■あなたのとりこ 08■
その日の昼過ぎに、相原がやって来た。もう二度と相原が来なかったらどうしよう、と半ば本気で怯えていた僕は、とりあえず深く安心した。
「よーす」
相原は、そう言って笑う。何か深刻な話がある様子でもなく、いつもどおりの相原だった。普段と変わらない、爽やかで真っ直ぐな相原。僕は更に安心した。セーフ……ということで良いんだろうか。「ふられたときの三ヶ条」は、胸の奥に引っ込めても大丈夫なのだろうか。
「吉川、どうしたん。 何かしんどそうやけど」
相原は靴を脱ぎながら、目を細めた。本当に、彼は僕のことをよく分かっていらっしゃる。どうして彼は、こういうときばかり鋭いのか。僕は曖昧に笑って、首をかしげた。
「ええーそう? 何もないけどなあ」
「ほんまに?」
「ほんまにほんまに。ああでも、寝起きやからそう見えるんかも」
「なんや、寝てたん?」
僕の適当な言い訳に、相原は微笑んだ。 僕もつられて笑顔になってしまう。どんなときでも、相原の笑顔は幸せだ。
「相原、外暑かった?」
「いやー、今日はそうでもないかなー」
なんて他愛もない会話を交わしながら、ふたりで居間に入る。相原は「何か飲んでいい?」と言って、キッチンに向かった。
「うん、好きなん適当に飲んで」
返事をしながら、僕はソファの足下に腰を下ろした。ボーっとしているのもなんなので、テレビをつける。ちょっと前に放送されていたドラマの再放送を流しながら、こっそりと深呼吸をする。
きっとこれから相原は、小谷に告白されたことを僕に話してくれるのだろう。その話を、僕はどんな顔をして聞けば良いのだろうか。そう考えると、僕は急に緊張してきた。手にやたらと汗が浮かぶ。気持ちがそわそわしてしょうがない。
相原は、牛乳パックとコップを持って戻って来た。が、彼の口から出るのは野球の話題や学校のことなどばかりで、会話の中に小谷のこの字も登場しなかった。ここに来るまでに小谷と会っていたはずなのに、そんな素振りは全く見せない。
何時その話が来るか、今か、ここか、と身構えていた僕は、別の意味でそわそわしてきた。一体何時になったら、その話が出るんだ。ここか。まだか。まだなのか。
小谷の話が出ないまま野球中継が始まり、五回裏が終わったところで僕のそわそわは、苛立ちへと変わった。
ちょっと待て。もしかしてこいつ、何も言わん気か?
阪神が負けていたから、というのもあるのかもしれないが、僕は腹の中がむずむずして仕方がなかった。他の女に告白されて断ったのなら、恋人に言うもんじゃないのか? 言うだろ。いや、言うよ。おれだったら言う。黙っておいて、その事実を人づでに相手が聞きでもしたら、色々と面倒なことになるじゃないか。だから、お前も言えよ。言ってくれ。言えっちゅうねん!
「……あのさあ、相原」
僕はたまらず、相原に声をかけた。彼はテレビから視線を外し、「うん?」と言ってこちらを見た。いくら苛々しているとはいえ、直球で彼に問い質すことも出来ず、
「今日って、午前中何してたん」
と、軽い口調で尋ねてみた。すると相原はきょとんとした表情で、
「え、何で?」
と聞き返してきた。僕のこめかみが、ひくりと動く。本気で言わない気か、こいつは。
相原から前々から指摘されていて、自分でもそう思うのだけれど、僕はどうも相原に遠慮しすぎる傾向がある。彼に嫌われるのを恐れるあまり、どうしても猫をかぶってしまう。が、その皮も、そろそろはがれそうだった。内側からふつふつと炎が上がるのを、止めることが出来ない。
「いや……相原、お前さあ……何かおれに言うとかなあかんこと、あるんちゃうん」
「えっ?」
そこで初めて、彼は動揺を見せた。表情が半笑いのままで固まっている。僕は身を乗り出して、畳みかけた。
「あるよな? あるやんな? 今日ここに来るまでに、何かあったよな? な!」
「え、ちょ……ちょっと待って。何、吉川お前、知って……」
「何、黙ってやりすごそうとしとんねん! ちゃんと言えや!」
僕はそう言って、相原の後ろ頭を平手で張り倒した。全くの無意識で、自分の行動にびっくりした。えっ、相原どついてもうたぞ、おい!
