| ■きみが涙を流すなら 12■
 
 「お邪魔しまーす……」
 
 中に入った瞬間、「人ん家」の匂いがした。
 良いとか悪いとかではなく、自分の家とは違う匂い。懐かしい感覚だった。小学生の頃を思い出す。
 
 ……人ん家に行った思い出が、小学生まで遡らなければ無いなんて、我ながら情けない。
 
 なんてったってここ数年、明確に言うと自分の性志向を自覚してから相原と親しくなるまで、僕には友達がいなかった。
 一応浮かないように、なんとなくそれっぽく級友たちと付き合っていたけれど、誰ともそれなり以上には親しくならなかった。
 
 だって、しんどいじゃないか。大きな隠し事を抱えながら友達付き合いするなんて。
 今の僕が言うな、という感じだけれど。
 
 僕は頭を振った。そういう不毛な考えごとは、一人のときにやればいい。
 悪い癖だ。今は折角相原と一緒にいるのだから、楽しくやろう。
 
 「家、誰もおらんの?」
 
 尋ねると、相原は玄関に並んでいる靴たちを見やった。
 
 「んー、妹がおるかも」
 
 どきりとした。
 
 妹。香織ちゃん。
 もしかしたら、相原にとって鬼門かもしれない存在だ。
 
 どうにも返事が出来なかった。
 気まずさを誤魔化すようにもう一度、今度は声を張って
 
 「お邪魔しまーす!」
 
 と言って、薄汚れたスニーカーを脱いだ。
 
 
 「とりあえず、おれの部屋行くべき? リビング行くべき?」
 
 廊下を歩きながら、相原はこちらを振り返って言った。
 
 「そんなん、おれに聞かれても知らんがな」
 「あんまり、うちに人呼んだことがないねんなー」
 「そうなん? 何か、意外やな」
 
 そんな会話をしていたら、右手にあった擦りガラスの引き戸が、ほんの少しだけ開いた。
 
 「……誠くん、お客さん?」
 
 扉の隙間から、小さな声がした。擦りガラスに、ぼんやりと華奢な人影が映っている。
 
 香織ちゃん?
 
 「何やっとんねん、お前」
 
 相原は、戸の隙間に手を掛けた。ほぼ同時に、香織ちゃんは「あかん!」と叫んだ。僕は肩をすくめた。なかなか、本気の叫びだった。
 
 「ここ、入ってこんといて! 部屋行って!」
 「は? 何でやねん」
 「さっきお風呂入ったばっかで、人に見せられへん格好やの」
 
 香織ちゃんは小声の早口で、そう言った。
 兄だけに聞こえるように言ったつもりらしいが、残念ながら丸聞こえだった。
 
 どうやら擦りガラス一枚隔てたところに、風呂上りの女子高生がいらっしゃるらしい。
 健全な男子高校生であったならば、最上級に興奮するシチュエーションであると思う。良かったね、香織ちゃん。今日の客がたまたまゲイで。
 
 彼女の兄貴は、呆れたように眉を寄せた。
 
 「何で、こんな時間に風呂入ってんねん」
 「だって、暑かってんもん。今日お客さん来るなんて、あたし聞いてへんかったし。メールしてよー」
 「お前もいっつも、いきなり友達連れて来るやんけ。ていうか、茶くらい淹れさせろや」
 「後で、あたしが持ってくから」
 「おかんは?」
 「買い物行ってる」
 「あそ」
 
 相原と香織ちゃんの会話を、ついつい注意深く聞いてしまう。
 
 家族ゆえの親しさと素っ気無さが混じった相原の態度は、ごく普通に見えた。特に違和感は感じない。
 
 僕は内心首をひねった。
 香織ちゃんと話してるときは普通なのに、彼女がいないところで家族の話題になると、相原の態度は微妙におかしくなる。
 
 それは一体、何なのだろう。
 兄妹って、そんなものなのだろうか。一人っ子なので、その辺はよく分からない。
 
 「そんなわけやから吉川、上行こ。おれの部屋、二階やから」
 「え、お、おう」
 
 相原に肩をつつかれて、僕は考えごとを中断した。
 あまり、彼の家族について考えるのはやめよう。考えたって分からないし、彼が自分から言わないということは、踏み込まれたくないことなのだ。きっと。
 階段を上りながら、僕は何回も頷いた。
 
