って、そこで口を閉じた。その唇が震えているのが分かる。
 
 「あかんわ……。自分でも、何を言ってるんか分からへん……」
 
 「……いいよ、分からんくて」
 
 「……おれも……」
 
 相原が小さい声で呟いた。
 
 「おれも、吉川ん家行ってもいい……?」
 
 僕は顔を上げた。つられるように、相原もこちらを見る。相原は、物凄く不安そうな表情をしていた。迷子の子どもみたいな。
 
 「いや、香織とか兄貴とかと、まだ話をせんとあかんってことは分かってんねんけど……でも流石に、今日はちょっと、きついっていうか……」
 
 すぐに返事をしなかったから、僕が断ると思ったのだろうか。相原は気まずそうな口調でそう言った。僕は慌てて首を横に振る。
 
 「あ、いや、ええよ。勿論」
 
 そう言うと、相原はほっとしたように僅かに表情を緩めた。 僕は下を向く。相原は、まだ僕の手を握りしめている。しっかりと。握るというか、捕まっているという感じだ。こんなふうに心許ない相原は、彼の秘密を打ち明けられたとき以来かもしれない。ずっとこのまま手を握っていたい、のだけれど。
 
 「うん、ええよ……ええねんけども……。と、とりあえず……手は離そっか。このままおれん家行くのも、ちょっとアレやし」
 
 なるべくやんわりと言うと、相原はハッとしたように手を離した。ああ、相原が離れてしまう。ほっとすると同時に、名残惜しさも感じた。
 
 「う、わ。めっちゃ無意識やった……! ご、ごめん」
 
 相原は、恥ずかしそうに僕から一歩離れた。
 
 え、無意識におれの手を握っちゃうってどうなのそれ何かめっちゃ嬉しいんですけど愛されてるような気がしてしまうんですけれども、と瞬間的にテンション上がりきってが脳天を突き抜けた……が、まだ弱々しい相原の顔が目に入った瞬間、沸騰した体温がすっと元通りになった。うん、落ち着こう。僕がちゃんと落ち着いていないと。
 
 
 僕と相原は並んで、ゆっくりと駅に向かった。ほんの数時間前、この道を全力疾走して来たことを思い出す。やっぱり、それは物凄く遠い出来事のように思えた。走って来たことは覚えているけれど、そのときどんなことを考えていたかとか、どんな風に景色が流れていたかとか、そういうことは全く覚えていない。そういえば、相原家に着くまで疲労も感じていなかった。ああいうのを、無我夢中と言うんだろう。
 
 暑い。空が青い。蝉がうるさい。
 
 僕たちのすぐ側を、自転車に乗ったおばちゃんが通り過ぎて行く。前方からは、プール帰りと思われる、ビニールバッグを持った小学生の集団が歩いてくる。今週の仮面ライダーがどうとか、そんな話をしていた。
 
 今ここには血も包丁もないし、泣き叫ぶ声も聞こえてこない。あまりにも普通の光景に、膝から力が抜けそうになった。うん、そうだよな。これが正常な世界だよな。僕たちは今まで、普通でない世界にいたんだ。
 
 ……だけどあれは現実だ。この、静かで平和な空気も現実だし、相原家のリビングの血の匂いも包丁を洗う水音も現実だ。なんて世界だろう。
 
 歩きながら僕はたまに、横目で相原の姿を確認した。なんとなく、彼がそこにいることを確かめないと落ち着かなかった。本当は、相原の手を握っていたかった。しっかり彼の手を掴んで、相原がすぐ近くにいることを知りたかったし、僕が彼の側にいることも知らせたかった。それが出来ないことが、酷く歯がゆい。
 
 「そういえば……相原。おかんに、おれん家行くって言わんでいいの」
 
 もどかしさを紛らわすために、僕は今考えていたことと全然違うことを口にした。
 
 「ああ……。そっか、そうやんな」
 
 何処かぼんやりとした口調で相原は言って、ジーンズのポケットから携帯電話を取りだした。そしてそれをじっと見つめる。
 
 そういえばこの電話が鳴ったのが、始まりやってんな……。そう思うと、何だか胸がずっしりと重くなった。
 
 相原はそのまましばらく携帯電話を凝視していたが、やがて暗い表情で息を吐き、電話をポケットにしまい直した。
 
 「……後で、連絡する」
 
 相原の呟きに、僕は黙って頷いた。
 
 ああ、空が青い。
 
 
 次  戻
 |