| ■きみが涙を流すなら 23■
 
 小林がゆっくりと僕を押し倒す。
 
 唇を合わせると、ニコチンの匂いが鼻を突いた。
 付き合っていた時に、彼は何度も禁煙を試みていたけれど、その度に挫折していた。
 今も、やめられていないらしい。
 
 懐かしさに、胸の中がもぞもぞとしてきた。変な気分だ。
 
 口の中に入って来た舌がやけに熱くて、僕は息を詰めた。
 口腔をなぞられて、思わず向こうの舌を噛んでしまいそうになった。
 小林の舌が動く度に、ここ最近考え込んでいたあれこれが、少しずつ霧散してゆく。
 そのことに、僕はとても安堵した。
 
 これでしばらくは、何も考えずにすむ。
 ……なんてどうしようもない男なんだろう、僕は。
 
 小林は口を離して僕のシャツをまくり、脇腹に手を這わせてきた。
 
 「……うあっ」
 
 久しぶりの感覚に、声が裏返った。
 
 そうか。そうだ。
 人に触られるっていうのは、こんな風にくすぐったくてぞわぞわして気持ちがいいものなんだった。そんなこと、すっかり忘れていた。
 
 小林の指が肋骨を滑る。
 咄嗟に、目をきつく閉じた。
 僕の耳を舐めながら、彼が薄く笑うような気配がしたので、悔しくなって目をこじ開けた。蛍光灯の白い光がまともに眼球を刺す。
 
 そういえば、電気をつけっぱなしだった。シャワーだって浴びてない。
 ええんかな。ええな。うん、どうだってええわ。
 
 「なあ、四郎……。気持ちいい?」
 
 出た。小林のお決まりの台詞だ。
 こいつは、やるときは必ずそれを言う。
 最後にしたときはどうだっけ。言ったんだっけ。全然思い出せない。
 
 「気持いい……けど、何か物足りん……」
 
 そう答えると、小林は泣きそうな顔で笑った。
 
 「はは……ほんまお前、正直やな……。こういうとき絶対、気ぃ遣わへんもんな」
 
 「何でお前に気を遣わんとあか……うわっ!」
 
 突然後ろにぬるぬるしたものを塗りつけられて、僕は大きな声をあげた。
 
 何だこれ。ローション? どっから出した? つうかお前、持って来てたんかい。やる気満々やんけ。何が話をしに来た、やねん。これだから大人って汚い。
 
 そんなことを考えながらも、体がずり上がりそうになる。
 
 「い……いきなりかい……っ」
 
 「だって、四郎が物足りんって言うから」
 
 そう言うなり、指を一本中に入れて来やがった。
 
 「ちょ……あ、あ……あっ」
 
 息苦しさと快感と僅かな痛みが背中を駆け上る。全身が震えた。涙が浮かんで来る。
 
 「う……っ、あ、」
 
 中で指が動く。体中がぞくぞくしてたまらない。 僕は涙声で喘いだ。そうしたら前も掴まれて、一瞬息が止まった。
 
 「おま……っ、それはあかんやろ……っ! あ、あ……っ」
 
 小林は僕の必死の非難を聞こうともしない。僕のをこすりながら、後ろの指を増やしてくる。 僕はもう駄目だった。引きつった喉で掠れた声を上げながら、あっという間に追い詰められて、いってしまった。
 
 
 
 「……なあ、四郎、どうして欲しい?」
 
 いった直後でゼエハア言ってる僕に、小林はそんなことを尋ねて来た。
 僕は思いっきり、彼を睨んだ。
 
 「死ね」
 
 ドスの効いた声でそう言うと、小林は一瞬ぎょっとして、中に入れたままの指を引き抜きかけた。その感触に、僕はまた体を震わせた。
 
 「こ、怖っ。四郎、怖っ。そう来るとは思わんかった」
 
 「はよしろ、ボケ」
 
 「……ちゃんとおねだりしてや」
 
 何がおねだりやねん、死ね変態。そう思ったけど、また体内で指が動いて息を呑んだ。辛い。死んでしまいそうなくらい、辛い。
 
 「分かったから……っ、も、ほんまきつい、ねんて……っ。はよ入れろ、マジで……っ」
 
 切れ切れに言うと、小林は僕の足を持ち上げた。
 えっあの、正常位は腰が痛くなるから嫌なんですけど、と言う間もなく大きな塊が体内に入って来て、僕は悲鳴のような声をあげた。
 
