| ■きみが涙を流すなら 41■
 
 「……ごめん」
 
 ぽつりと、浩一さんが言った。
 
 「ごめん、って何やねん……」
 
 相原は、喉の奥から絞り出したような声を出した。それから更に言葉を継ごうと口を開きかけたが、苦しそうに顔をしかめ、再度、
 
 「何やねん……」
 
 と、小さい声で呟いた。僕はそれだけでもう泣きそうになってしまって、口をぎゅっと引き結んだ。
 
 「言い訳はしない。おれが悪い」
 
 「言い訳はせえへんって……ある意味卑怯やわ。何か言えや……」
 
 「……そうやな」
 
 浩一さんは、深く息を吐き出した。こういう場面だからか、それとも眼鏡がないせいか、いつもと雰囲気が違うように見えた。
 
 「何で、なん。何で香織とそういう関係に、なったん」
 
 相原は膝の上で拳を握りしめて、震える声で尋ねた。視線は下。浩一さんの顔を見ることが出来ないようだった。僕は、左手で自分の右手を押さえつけた。しっかりと手に力を入れておかないと、相原を抱きしめてしまいそうだ。
 
 「付き合ってた彼女がおってんけど」
 
 静かに、そしてゆっくりと、浩一さんが話し始める。相原は、黙って頷く。その喉が、ごくりと動くのが分かった。
 
 「二股かけられて別れたら、その彼女にストーキングされるようになって」
 
 「はい?」
 
 相原は眉根を寄せて、聞き返した。僕も、一瞬意味が分からなかった。きょとんとする高校生ふたりを前にして、浩一さんは力なく笑った。
 
 「まあ、色々とごたごたしてた、ってこと」
 
 二股かけられた挙句にストーキングされる。あまりに自分から遠い話で、いまいちピンと来ない。だけど、相当大変だったんじゃないか、ということは想像出来る。いつも表情の変わらない浩一さん。そんな浩一さんにも、やっぱり色々あったんだ……。
 
 「えっ兄貴、ストーカーされてた、ん?」
 
 相原は全く知らなかったようで、若干身を乗り出してそう言った。
 
 「そう」
 
 「そんなん、全然知らんかった……。何で言わんの……って、言わんよな、兄貴は」
 
 「お前も、おれと同じ立場やったら言わんやろ」
 
 その言葉に相原は、ややムッとしたような顔をした。確かに、相原なら言わないだろうな……と僕は思った。僕には言ってくれるだろうか。家族に関する秘密も打ち明けてくれたし、僕には言ってくれる……よな?
 
 「そのストーカーって……酷かったん」
 
 相原が呟いたので、僕は自分のつまらない不安を胸から追い払った。いつでも何処でも自分のことしか考えられないこの性格、なんとかならないだろうか。
 
 「酷かったよ。電話は一日最低二百回やったし、メールはその三倍は来てたな」
 
 「にひゃっ……」
 
 間抜けな声をあげてしまったのは、僕だ。兄弟が話し合っている最中は黙っておこうと決めていたのに、想像以上の数についつい声が出てしまった。僕は慌てて口を閉じる。浩一さんが、僅かに笑ったように見えた。
 
 一日二百回って、一時間に何回だろう。メールはその三倍、ということは六百通。その具体的な数字を聞いて、僕は初めて恐怖を覚えた。薄暗い部屋でひたすら携帯電話をカチカチやる女性を想像して、胃の辺りがすうっと冷たくなった。
 
 「家の前まで来てたこともあったで。もしかしたら誠も、顔見たことあるかも」
 
 「ま、まじでかよ」
 
 「ただでさえ学校が忙しいのにそんなことがあって、かなり疲れててん。そういうときに」
 
 浩一さんは顔を伏せ、目を閉じた。
 
 「部屋に、香織が来た」
 
 その一言が場に落ちた瞬間、周りの音が全て消えたような錯覚を覚えた。女子高生の笑い声も何も聞こえない。浩一さんの声だけが、重苦しく耳の中に這い寄ってくる。
 
 「おれのことが、好きやって。えらい思い詰めた感じで……一回でいいから、してくれ、って」
 
 相原が、微かに息を吸い込むような気配がした。僕は咄嗟に、また彼が浩一さんを殴るんじゃないだろうか、と思って相原の方を見た。そして僕は、何も分かっていない自分を恥じた。
 
