| ■きみが涙を流すなら 22■
 
 相原への想いを、いい加減どうにかしよう。
 
 ……確かにこれはとってもとっても重要な問題だが、僕はもう一つ、大きな問題を抱えている。家族のことだ。
 
 終業式の日から、毎日のように父親から電話がかかって来るが、僕は一度も出ていない。
 出なきゃ出なきゃと思って携帯電話を掴むところまでは行くのだが、三者面談のことを黙っていたという負い目から、どうしても通話ボタンを押すことが出来ない。
 こちらも、このままにしておく訳にはいかないということは、重々分かっている。
 分かっているけれど、どうしても恐ろしくて立ち止まってしまう。
 
 相原のことと、家族のこと。
 両方をいっぺんに考えるのは明らかに無理な話だ。身心ともにパンクしてしまう。
 じゃあ相原のことを先に考えよう……と思って、頭の中で一人会議を繰り広げるが結論は出ず、いややっぱり、三者面談という期限がある家族のことを先に考えよう、と思ってもやっぱりどうにもならない。
 
 そんなことを繰り返して、僕はどんどん泥沼にはまって行った。
 
 
 相原の「おれ女あかんかも」から一週間。
 
 僕は今日も不毛な一人会議を朝からずっと繰り返し、気が付けば夕方になっていた。
 折角の楽しい夏休みなのに、部屋にこもってベッドの中で丸くなり、日がな一日グルグルしている。
 時間の無駄遣いとは、正にこのことだ。
 
 ……今日は、相原は来るんかな。
 
 僕はごろりと寝返りを打ち、ぼんやりと考えた。
 相変わらず相原はよく我が家にやって来るけど、相原しか友達がいない僕と違って彼には彼の人づきあいもあるから、来ない日もある。
 
 相原が来ないと、ああー何してんやろー女の子と一緒やったらどうしようーとか、また僕はグルグルする。
 
 かといって彼が来たら来たで、僕はときめきとか罪悪感とかに押しつぶされてしまいそうになってしまう。
 そうなると、どうしても僕は動揺を押し隠すことができなくなって、相原に心配されてしまう。気遣われてしまう。それが、とても辛い。
 
 
 その時、枕元に置いてあった携帯電話が鳴った。うつ伏せに寝転がっていた僕は、息を呑んだ。
 最近、電話が鳴るたびにびくついてしまう。
 
 誰だろう。
 僕に電話をかけてくるのは、大抵ふたりしかいない。相原か父親だ。 どちらであっても辛い。
 
 このまま気付かなかったフリをしようか……と思ったが、ゆるゆると手を伸ばして電話を手に取った。
 相手の確認だけしようと画面を見ると、そこに表示されている名前は、相原でも父でもなかった。
 
 『小林』
 
 それが、着信相手の名前だった。
 小林。一秒にも満たない短い時間だが、僕はそれが誰か一瞬分からなかった。
 だけどすぐに、おれを振った男やんか、ということを思い出す。
 
 ……まさか今になって、こいつの名前を目にするとは思わなかった。
 あの日から一度も連絡なんて取っていなかったのに、何で今日になって電話なんてかけて来るんだ。
 よりにもよって、頭のメモリがいっぱいいっぱいになっているこの時に。
 本当にこいつは、こういうタイミングだけは外さない。
 
 出会った当初から、空気が読めない奴だった。
 付き合ってた頃は、そんなところもまあ何となく愛せたけど、無関係になった今は、鬱陶しくてしょうがない。
 
 というか、どうして僕はアドレス帳からこいつのデータを消去していなかったんだろう。
 
 未練?
 
 ……まさか。
 僕は失恋したその日に、相原に恋したのに。そんな訳はない。未練なんかがあるはずがない。そうに決まってる。
 
 あれこれ考えていたら、頭の何処かでプチンと言う音がした。
 
 もう駄目だ。
 脳の中が黄色く染まっていく。
 もう駄目だ。
 
 これ以上何かを頭に入れたら、僕は死んでしまう。
 これが限界かと思った。気が付けば僕は通話ボタンを押して、携帯電話を耳に押し当てていた。
 
 「おう」
 
 開口一番低い声で呟いたら、受話器の向こうでたじろぐ気配がした。
 僕がそんな第一声を発するとは、向こうは思っていなかったようだ。
 
 『し、四郎……やんな……?』
 
 久々に聞く小林の声は、何だか変な感じがした。
 こいつ、こんな声やったっけ?
 
