■あなたのとりこ 09■


「そ、そんじゃ、行ってきまーす……」

 スニーカーに足を突っ込んで、僕は後ろを振り返った。そこには、不機嫌そうな顔をした相原が、腕組みをして立っている。

「行ってらっしゃーい」

 眉間に深い皺を寄せて、彼は低い声で言った。昨日から、ずっとこの調子だ。僕は苦笑した。

「……そんな怒んなって、相原。小谷の話も聞いたらんと可哀想やん」

 お前には分からへんかも知らんけど、失恋って、ほんまにほんまに辛いんやぞ、と僕は声に出さずに呟いた。相原は、より一層不満げな顔になる。

「それは昨日、何回も聞いた。だから別に、行くなとは言うてへんやん」

 彼は口を尖らせた。僕は更に苦い気持ちになりながら、玄関の扉に手をかけた。

「そんなら、おれ、行ってくるから」

「……うん、はよ帰って来てな」

 そんなことを言う相原が非常に可愛かったので、僕はつい笑顔になってしまった。そして出来るだけ早く帰って来よう、と思った。

 外は今にも雨が降りそうで、まだ昼過ぎだというのに薄暗かった。重く垂れ下がった雲の下を歩きながら、僕は息をついた。

 相原の気持ちも分かる。立場が逆だったら、多分僕は相原以上にめちゃくちゃ嫉妬していたことだろう。だけど僕は、小谷の話を聞いてやりたい。だって、友人(と、僕が一方的に思っているだけだけど)が苦しんでいるのなら、出来ることは何でもしたいじゃないか。



  待ち合わせ場所のマクドに現われた小谷は、思っていたよりずっと普通だった。にこにこ笑って席に座り、

「ごめんね、わざわざ来てもらって」

  と謝るので、「ううん、そんなんええよ」と返す。もっと憔悴してるんじゃないかと心配していたので、僅かにほっとした。それと同時に、失恋翌日にこんな風に笑えるって凄いな、と思った。僕はもっとグダグダだった気がする。

「メールした通り、ふられちゃった」

 小谷は軽く笑った。ふわふわの、茶色い髪の毛が揺れる。僕は何とも答えられなかった。

「でね、吉川に謝りたいことがあんねんやんか」

「え、何を?」

「……相原、付き合ってる人がいるって、昨日聞いてんけど」

「う、うん」

 僕は唾を呑み込んで、コーラの入った紙コップをぎゅっと握った。彼女は手元に視線を落とし、言葉を続ける。

「相原に彼女がいるのを知ってて、あたしの話に付き合うのって、しんどかったんちゃうかな、って思って……」

「え、いや、そんな」

 当惑して、僕は首を横に振った。いや、確かに僕の立場で彼女の話を聞くのは、しんどいというか微妙な心持ちではあったけれども。だけど、謝ってもらう程のことではないと思っている。

「ごめんね」

「い、いやいやいや、そんなん、全然いいし」

 僕はすっかり狼狽してしまった。それと同時に、自分のことでいっぱいいっぱいになって当然の状況なのに、僕なんかのことに気を回す小谷に感じ入った。ほら見ろ、相原。めっちゃ良い奴やん、こいつ。

「被服室で話したときに、吉川、『相原に彼女がいるかどうか、聞かんでいいの』って言ってたやん。ああーそれってそういうことかー、って思ってさあ。それやのにあたし、空気読まんと聞きたくないとか言って、吉川に半ば無理矢理話聞いてもらっちゃって……。ほんま、もう恥ずかしいし申し訳ないし」

「いやいや! ほんまに、そんなん全然、おれはええねんて。ほんま、いや、うん」

 動揺が大きくなりすぎて、段々自分が何を言っているのか分からなくなってきた。小谷はぺこりと小さく頭を下げる。

「吉川、ほんまにごめんね」

「いやあの、ほんま、謝らんといて」

 僕の声はどんどん小さくなっていく。彼女が謝ることなんて何もない。謝らないといけないのは、むしろ僕の方だ。

「うん、でも、相原に彼女がいるって知ってたのに、最後まで見守ってくれてありがとうね」

 小谷はそう言って、柔らかく微笑んだ。相原を射止めることは叶わなかったけれど、とてもとてもとても魅力的な笑顔。そんな風に言ってもらえて、僕は素直に嬉しかった。

 それから彼女は少し照れくさそうな顔つきになり、

「今日はどうしても、これを直接言いたくて」

 と言った。僕も何だかくすぐったくなって、口元をもぞもぞさせた。

「あー……でも、ほんま、アホやった、なあ……」

 トレイの縁に手を置いて、小谷は下を向き深く息を吐いた。そのまま彼女がしばらく動かないので、僕はぎょっとして腰を浮かせかけた。

「こた……っ!」

「ご、ごめん! ちょっと待って、ちょっと待ってね!」

 慌てた様子でそう言って、小谷は僕から顔が見えないように手のひらで壁を作った。失恋した直後にあんな風に笑えて凄い、なんて思ったけれど、彼女は単に強がっていただけだったんだ。そりゃそうだ。ずっと好きだった相手に振られて、心から笑える人間なんていない。そう思うと、腹の底がぎゅっと苦しくなった。