「こ……こっええ……」
相原は目を見開いて僕がどついた部分を手で押さえ、呆然としたように呟いた。僕は急激に頭が冷えてきて、どうしようもない羞恥と申し訳なさに襲われた。
「で? おれに言うことは」
今更引っ込みがつくはずもないので、僕は相原の目を見て、強い口調でそう言った。
「あの、はい。ええと……小谷に告白されました。いや、あの、ちゃんと断りましたんで」
何故か敬語で、相原が答える。彼の口からその言葉を聞いて、胸がすっと軽くなった。それと同時、そんなに怖かっただろうか、とまた恥ずかしくなる。
「うわあ……めっちゃびっくりした……! 吉川に怒られたん、初めてや」
めっさドキドキ言うてる、と相原は心臓を押さえた。僕は顔を覆いたくなった。自分は一体、どんな顔をしていたのだろう。
「ご、ごめん。だって、相原が黙ってるから」
「まさか、吉川にどつかれるとはなあ。いやあ、ほんまびっくりした」
感慨深そうに、相原は後ろ頭を撫でた。
「だ、だから、ごめん言うてるやん!」
「ううん。ちゃんと言わんかったおれも悪いやんな。でもお前、こないだ、おれと小谷が仲良くしてるって、ちょっと気にしてたやん。だから、言うたらまた気にするかな、って思っててんけど」
その言葉に、僕はしっかりと首を横に振った。
「黙っとかれんのが、一番嫌や」
そう言うと、相原はふっと表情を緩めた。
「それもそっか……。そうやんな」
頷いて、相原は「ごめんな」と謝ってくれた。それが彼の、心からの言葉であることが充分伝わってきたので、僕はもう一度、首を横に振った。
「……でも吉川、何でそのこと知ってんの?」
ふと思い出したように、相原が尋ねた。僕は一瞬、返事に窮してしまった。どう答えようと逡巡しかけたが、相原がちゃんと話してくれたのだから、僕も嘘は無しにしようと思った。
「だっておれ、小谷から聞いたもん。今日、相原に告白するって」
「へ? 何で?」
相原が曇りのない瞳でそんな風に言うので、僕は胸の底から息を吐き出した。
「……お前さあ、前におれが小谷から相談受けた、って覚えてへん? あいつに、好きな人がおるからって」
「え? ええー?」
彼は数秒間上を向いて考えていたが、やがて思い出したらしく、「ああああっ!」と、大きな声をあげた。
「えっ何、あれってそういうことっ? そういうことやったん!?」
「そういうことですよー。今になるまで気付かへん、お前をちょっと尊敬するわ、おれ……」
「えええ、何それ! おれそんなん、いっこも聞いてへん! ええー何で黙ってたん! お前の方が酷くないか、それ!」
「い、いや何でよ! そんなん、言えるわけないやん!」
「ちょっと待って、吉川が小谷に呼び出されたんて、いつやった? 結構前なんちゃうん。うーわーその間、ずっと隠されてたんや、おれ。うわー傷付くわあ」
芝居がかっているとはいえ、何だか本気で切なそうな溜め息を吐かれて、僕は慌ててしまった。
「そ、それは申し訳なかったと思うけど! でも! おれの口から『小谷がお前のこと好きやねんて』って聞いても、お前やって困るやろっ?」
僕は、必死で言い募った。こんなこと(……と言ったら小谷に申し訳ないけれど)で、相原と揉めたくない。
「それはまあ……そうやけどさあ」
渋々ではあったが、分かってくれたようなので僕は胸をなで下ろした。それから、気になっていたことを相原に尋ねてみることにした。
「……そういえば、相原。小谷に告白されて、何て言って断ったん」
「うん? 普通に断ったで」
「普通に、って言われても分からん。何その、振り慣れてます的な発言。腹立つわあ」
「いやいや、何でそうなんねん。何で僻んどんねん」
相原は笑った。だけど実際、こいつは断り慣れてるんだろうなあ、と思った。が、そのことはあまり考えないことにした。精神衛生上よろしくない。今は、現在の話をしよう。
「だから普通に、付き合ってる人おるから、って言うたんやって」