 
 「部屋、汚いけど気にせんとってな」
 
 そういう彼の部屋は、本当に散らかっていた。足の踏み場がないという程ではないけれど、整理整頓という言葉からは程遠い。
 
 何故か、学習机の上に洋服が積んであった。しかもその山が半壊している。何というか、雄々しい部屋だ。
 
 急にまた、緊張してきた。何処を見て良いか分からない。足元に落ちている日本史の教科書を、意味もなく凝視したりしてしまう。
 
 「適当に座ってー」
 
 そう言って相原は、学習机の椅子に座った。僕はベッドにもたれかかるようにして、床に腰を下ろすことにした。
 
 「人ん家行くの久々やから、何か緊張するわー」
 
 冗談っぽく言った。まだ少し、心臓がドキドキしている。
 これが、相原以外の人間の家であったなら、ここまで緊張しなかったのだろうけど。
 
 「えー、何でやねん。リラックスしろやー。あ、タイガースお宝グッズとか見る?」
 「見る!」
 
 即座に食いついた。ドキドキも何処かに吹っ飛んでしまった。野球は偉大だ。
 
 そのとき、部屋の扉がノックされた。
 
 「おーう」
 
 相原が声をかけるとゆっくり扉が開き、香織ちゃんが顔を覗かせた。
 
 「誠くん、麦茶とお菓子……って何これ、部屋汚っ!」
 
 麦茶と袋菓子が乗ったお盆を持った彼女は、部屋の中を見てのけぞった。透明なコップの中で、氷がカランと音を立てる。
 
 「ええやろ、別に」
 「良くないって。お客さん来るんやったら、掃除くらいしいや」
 
 相原にお盆を手渡しながら、香織ちゃんはぶつぶつと文句を言う。そこで、彼女と目が合った。
 
 「あ……どうも」
 
 ちょっとよそ行きの声と共に、彼女は会釈した。
 僕も、「ども」と軽く頭を下げた。どうも、彼女との距離感を掴むのが難しい。
 
 顔を上げると、また香織ちゃんと目が合った。
 以前会ったときは似てない兄妹だと思ったが、こうして見ると結構似ているかもしれない。口元なんかが、特に似ているような気がする。
 
 「そんじゃ」
 
 短く言って、香織ちゃんは部屋から出て行った。
 
 相原は扉を閉めると、床にお盆を置いた。そして自分も、床に腰を下ろす。
 
 「お宝グッズの前に、食おうぜ飲もうぜ」
 「おす、いただきまっす」
 
 僕は、冷たいコップを手に取った。一気に半分くらい呷る。外が暑かったから、麦茶の容赦ない冷たさが心地良い。
 
 相原は、袋菓子を開けた。
 彼の妹が持って来てくれたのは、昔駄菓子屋でよく買った「キャベツ太郎」の大袋だった。こんなでかいキャベツ太郎を、初めて見た。少し感動だ。
 
 「……吉川は、進路とか考えてる?」
 
 ぽつりと、相原は呟いた。今は高二の夏。そういう時期だ。
 
 「あんまり……」
 
 本当は、あんまりというか全然考えていない。
 何かやりたいことがある訳ではないけれど、大学には行きたい。
 それくらいしか決まっていない。だけどこれ以上、あの両親の世話になるのも……。
 