 浩一さんを殴ろうなんて、そんな余裕は相原にはないようだった。彼は固い表情をして、右手で口を押さえていた。その顔は真っ白で、目尻がひくひくと震えている。
 
 ああ、僕は馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
 
 僕は、胸がぐうっと押さえつけられるような感じがして、たまらず相原の、膝の上に乗せられていた左手を力任せにつかんだ。相原の手はとても冷たくて、泣きたくなった。相原はびっくりしたように、口元に持って行っていた手を離した。そして白い顔のまま、こちらを見る。僕は何も言わず……というか口を開けば嗚咽がこぼれてしまいそうだ……相原の手に重ねた手に、更に力を込めた。相原はゆっくり息を吐き出し、浩一さんの方に向き直る。
 
 「何で……断らんかってん……」
 
 「……ほんまに、な……。あのときはもう……、おれもまともな状態じゃなかったんやと思う」
 
 相原の身体が一瞬ぐらりと大きく揺れて、僕はぎょっとした。思わず手を出して彼を支えようとしたが、相原はテーブルに右手を突いて、大丈夫、と言うように首を軽く振った。
 
 「それで……そっから、やるようになったん」
 
 「……そういうことやな」
 
 「何なん……それ」
 
 相原の声が、僅かに上ずる。その声があまりにも悲痛で、僕は耳を塞ぎたくなった。
 
 「ごめん」
 
 「兄貴、いっつもちゃんとしてたやん。頭良いししっかりしてるし、何考えてるか分からんくて怖かったりするけど、でも頼りになる兄貴やったやん」
 
 「ごめん」
 
 「おれがアホなことしたら、叱ってくれたやん。悪いことは悪い、って、ちゃんと、言ってくれ、た、やんか……」
 
 「ごめん」
 
 「何なん。何なん。何なん、お前ら。」
 
 「ごめん」
 
 「だから、ごめん、って何やねん……」
 
 相原の目に、涙が浮かんだ。僕は奥歯を噛み締めて、下を向いた。テーブルの木目が、ぼんやり滲んで見る。相原は右手の甲で目元を擦る。つかんだままの手を離そうか僕は一瞬迷ったけれど、相原が振り払おうとしなかったので、そのままにしておいた。
 
 僕は涙を必死にこらえながら顔を上げた。斜め前に座っている、浩一さんの姿が目に入る。その表情にいつもの機械的な冷たさはなく、彼は眉を寄せて痛みに耐えるような顔をしていた。相原に殴られたときよりも、何倍も、何十倍も痛そうだった。
 
 「……後悔してる。だけど、許されようとは思わない」
 
 掠れた声で、浩一さんが小さく呟く。相原は何処か悔しそうに、目尻に溜まった涙を拭った。
 
 「……あんさあ、兄貴」
 
 「うん」
 
 「めっちゃ腹立つし信じられへん。ほんまに意味不明やわ。何でなん。何でなん。何でそんなことするん」
 
 「ごめん」
 
 「家族って、何なん」
 
 僕は、息を呑み込んだ。家族って、何なん。その言葉は、僕の身体の真ん中に音もなく突き刺さった。家族って、何なん。何なん。
 
 「何なんやろうな……」
 
 「少なくとも、セックスするもんではないと思う」
 
 「……おれもそう思うわ」
 
 浩一さんは、自嘲気味に笑った。相原は、目を細めて浩一さんを見る。その目はまだ、僅かに濡れていた。
 
 「兄貴、おれな。一回な、自分でもよう分からんけど、香織の部屋から声が聞こえたとき、金属バット握りしめてたことがあってん」
 
 彼の秘密を打ち明けられた日のことだ。僕はそのときの相原を思い出して、胸が苦しくなった。あの日の相原は、相原であって相原でなかった。あんな彼は、もう見たくない。僕は自分の手の下にある、相原の手の存在を確かめた。彼の手はまだ冷たい。だけど少しずつ、体温が戻りつつあるように思えた。大丈夫だ。多分。僕は自分にそう言い聞かせた。
 