「こ、小谷、いや、あの」

「大丈夫!」

 僕の声に、小谷の声がかぶさる。彼女は全身に力を込めて、涙が出そうになるのを必死に堪えているようだった。

「ほんま大丈夫やから、ちょ……っと待って」

「だ、大丈夫じゃない、っぽいけど」

「ああもう……何、何やってんの、あたし。今日泣かない為に、昨日めっちゃ泣いて来たのに」

 彼女の声音は、輪郭を失ってぶわぶわになっていた。顔を伏せて耐え続ける彼女を見て、僕はいたたまれなくなった。

「いや、ええよ、小谷。泣いとこうや、そこは」

「嫌やって! だって、振られた相手の友達の前で泣くとか、ウザすぎるやんか」

「ほんま、ええって! おれも失恋したとき、アホほど泣いたし」

「ちょ……っ、やめて、決心が崩れる」

「いっとけ、いっとけって」

 僕は真剣な口調で、いっとけいっとけ、と繰り返した。泣きそうな女の子に向かって、いっとけいっとけ、とけしかけるのは何かが違う気がするが、僕もあまり冷静でなかったので、その辺は許してもらいたい。  

  小谷はとうとう我慢が出来なくなったらしく、ひとこと「う……っ」と小さく声を漏らし、両手で目元を覆って下を向いた。彼女の細い肩が震えている。小谷は無言で、泣いた。

 泣いとけ、と勧めておきながら、いざ泣かれると僕は完全に動揺してしまった。何処を見ていいか分からないし、意味もなく手をそわそわと動かしてしまう。

 小谷は傍らに置いていた小さな鞄の中からハンカチを取りだし、無造作に目元をぬぐった。

「……ていうか相原もさあ、彼女おるんやったら、他の女に優しくするなよ! そんなん勘違いするやんか!」

 涙でぶれた声を絞り出す小谷に、僕は思わず、

「そうやんなあ! おれも、めっちゃそう思う!」

  と全力で頷いた。掛け値無しの本音だった。彼女は、ぱっと顔を上げた。涙で濡れても、小谷は可愛かった。

「吉川もそう思うっ? あんなん、彼女やって可哀想やんなあ!」

「いやもう……ほんまに! ほんっまその通りやと思う!」

 僕は、首がちぎれそうなくらい激しく頷いた。ありがとう。ありがとう小谷! 分かってくれてありがとう!  ……と言いそうになるのを、必死に我慢した。こんな状況ではあるけれど、相原のはた迷惑な天然さについて、共感出来ることが非常に嬉しい。

「もー、むかつく! 何か分からんけど、めっちゃむかつく!」

「うんうん、むかついて良いよ小谷は!」

 僕は何度も頷いた。しばらく僕たちは、「相原むかつく」「分かる分かる」というやり取りを繰り返した。

 ややあって、小谷はもう一度目元をハンカチで押さえた。それから、長い長い溜め息をつく。

「はあ……すっきりした」

 小谷の言葉に、僕は少し心が軽くなった。ちょっとでも彼女の役に立てたなら、何よりだ。彼女は涙ももう止まったようで、恥ずかしそうにハンカチを握った。

「何か、ほんと……ごめんね、吉川」

「いや、ええって、ほんま。すっきりしたんやったら良かったやん」

 僕は笑って、手を振った。小谷も、ほっとしたように笑顔を見せた。今度は強がって笑っているわけではなさそうだった。僕はそれにも嬉しくなった。そして僕は喜びと安堵で、すっかり気が緩んでしまった。

「うん、やっぱ小谷は笑顔がええよ」

 何も考えずに、僕はそう言った。小谷が、意外そうに目を見開く。

「え、そう?」

「うんうん。小谷は普段から可愛いけど、笑顔がいっちゃん可愛い」

 本当に、何気ないひとことのつもりだった。常々思っていたことで、深い思惑は全くなかった。僕は油断しきっていて、自分の失言に全く気が付かなかった。彼女の顔がみるみる内に赤くなるのを見ても、一瞬何のことか分からなかった。

「な、何ゆってんの!?」

 小谷は僕の肩をドンと突いた。そこで初めて僕は、あれっもしかしてこれはヤバイんじゃないか、と思い始めた。

  もしかして僕は、やってしまったんじゃないか。よく考えたら、さっきの台詞はまずかったんじゃないだろうか。自分にとって女性は恋愛対象じゃない、小谷はおれの友達、という前提で軽くあんなことを口走ってしまったが、小谷はこちらの事情なんて何ひとつ知らないのだから、口説いてると思われたんじゃないか。

  ようやくそのことに気が付いた。しかも何だか、小谷も嫌がっていない。ちょっ、と待ってくれ。やばい。これは本気でやばい。

「いや……っ、あの、ち……ちが……っ」

 違う。違うんだ。違わないけど、違うんだ。

 パニックになってしまって、口が上手く動かない。頭も全く働かない。泥沼だ。なんということだろう。何だこれ。おれは相原か。相原級の迂闊さに、頭を抱えたくなった。

  そして、相原という名前が頭に浮かんだ瞬間、こんな展開になってしまって相原になんて言い訳すれば良いんだ、と恐ろしくなった。話を聞くだけ、と言っておいてこのていたらく。口は災いの元、とは正にこのことだ。

 小谷は顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。多分僕も、真っ赤な顔をしていると思う。

 
 ああ、小谷が、小谷を、相原が、あいはら、ああ。


 ああ、ああ!

 僕は愚かだ。本当に、愚かだ!




とりあえず、おしまい!