 「ごめ……痛い……?」
 
 小林の声も切羽詰まっている。
 
 「や……、なんか……も、分からん……っ」
 
 僕は首を横に振った。
 痛いような気もするけれど、それ以上に気持ちいい。そして、何故だか妙に幸福な気持ちになった。
 
 こうして誰かと抱き合うことは、とてつもなく幸せだ。
 
 「う……っ」
 
 急に涙がこみ上げて来て、僕は手の甲で目を塞いだ。小林が小さな声で、「四郎……」と呟くのが微かに聞こえた。
 
 「う、あ……う、うう……っ、ああ……っ」
 
 僕はアホみたいに泣きじゃくりながら、小林にしがみついた。
 
 
 
 で、終わってから後悔と自己嫌悪が、怒涛のように押し寄せて来るわけだ。
 
 「あー……」
 
 僕は低い声で呻いて、全裸のままでベッドの上であぐらをかいた。
 頭を掻いて溜息をつく。
 
 僕は何をやってるんだ。
 両親に借りてもらっている部屋に昔の男を連れ込んで、ロクに会話もせずとりあえずセックスして、動物かお前は。猿でももうちょっとマシなんじゃないかと思う。
 
 しかも一番情けないのは、一発やって心身ともに物凄くスッキリしてしまったことだ。
 やる前は何を考えても脳がしめつけられるようで、耐えられないくらい苦しかったのに、今では驚く程頭が軽い。
 
 てことは何だ、僕のこれまでの懊悩は、欲求不満によるところが大きかったということか?
 ……死にたい。今すぐ死んでしまいたい。
 
 「あ、目が正気に戻ってる」
 
 僕の顔を覗き込んで、小林がほっとしたように笑った。
 
 「ああ、良かった。ここ来たときのお前、何か目ぇやばかったもん。微妙に焦点合ってへんかったし」
 
 「さよか……」
 
 僕は力なくうなだれた。正気には戻ったけど、最悪な気分だ。
 
 「なあ、四郎……。やっぱおれが原因なん? それとも、何かあったんか」
 
 何かあったどころの騒ぎじゃないっちゅうねん。そう思った直後、脳裏に相原の顔がよぎった。僕は「うおおお……」と呻き悶えた。
 
 無性に、相原に謝りたくなった。
 ごめん、相原。おれアニマルでごめん。
 そんなこと相原に言ったってしょうがないのだけど、僕は今、全力で相原に土下座がしたい。
 
 ……ここで、ピンポーンってインターホンが鳴って相原が来たら、完全に昼ドラの世界やな。
 
 一瞬そんなことを考えたけれど、慌てて首を横に振った。
 そんなこと言って、本当に相原が来たらどうする。
 
 時計を見たら、二十時前だった。
 この時間なら、もう今日は相原は来ない……と思うけれど、もしかしたら来るかもしれない。
 僕はええかっこしいだから、何時でも来てええよと言ってあるのだ。
 
 「……小林、お前はよ帰れよ」
 
 僕は早急に小林を追い出すべく、彼の服をまとめてぐいぐいと押しつけた。
 
 「えっ、ええっ? おれ、ほんまにやるだけの為に呼ばれたん?」
 
 「ほら、はよ着替えろや」
 
 「お、おいおい……」
 
 「お前ネクタイどこやった? ああ、あったあった」
 
 「いやいや、四郎、おい」
 
 「その前にシャワーか。えっと、場所は」
 
 「四郎!」
 
 小林は僕の肩を掴んで、無理やり自分の方に向かせた。
 僕は構わずシャワーに案内しようとしたけど、予想以上に彼が真剣な表情をしていたので、口を閉じた。小林が、大きく息を吐き出す。
 
 「今言うのも何やけど……。あのときは、一方的に別れるなんて言って、ごめん」
 
 僕も息を吐いた。
 こいつは、男と不倫なんかしてる時点で駄目な人間だけど、律儀で真面目な奴なんだ。そんなこと、わざわざ言わなくても良いのに。
 
 「……もうええって。しゃあないやん。ずっと付き合うわけにもいかへんかってんし」
 
 「……遊びとかじゃ、なかってんで」
 
 「分かってるよ」
 
 「ほんまに、好きやってん」
 
 「知ってるって」
 
 「ていうか、今も……」
 
 「それは死ね」
 
 「ご、ごめん……」
 
 小林は怯んだように、身体を後ろに退いた。
 そのまましばらく間を置いて、再び口を開く。
 
 「四郎は?」
 
 「は?」
 
 「四郎は今、おれのこと……」
 
 僕はぐっと詰まった。
 そして、即答できない自分に愕然とした。
 
 あれ、何これ。おれ、もしかして今、揺れてる?
 叶う見込みのない片思いより、元鞘に収まっちゃえーとか思ってる?
 