 「……そんとき殺されてたとしても、文句言われへんかったな」
 
 浩一さんの言葉に、相原はゆるゆると首を横に振った。
 
 「そんなん言うなや」
 
 「……うん、ごめん」
 
 「おれ、まだ兄貴と、きょうだいでいたい」
 
 その時、浩一さんの眉間がぴくりと震えた。そしてそのまま、彼は手で目元を覆った。
 
 浩一さん、もしかして泣いてる?
 
 僕はちぎれそうなくらいにきつく唇を噛み締めて、心の底から噴き上げる言葉に出来ない激情を、どうにか外に出さないように努めた。
 
 それから少しして、浩一さんは手を離した。露わになった切れ長の目からは、涙を流したような形跡は伺えない……けれど、どうだったんだろう。
 
 「……香織とちゃんと話をして、あいつの目を覚まさせるわ」
 
 そう言って浩一さんは身を屈め、床に落ちていた眼鏡を拾った。
 
 「おれもまだ、お前らの兄貴でいたいしな」
 
 相原は返事をしなかった。だけど微かに、ほんの少しだけど表情から力が抜けた、ような気がした。僕は、胸に溜まった息を吐き出した。
 
 勿論、相原はこの兄貴と妹のことをまだまだ許してはいないだろし、許されるべきではないと思う。だけど少しずつでも彼らが元通りになりますように、と願った。そして僕も、こんな風に家族と歩み寄ることが出来ますように……。
 
 「そういえばさっき、何気に物凄いカミングアウトをされたよな」
 
 思い出したようにそう言って、浩一さんが僕と相原を交互に見る。僕はハッとして、握りっぱなしだった相原の手を離した。テーブルの下だったから浩一さんには見えていないかもしれないけれど、それでも人前でなんてことを、と今更ながらに巨大な羞恥心と後悔に襲われる。
 
 それに、そうだ。相原が僕たちのことを浩一さんに言ってしまったのだ。いつもごとく、何の躊躇いもなく。僕の首筋を、冷たい汗が流れて行く。彼の爆弾発言に心臓をつかまれるのは、何回目だろう。何回経験しても、これだけは慣れない。
 
 「ああ、そういえばそうやんな。まだ言うつもりはなかってんけど、流れでなんとなく」
 
 相原は恥ずかしがっている様子も慌てている様子も全くなく、ごく自然な調子でそう言った。相原家の人間の、肝の太さは異常だと思う。僕なんか、さっきから軽く吐きそうだ。
 
 「それに対して、兄貴のご感想は?」
 
 聞かんでいい。ご感想なんか、聞かんでいい。
 
 「感想な。吉川くん良かったやん、って思ったわ」
 
 浩一さんの一言で、僕は顔の温度が急激に上昇していくのを感じた。そういえば、浩一さんは僕が相原のことが好きだって、知っているのだった。あまりの恥ずかしさに、僕はテーブルを引っ繰り返したくなった。
 
 「え、何それ。良かったやん、って何の話」
 
 事情を知らない相原が、きょとんとした顔をして首をかしげる。僕がなんとかして誤魔化そうとしようとあたふたしていたら、浩一さんがトレイを持って立ち上がった。
 
 「そんなら、おれは帰るわ」
 
 このタイミングで帰るか、と僕はびっくりした。なんという投げっぱなし。シリアスな流れですっかり忘れていたが、相原浩一はこういう男だった。
 
 引き止める暇も与えず、浩一さんは本当にさっさと帰ってしまった。相原は、
 
 「なあなあ吉川、良かったって何なん」
 
 と繰り返して譲らない。僕はどうにかして逃げようとしたが相原の真っ直ぐな目で見つめられるとやっぱり駄目で、結局カラオケのトイレで浩一さんと話した内容を説明する羽目になった。死ぬほど恥ずかしかった。
 
 何だ、このオチ。
 
 
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