| ■きみが涙を流すなら 42■
 
 店を出ると、尋常でなく重たい熱気が全身にまとわりついた。 僕は店の出入り口でしばし、ぼんやりと立ち尽くしてしまった。 暑い。もわもわとして、ねばついた空気だ。
 
 そんな暑さに怯むと同時に、そうそうそういえば外はこんな空気だった、なんてことをしみじみ考えてしまった。足を踏み出して、ああそうだ地面はこんな感触だったと思う。
 
 今まで相原兄弟の話に全神経を集中していたし、極度に緊張もしていたので、自分の周りの世界がどうなっているのか、全く認識出来ていなかった。後半の方なんか、あんなにうるさかった後ろの女子高生たちの声ですら、ちっとも聞こえていなかった。
 
 それが今になって、ようやく五感が正常に機能しだした気がする。微妙に明るさの足りない地下街の照明とか、目の前を通り過ぎて行った男性のシャツの白さなんかが、はっきりと分かる。
 
 「吉川、どしたん」
 
 後ろから、相原が僕の背中をつつく。僕はそれにハッとして、「いや、外、暑いなと思って」なんて言いながら歩き出した。目や耳はちゃんと働いているけれど、頭はまだ少しぼうっとしている。
 
 夕方近くなった梅田はますます賑やかで、人々の話し声と足音と、近くにある噴水の水音が波のように押し寄せてくる。
 
 「つっかれたあ……」
 
 相原はそう言って、肩をぐるぐると回した。なんと声をかけようか迷っていると、相原がこちらを向いて微笑んだ。
 
 「でも、ま、多少はスッキリした」
 
 いつもどおり爽やかな……とは流石に行かず、多少疲労が伺える笑顔だったけれど、彼の言うとおり何処かさっぱりした顔をしているように見えたので、僕は少しほっとした。
 
 「一発殴ったしな」
 
 相原は前に向き直り、拳を突き出す真似をした。それから思い出したように、
 
 「吉川、止めんかったな」
 
 と付け加えた。僕はそれに、しっかりと頷く。
 
 「うん、だって一発は殴っとかんとあかんやろ、って思って。……止めた方が良かったんかな」
 
 そう言うと、相原は声をあげて軽く笑った。
 
 「ううん! あれはほんま、殴っといて良かったと思う。ナイス配慮やで、吉川。しかし通報されんでラッキーやったなあ」
 
 それから何かを思い出したように視線を上に向け、真剣な顔つきになった。
 
 「でも……、あんなんで良かったんかなあ」
 
 「あんなん、って?」
 
 「何かおれ、グダグダやったやん。自分でも何言ってるんか、途中からよう分からんくなってたし」
 
 「それでいいんやん。浩一さんにはちゃんと伝わ」
 
 そこまで言ったところで、相原兄弟のやりとりやら二人の表情の動きなんかが頭の中に蘇り、僕はまた泣きそうになった。力を入れて数回瞬きをし、どうにか涙を追い払ってから、改めて続きを口にする。
 
 「……ったと思うで」
 
 「そうかなあ。やっぱ、ノープランはあかんかったな、って思うわ。あ、でも」
 
 相原はそこで一旦言葉を切って、僕の方を見てニカッと笑った。
 
 「吉川に手をガッとつかまれたときは、びっくりしすぎてちょっと冷静になったわ」
 
 このときの僕の羞恥と混乱と動揺を、どのように表現すればいいだろう。とりあえず僕はその瞬間から真っ直ぐ歩けなくなって、三回連続で人とぶつかった。相原ともぶつかった。駄目だ。駄目すぎる。
 
 「いや、あれは、もう、いや、ほんま、ちょ……調子乗ってすんませんでした」
 
 僕はボソボソと謝った。あれは本当に、衝動的にとはいえ調子に乗り過ぎだった、と心から反省している。机の下で手を握るなんて、ゲイにも程がある。フォローの入れようがない。周囲の人に気付かれていなかっただろうか、と今更ながら心配で胸がぞわぞわした。
 
 「え、何でよ。おれ、結構嬉しかってんけど」
 
 そんなことを言われて、僕はどきっとした。え、マジで? と心が、えもいわれぬ浮遊感に包まれる。
 
 「だってよう考えたら、吉川の方からおれに触るのって今まで一回もなかったやん? 何かそういうの、嫌なんかと思ってた」
 
 僕は相原のこの発言にびっくりしすぎて、その場で腰を抜かすかと思った。相原に、触るのが、嫌? 何処まで天然なんだろう、この男は。
 
 「あ、あほか……! おまえなあ、おれがどんだけ気を遣って触らんようにしてたと思っとんねん……!」
 
 「えっ、そうなん?」
 
 「そうやっちゅうねん……。めっちゃ葛藤してたっちゅうねん」
 
 片思い時代の煩悶と懊悩を思い出して、僕は唸り声をあげそうになった。こちらは一生懸命我慢しているのに、相原は割と平気で僕の腰を叩いたり肩に手を置いてきたりする。あらゆる意味でたまらなかった。平静を装い、自分を律するのに必死だった日々。あれは本当に辛かった。我ながら、よく耐えたと思う。
 