 「何やねん」
 
 『いや、話をしようと思って……』
 
 「何の」
 
 『別れるとき、おれ、何も言わんかったから……』
 
 小林の声は、消え入りそうだった。それが、僕を苛立たせた。訳もなく、腹が立ってくる。
 
 「それは単に、何も言うことがなかったからなんちゃうの」
 
 『ちが……! 言いたいことはめっちゃあってんけど、何か言葉にならへんくて……。
 ちゃんと話をせんとあかんって、ずっと思っててん。ほんまに。
 あんな風に不誠実な別れ方をしたままではあかん、って』
 
 「ああ、そう」
 
 『いや、ほんまにおれ、あのときはどうかしとって……』
 
 「二人目の子ども、生まれたん?」
 
 『え? いや、まだ……』
 
 「男?」
 
 『いや、女……』
 
 「ああそう、良かったな。そんなら絶対ゲイにはならんやん」
 
 『四郎』
 
 「一人目の名前、何やっけ」
 
 『咲、やけど……。え、どうしたん、急に。
 お前、うちの子供の話なんか今まで絶対せえへんかったやん 』
 
 「咲ちゃんか。咲ちゃん。大きくなったら嫁にくれや」
 
 『四郎? 大丈夫か?』
 
 「大丈夫も何もあるかい」
 
 『あのおれ、話、したいんやけど……』
 
 「いらん」
 
 僕は乱雑に、小林の話を遮った。
 あのとき彼が何を考えていたかなんて、聞きたくない。
 
 僕はこめかみを押さえた。頭が痛い。口が止まらない。
 
 「もういい」
 
 自分でも引くくらい、冷たい声が出た。
 小林も僕のこんな声を聞くのは初めてなので、相当戸惑ったようだった。
 
 『もういい、って……』
 
 「今何処おんの」
 
 『え、家の近所やけど……四郎お前』
 
 「仕事終わったん」
 
 『あ、ああ。今日は早めに終わって……』
 
 「うち来いや」
 
 『は?』
 
 「場所知ってるやんな。ええから、うち来いや。今からやぞ」
 
 『……どうしたんや、お前。酔っ払ってんのか』
 
 「セックスしようで」
 
 『え?』
 
 「セックスしようで、って言ってんの。話とか、もういい。しんどいねん。
 ……ええから、やろうで」
 
 僕はそう言って、返事も聞かず一方的に電話を切った。
 ベッドに突っ伏し、力任せに携帯を投げる。
 何かにぶつかったらしく、ガシャンという音がしたが、被害状況を確かめる気力もない。
 
 疲れた。本当に疲れた。
 何もかもが嫌になってくる。もう、身も心も限界だ。
 
 
 
 電話を切って一時間もしない内に、小林は現われた。
 あんな誘い方をした僕も僕だけど、それでのこのこやって来るこの男も大概だと思う。
 
 玄関を開けた瞬間、彼はぎょっとした顔をした。
 
 「うわっ、四郎お前……痩せた?」
 
 そういう小林は、少し太ったようだった。
 付き合っていた頃はシュッとしていた顎の線が、わずかに丸くなっている。
 
 お前は何を肥えとんねんと絡もうかと思ったが、それすら面倒くさいのでやめた。
 小林は僕が痩せたのは自分のせいだと勘違いしたらしく、
 
 「ごめん、おれがちゃんとしてなかったから……」
 
 などとぐちぐち言い始めた。
 僕は無性に腹が立って、彼の脛を蹴った。
 
 「いたっ! な、何やねんお前……」
 
 「入れば?」
 
 僕は、玄関の扉を大きく開けた。
 小林は何かを言いたそうにしていたが、結局黙って家の中に入った。
 
 「四郎ん家、入るん初めてやな……」
 
 靴を脱ぎながら、彼はぽつりと呟いた。
 そう、僕は小林を家に入れたことがなかった。
 家の前まで来たことはあっても、中に入ったことは一度もない。
 両親に借りてもらっている部屋に男を連れ込むなんて、とてもじゃないけど出来なかった。
 
 だけど今は、頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられない。
 頭の隅で、ほんの少しだけ残っていた良心が「やめとけ、やめとけ」と言っているのが聞こえたが、僕は敢えてそれを無視した。
 
 僕は足で、自室の扉を蹴り開けた。
 大股で中に入ると、小林もついて来る。
 
 「……うわ、何か部屋、えらいことなってるやん」
 
 部屋に入った瞬間、小林は驚いたように立ち止まった。
 
 今まで気付かなかったが、室内は荒れ放題だった。服や鞄がそこら中に散らばっているし、先ほど投げた携帯がCDの山をなぎ倒していて酷い有様だった。
 
 「なあ、四郎。ほんまにどうしたんや。何か変やぞ。
 お前、めっちゃきれい好きやったやんか」
 
 「変でもなんでもええからさ」
 
 僕はベッドに腰かけて、手招きをした。
 
 「セックスしようで」
 
 「あのな、おれはお前がどうかしたんかと思って来たんであってな、そんなんじゃなくて話を……」
 
 呆れたように溜息をつく小林の胸倉を、僕は乱暴に掴んだ。不意を突かれた小林の身体が揺れる。
 
 僕は、自分の額を彼の額にぶつけた。頭の中で、ゴツッという重い音がした。
 
 「黙れっちゅうねん」
 
 そう言って、小林の目を見た。
 至近距離だと、眼球が別の生物のように見える。
 
 「やるのん、やらへんのん」
 
 その瞬間、小林の目が「やる気」になったのが分かった。
 これでも一応元恋人だ、その辺のことはよく分かる。
 
 やるんやんけ、と心の中で軽く嘲笑して、小林の肩に手を回した。
 
 
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