 ああ、駄目だ。また胸が重くなってきた。
 
 「相原は? 大阪の大学行く、って前言ってたけど」
 
 気を取り直して、相原に振ってみた。
 
 「うん。でもそれ以上は、あんまり考えてないねんなあ……」
 
 彼も、僕と似たり寄ったりらしい。少しほっとした。
 
 「夏休み中に三者面談やるんやんな、そういえば。だるいよなあ」
 
 相原の言葉に、僕は口に入れたキャベツ太郎を、噛まずに飲み下しそうになってしまった。
 
 「え、三者面談? 何それ?」
 「今度日にちとか決めるプリント配るって、こないだホームルームで言ってたやん。なんやお前、真面目そうな顔して、結構担任の話聞いてへんな」
 「そんな話、してたっけ……」
 「してたっつうねん。そういえば、お前んとこってどうすんの。面談の日だけ帰って来はんの?」
 
 肩甲骨あたりが、冷たくなってきた。相原の声が、どこか遠くに聞こえる。
 
 三者面談。言われてみれば、そんなような話を薄ぼんやりと聞いたような気もしないでもない。もしかしたら無意識に、聞こえないフリをしていたのかも。
 
 担任と僕と母親で、面談?
 約半年間、彼女と一切口をきいていないのに。無理だ。無理すぎる。
 
 それじゃあ、親父に頼む?
 いや、親父との間にもまだ、深い亀裂が走ったままだ。無理だ。ありえない。
 
 まだ、両親に会う勇気はない。多分、向こうも嫌がると思う。
 
 「どうする……んやろ。か……考えただけで恐ろしいわ」
 
 僕の声は、ガチガチに硬くなっていた。取り繕う余裕も何もない。普段なら呑み込む類の言葉が、口からこぼれていく。
 どうやったら三者面談という障害を回避できるか、一生懸命考えるが全く良い案が浮かばなかった。
 
 「……何か、あかんの?」
 
 相原は少し声の調子を落として、そう尋ねてきた。
 
 「いやちょっと……家族仲が、なんというかこう、いけてないというか」
 
 あそこまで挙動不審になってしまったら、もう隠すことも出来ないので、僕は素直にそう言った。
 
 彼はどんな反応をするだろう。引かれるだろうか。引かれたらどうしよう。
 
 「あ、やっぱり?」
 
 僕の心配をよそに、彼はけろっとした口調でそう言った。
 
 「や、やっぱりって?」
 「いやだってこないだ、阪神戦の中継があるから大阪に残った、とか言ってたやん。何か引っ掛かっててん」
 
 やはり、あの言い訳は稚拙過ぎたらしい。急激に恥ずかしくなってきた。
 
 「深刻なん? いけてない家族仲は」
 「深刻……かなあ……。時が解決してくれたらいいな、的な感じ……?」
 
 解決してくれるかどうか、分からんけど。
 そう思いつつ、ぼそぼそと答えた。
 
 「ああ、なるほどな。そんじゃ、担任に『両親どっちも、どうしても大阪に帰って来れない』とか言ってみたらどうやろ。免除してくれるかもよ」
 
 相原は、キャベツ太郎を口の中に放り込んだ。直後、「からっ!」と顔をしかめる。
 ああうんそうそう、キャベツ太郎ってたまに、ソースの粉が集中的に付いてる奴があるよな。
 
 「そ、そんなんで免除されるかあ? どうにかして帰って来い、って言われるんちゃうん」
 「何か、適当に深刻っぽい理由つけたらいいやん。大体、三者面談しないと受験って出来へんもんなんか? その辺、よう分からんわ」
 「親も、子どもの進路を把握しとかんとあかん、てことなんやろ、やっぱ」
 「それにしてもわざわざ、学校まで行かんでええやん。どんだけテスト隠しても、三者面談なんかしたら全部パアやもんな……」
 
 相原は、せつなげに溜め息をついた。
 彼の真剣な表情に、思わず吹き出してしまった。
 
 さっきまで、これ以上ないというくらい底辺まで落ち込んでいたのに。相原はすごい。
 それに、家族が上手く行っていない理由を追求せずにいてくれたのも、物凄く嬉しかった。それでいて、気持ちが軽くなるように会話を持って行ってくれた。
 
 駄目だ。僕はやっぱり、こいつが好きだ。
 
 
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