| ■きみが涙を流すなら 40■
 
 「お、兄貴もうおるやん」
 
 浩一さんのバイト先付近まで来たところで、相原が声を上げた。
 
 カラオケ屋の前に、浩一さんが立っているのが見えて、僕は唾を呑み込んだ。いよいよだ、という思いが胃を圧迫する。
 
 相原も、同じ気持ちなんだろうか。
 
 そっと相原の顔を盗み見てみるが、やっぱり表情はいつも通りだった。だけど視線を下にずらしてみると、彼の手が震えているのが、今度ははっきりと見て分かった。
 
 僕は奥歯を噛み締めた。ここが梅田のど真ん中じゃなければ、今度は僕の方から彼の手を握りしめるのに。
 
 「お疲れ」
 
 相原は浩一さんに近付き、軽く声をかけた。浩一さんは、ゆっくりとこちらを見た。
 
 「その子もセットなん?」
 
 抑揚のない声で、浩一さんが言う。この時点で呑まれそうになって、僕は気合いを入れるために顎をぐっと引いた。
 
 ……相原、おれがついてくってこと、浩一さんに言ってなかったんや。
 
 僕は急激に気まずくなった。浩一さんにしてみれば、兄弟での大事な話し合いなのに、何でこいつがついてきとんねん、という感じだろう。そう思うと、本当に自分はここにいていいのか、帰った方がいいんじゃないかという気持ちになってくる。
 
 「うん、そう」
 
 相原は頷くだけで、それ以上は何も言わなかった。
 
 浩一さんは相変わらずレーザービームのような鋭い視線で、僕の顔をじっと凝視する。僕は唇の端がひくひくするのを感じた。何回会っても、この人の視線には慣れない。
 
 「えーと、そんなら何処行こっか」
 
 相原は、構わず話を進める。良いんだろうか。相原は良いとしても、僕がいたら浩一さんは話しにくいんじゃ……。
 
 そう思って浩一さんの方を見るが、彼はもう僕を見ていなかった。自分の弟をまっすぐ見据えて、 「何処でも」と静かに言った。
 
 「じゃ、適当なとこ入ろう」
 
 そう言って相原は、すたすたと歩き出した。僕は慌てて彼の横に並ぶ。浩一さんは何も言わない、ので、僕がいても大丈夫ってことなんだろう。多分。そういうことにしておこう。
 
 浩一さんは僕たちよりも数歩後ろを歩いているのだが、後頭部に彼の視線がじりじりと焼き付いている気がしてならない。この人にずっと後ろ頭を見られていたら、その部分がハゲしてしまうんじゃないか、と半ば本気で危惧してしまう。
 
 歩いている間、相原は何も喋らなかった。僕もずっと黙っていた。
 
 機械的に足を動かしながら僕は、相原がほんまにキレたらどうしよう、というようなことを何度も何度も考えた。
 
 とりあえず、もし相原が暴れ出す……なんてことがあったら、止めるのは彼が浩一さんを一発殴ってからにしよう。僕は浩一さんに対して、物凄く複雑な気持ちを抱いているけれど、一発くらいは相原に殴られておくべきだと思う。
 
 
 
 
 僕たちは地下街にある、ファーストフード店に入った。それぞれ飲み物だけを買い、たまたま店内一番奥の席が空いていたので、相原と僕が隣同志で、相原の向かいに浩一さんが座った。
 
 しばらくの間、誰も何も言わなかった。相原と浩一さんは、自分の手元をじっと見ている。顔は全く似ていないのに、視線の角度やテーブルに置いた手の格好が全く同じで、血の繋がりというものを感じさせる。僕はオレンジジュースを少しずつ啜りながら、落ち着きなく視線をうろつかせた。相原は、大丈夫だろうか。
 
 「……で、話やねんけど」
 
 相原は手元を見たまま、口を開いた。僕はどきっとした。いよいよだ。手に汗がにじむのを感じながら、彼の次の言葉を待った。
 
 「何で香織と、やってんの」
 
 いきなり直球。僕は息を詰めた。相原はいつでもそうだ。僕は彼のそういうところが好きだ、けど……、浩一さんはどう答えるのだろう。
 
 そのとき、後ろのテーブルに座っている女子高生グループの笑い声が大きく響いた。それが耳に障って僕は僅かに顔をしかめたが、周りが騒がしい方が、話の内容を聞かれなくて良いのかも、と考え直した。
 