相原が何でもないことのように言うので、僕は「えっ」と声を詰まらせた。
「い、言うたん!?」
驚きのあまり、声が大きくなってしまった。相原はそんな僕の勢いにびっくりしたようで、一瞬身体を後ろにそらした。
「な、何よ。別に、お前の名前は出してへんて」
「いや、そうじゃなくて……! だって、お前のことをよくよく観察してたら、彼女いないってことは分かるやん。そういうのが巡り巡って、おれらのことがバレたら……」
僕の言葉が終わらない内に、相原の「考えすぎやって!」という言葉がかぶさってきた。
「もうほんまにさあ、吉川は考えすぎやねんて! 誰もそこまで深読みせえへんから! おれ、友達とかに彼女おるかどうか聞かれたら、普通に、おるって答えるで? どんな子かって聞かれたら、適当に誤魔化すけど」
「え、マ、マジでえっ?」
「……マジで、ってお前。ちょっと待って、吉川は、彼女おるかどうか聞かれたら、おらんって答えてんの? おれがいるのに?」
相原の顔色が変わったので、僕はやばいと思い始めた。これは、こじらせると相原を本気で怒らせてしまう気がしてならない。
「い、いや、ちゃんとおれも、おるって言うてるって」
「はい、もっかい、おれの目を見て言うてみ」
相原は、両手で僕の肩を掴んだ。ちょっとこれは本気でやばいんちゃうん、と僕は頬を引き攣らせた。
直後、床に放り出していた僕の携帯が震えた。僕も相原も、ほぼ同時に携帯の方を見る。
『メール着信:小谷唯』
外装のウィンドウにそう表示されているのが見えて、僕は慌てて携帯を拾い上げた。
「あっ今、見えた! 何か見えたで! また何か、裏でこそこそやる気やろ!」
僕は咄嗟に、携帯を隠すように相原に背を向けたが、相原はその背中に乗っかってくる。背後から手が伸びてきて、携帯を取ろうとするので、僕は慌てて、
「わ、分かったから! 見せるから!」
と叫んだ。すると、相原は携帯を奪おうとするのは諦めてくれたが、僕の背中にびったりくっついて離れない。うわあ何かやりにくいなあ……と思いつつ、携帯を開く。小谷からのメールは短かった。
『ふられちゃいました。
明日、話を聞いてもらっても良いですか?』
僕の胸に痛みが走る……よりも早く、相原が口を開いた。
「うっぜええー」
本気でうっとうしそうに言うので、僕は軽く衝撃を受けた。どう見ても気の毒なメールなのに、うざい、なんてコメントが飛び出すとは。
「お、お前、なんちゅうこと言うねんな!」
「だって、うざいやん。そんなもん、女に聞いてもらったらええやん。何で男にメールすんの。何か打算くさいわあ」
相原の声には、棘があった。彼の中には「小谷は香織ちゃんに似てる」というイメージが存在するので、そういう偏見が生まれるのだろう。そう思うと、何だか切なくなった。
「小谷は、そんなんちゃうって」
「えらい、小谷に対する評価高いやん。……そんで、何て返信すんの」
「良いよー、って返すよ」
僕はそう答えながら、早速返信ボタンを押して文章を打ち込んでいく。
「えっ、お前、小谷と会うん?」
相原が両手で、ぎゅっと僕を抱きしめた。嬉しい……けれど、メールが打ちにくくなってちょっと困る。
「うん、会うよ」
「ええー、浮気やん!」
「何でやねんな! 相手は女やでっ?」
僕は、ついつい吹き出してしまった。そして、相手が女だから浮気にはならない、という自分の言い分も、ゲイだから当たり前なのだけどおかしくて、更に笑いがこみ上げてくる。
「吉川お前、ほんっまに、女あかんねんやんな?」
背後から、物凄く真剣な声が飛んできたので、僕は声をあげて笑ってしまった。
「お前にそんな心配されたくないっちゅうねん!」
それはこっちの台詞じゃ! と、僕は心の中で叫んだ。それでも相原はなかなか納得してくれなくて、説得するのに随分時間がかかった。物凄く骨の折れる、だけど幸せなひとときだった。
小谷のことを思うと、胸が痛む。しかしやっぱり、僕は幸せだ。それだけはもう、動かしようがない。
次 戻
|