 「でももう今は、葛藤なんかせんでいいやん」
 
 相原は、さらっとそんなことを言った。えっ、何その爽やかなお誘い。と、僕は一瞬驚いて目を見開いた。いや、相原のことだから、そういう自覚はないのかもしれない。いやでも……。いや、期待するのはよそう。
 
 くそ、人の気も知らないで。葛藤せんでいい、と言うのなら本能の赴くままに触りまくってやろうか。押し倒してやろうか。
 
 なんてことをついつい考えてしまった……が、それと同時に、そういうのは互いの家族のことが一段落するまでは無いだろうな……とも思った。
 
 「やーでも、話せて良かった」
 
 相原はそう言いながら、何度も頷いた。僕は目を細めた。少しでも相原の気が軽くなったなら良かった。本当に、本当に良かった。
 
 「うん……良かったな、ほんまに」
 
 噛み締めるように言って、僕も頷いた。
 
 「まだどうなるか分からんけど、前よりはマシな兄弟関係を築けそう」
 
 「うんうん」
 
 「吉川、ほんまにありがとうな」
 
 「いや……、おれ何もしてへん」
 
 僕は少々恥ずかしくなりながら、首を横に振った。本当に、僕は何もしてない。というか、何も出来なかった。みっともなく泣き出しそうになるのを、頑張って堪えていただけだ。あと、ちょっと暴走して相原の手を握ってしまった。それだけである。あの場におった意味あったんか、と自分でも少し情けなくなってしまう。
 
 「ううん、吉川のお陰やでほんま。お前がおらんかったら多分おれ、通報されるまで兄貴をボコってたか、何も言えんと地蔵みたいに固まってたか、どっちかやわ」
 
 相原に限ってそれはないわ……と思ったけれど、吉川のお陰と言ってくれたことは本当に本当に嬉しくて、胸がじんわりと温くなった。
 
 彼といると、一日に何十回も何百回も幸せになれる。こんな幸せで良いんだろうか。相原と一緒にいられるだけでもこれ以上ないってくらいに幸せなのに、奇跡的に付き合ってもらって、こんな風に言ってもらえるなんて。僕の人生は、今が間違いなくピークだ。
 
 「じゃあ次は、吉川んとこやんな!」
 
 朗らかな相原の声に、僕は物凄い勢いで現実に引き戻された。
 
 「おお……ほんまや……。それがあった……。全然ピークとちゃうかった……」
 
 「ん? ピーク?」
 
 「あ、いやごめん、独り言。なんていうか……、相原ん家のことばっか気になってて、自分ん家のこと忘れてた」
 
 僕は笑ってみせるが、どうしても頬が引き攣ってしまう。本当に、自分のことをすっかり忘れてしまっていた。このまま忘れていた方が、幸せだったような気もする。
 
 しかし相原が辛い思いをしながらもちゃんと兄さんと向き合ったのだから、僕だって奮起せねばならない。と、一瞬だけやる気と勇気が燃え上がったが、具体的にどうすれば、と思うと即座に決意が萎んでいくのが分かった。
 
 「明後日、三日に電話するんやんな、吉川」
 
 僕はこっそりと相原がその約束のことを忘れていてくれないかな、などと期待していたのが、彼はしっかり覚えていた。
 
 明後日。明後日っていつだ、明日の次か、うわっもうすぐやん、などと訳の分からないことを考えてしまう。
 
 いや、だけど。今回は、今回こそは、逃げるわけにはいかない。ここでやらねばいつやるのだ。
 
 「……うん、ちゃんと電話する。頑張るわ、おれも」
 
 存外しっかりした口調で言えた。自分でも、少し意外だった。そして言葉に出したことで、もう逃げられないんだという恐怖と、やってやるぞという勇気が同時に湧いた。 
          相原は笑顔になって、
 
 「頑張ろうな!」
 
 と言ってくれた。
 
 そのひとことで、恐怖よりも勇気が勝った。相原の笑顔と言葉が、何よりも僕の力になる。そうだ、頑張ろう。
 
 相原は、『頑張れ』じゃなくて『頑張ろう』と言ってくれた。僕はそれが、とても嬉しかった。
 
 
 
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