 浩一さんは、黙っていた。女子高生たちの笑い声が、また響く。国語の教師が上沼恵美子に似ているだのなんだの、気楽な話題で盛り上がっているようだった。
 
 僕はいつの間にか拳を握りしめていることに気が付いて、そっと手を開いた。汗でびしょびしょだ。手をジーンズにこすりつけて汗を拭いていると、相原が
 
 「あのさあ、兄貴」
 
 と言って、顔を上げた。そして、僕の腕を軽く掴む。
 
 「おれ、こいつと付き合ってんねんけど」
 
 いきなり相原がそんなことを言い出して、目玉の裏が、びりっと痺れた。
 
 え、な、今言うん、それ。今言っちゃうん。というか今日って、そういう趣旨の集まりやっけ!?
 
 僕は慌てて、相原の方を見た。相原は、至って真剣な顔をしていた。彼の予想外の爆弾発言に、心臓を冷やされるのはこれで何度目だろう。頭がくらくらしてくる。
 
 僕は、周りに聞こえてないかと焦って周囲を見回した。そうしたら相原に、
 
 「他の人らには聞こえてへんって」
 
 と、小さい声で言われた。確かに一番近いテーブルの女子高生グループは相変わらず上沼恵美子似の教師の話に夢中だし、相原の声は決して大きくなかったから、多分浩一さん以外には聞こえていないだろう。だけど、物凄く落ち着かない。
 
 僕は次いで浩一さんを見ようとしたが、また彼のアイビームを喰らっては死んでしまうと思って、オレンジジュースのカップを注視することにした。冷え冷えとした紙コップには、小さな水滴がたくさん張り付いている。僕の心も、この紙コップみたいに冷や汗ダラダラだった。
 
 「おれは言えるで、堂々と。こいつが嫌がるから、あんま言わんけど。別に悪いことしてる、って思わんし、吉川のこと好きやし」
 
 これは僕に対する罰ゲームなのかサービスなのか、一体どっちなのだろう。吉川のことが好き、とはっきり言ってくれて死ぬ程嬉しいけれど、それと同じくらい恥ずかしいしいたたまれないし、そしてそんな風に浮かれていい場面ではないし。僕はどんな顔をすればいいか分からなくて、頬をひくつかせた。
 
 「兄貴は、堂々と言えんの。堂々と言えるような、理由があんの」
 
 相原の口調は厳しい。僕は自分が責められているような心持ちになって、そっと鳩尾辺りに手をやった。
 
 「……堂々と、言える理由か」
 
 ここに来て、初めて浩一さんが口を開いた。静かで淡々とした、いつもの浩一さんだ。
 
 「ないな」
 
 浩一さんからその言葉が出た瞬間、相原の怒りがごうっと燃え上がるのが目に見えたような気がして、僕は僅かに身震いした。
 
 相原が拳を固める。
 
 やるか。やるか相原。
 
 僕は心の中で「やってまえ!」と叫んだ。
 
 相原は腰を浮かして浩一さんの胸元を引っ掴み、右手で思い切り浩一さんの頬を殴った。良いパンチだった。直後、カラン、という音がする。浩一さんの眼鏡が吹っ飛んで、床に落ちたらしい。
 
 相原はもう一度拳を握った。おっしゃもっかいやってまえ、と言いたいところだったが、ここは店の中だ。あまり騒いで、店員に気付かれてもまずい。
 
 「相原、相原」
 
 僕はどう言って止めればいいのかが分からなくて、アホみたいに相原の名前を繰り返して彼の服を引っ張った。
 
 相原は持ち上げかけた拳をびくりと震わせ、一旦手を下ろした。かと思ったらすぐにもう一度手を持ち上げ、眼鏡を拾おうとしない浩一さんをしばし睨みつける。
 
 僕は再度、「相原」と小さい声で言って、彼の服を掴む手に力を込めた。相原は浩一さんを睨んだまま息を吐き出し、拳を下ろした。それから、どすんと座席に腰を下ろす。
 
 強張ったままの相原の顔を見て、僕は止めない方が良かったんかな、と思った。思う存分、それこそ店からつまみ出されるまで、やらせた方が良かったのかも。彼の今までに苦しみを考えたら、一発なんかじゃ到底足りない気がした。
 
 
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