 どうせ相原には振られるんだし、それなら、自分のことを好きだと言ってくれる小林ともう一回……。
 
 い、いやいや。何でやねん。おれは、相原が好きなんやって。
 
 小林は、僕の顔をじっと見て答えを待っている。僕は返事をしなくてはならない。だけど言葉が出て来ない。
 
 僕は確かに、小林のことが好きだった。好きで好きでしょうがなかった。
 だから、別れると言われたときは、どうしようもなく悲しくなって泣いた。梅田のど真ん中で人目も憚らず泣いてしまうくらい、小林のことが好きだった。
 
 そのときのことが、頭の中で鮮明に蘇る。
 僕は全部覚えている。頬を滑る涙の感触も排気ガスの匂いも、全てをはっきり思い出すことが出来る。
 
 ……相原が肩を叩いてくれたときの、彼の手の感触も。相原の気遣いが、胸にしみわたってゆく心地も。
 
 喉の奥辺りがギュッとなった。駄目だ。僕はやっぱり、相原が好きだ。
 
 ……それに、小林には家族がいる。
 僕はもうこれ以上、彼の家族を壊してはならない。
 奥さんと小さな子ども、それにこれから産まれてくる赤ちゃんから、彼を奪ってはならないのだ。
 
 家族は大事にしなければいけない。心から、そう思う。
 
 「……おれは、ないよ。今も小林のこと好きとか、そういうのは、ない」
 
 僕ははっきりと言って、首を横に振った。すると小林は眉を寄せて、顔をゆがめた。
 
 「何やそれ……そんなら何で、呼び出したりすんねん。セックスしようとか言うねん……」
 
 「……ごめん」
 
 僕は頭を下げた。
 確かに、いくら自分のことでいっぱいいっぱいになっていたとは言え、僕は彼にひどいことをした。
 
 彼は最初、話をしたいと言っていただけだったのに。
 さっきは、こいつもやる気満々やんけとか思ったけど、そういう風に持って行ったのは僕だ。
 
 僕は本当に最低だ。
 
 「ほんまに、ごめん。……殴ってもええよ」
 
 そう言って顔を上げたら、小林は眉をしかめたまま笑った。
 
 「何でやねん……。殴られなあかんのは、こっちやろ。おれの方が、四郎に酷いことしたやん」
 
 「……それはもう、ええねん。今日のことは、ほんま、おれが悪かった」
 
 僕は小林の目を見て、謝った。
 気のせいかもしれないけど、しばらく見ない間に小林は目元が老けた気がする。僕がこの二か月で色々あったように、彼にも色んなことがあったのだろう。
 
 「……ええよ。何か分からんけど、四郎が元気になって良かった」
 
 小林はそう言って、「帰るわ」と続けた。
 
 「家、帰る」
 
 「……うん」
 
 僕は頷いた。気持はとても静かだった。
 
 
 
 「そんじゃね」
 
 見送りのために廊下に出て、僕は小林に手を振った。
 彼も手を振って一歩足を踏み出しかけたが、またこちらに向き直って僕の手をきゅっと握った。
 
 「……なんやねん」
 
 小林の顔を見上げると、物凄く名残惜しそうな顔をしていたので、軽く脛を蹴飛ばした。
 
 「ほら、家帰るんやろ」
 
 「……また、連絡したらあかんかな……」
 
 「あかんって。もうおれらは終わってんの。今日は例外。二度はないの」
 
 もう吹っ切れた僕は早口でそう言って、小林の手を振りほどこうとしたが、なかなか離れない。
 
 「手ぇ離せやお前……」
 
 小林はしばらくそのままぐずっていたが、「お前、十七のガキに窘められたら終わりやで」と言うと素直に手を離した。やれやれ、と僕はため息をついた。
 
 「そんじゃな、気ぃつけて帰れよ」
 
 「うん……」
 
 小林は頷くも、またしょうこりもなくキスなんざしてこようとするので、僕はちょっと本気の怒りを込めて「もうええっちゅうねん」と言いながら彼の体を押しのけた。
 
 「大体、誰かに見られたらどうすんねん。近所付き合いなんか全然してないけど、それでも世間体は気に……」
 
 僕はそこで言葉を切った。
 少し離れたところに、誰か立っているのが見えたからだ。
 
 廊下は薄暗かったけれど、それが誰だかすぐ分かった。
 
 ……相原だ。
 
 咄嗟に、先ほど「もしここでピンポーンって相原が来たら……」とか考えたことを思い出した。
 
 ほら見ろ。やっぱ来てもうたやん。しかも時間差で。よりにもよって、こんな場面で。
 
 
 
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