■あなたのとりこ 04■


 そういうわけで、思わぬところで小谷に同情というか何というか、とかく複雑な感情を抱いてしまってしばし悶々とした僕だが、相原とふたりで野球見て和んでセックスしたら全部忘れてしまった。自分でも、この単純さに呆れてしまう。いや、人間なんてそんなもんだ。多分。

  ああ、だけど、明日からは少し小谷のことを静かな心で見ることが出来そうだ。なんせ彼女は、とりあえず僕の脅威ではなくなった。それに関しては、非常に心が軽くなったので良かった良かった。

 ……と思ったのだけれど、翌朝教室に着いて相原と小谷が談笑しているところを見た瞬間、やっぱり胸の中がモヤッとした。イラッではなく、モヤッ。微妙な心持ちだ。

 相原に声をかけようか、いやでも話に割り込んで行くのも何だし、と悩みながらのろのろ教室に入って行くと、相原が僕に気付いて手を振った。

「吉川!」

 相原はやけに弾んだ声をあげ、ちょっと来てちょっと来て、と僕に向かって手招きをした。小谷との話がまだ途中のようなのに、良いんだろうかと思いつつ僕は相原の席に近付いた。

「おはよー。どうしたん、相原。何かええことあったん」

 そう言うと、彼はいつも以上に良い笑顔を見せた。あまりに眩しいその笑顔に、僕はポーカーフェイスを保つのに苦労した。

  そしてその後ろで一瞬、小谷がかすかに切なそうな顔をするのが視界に入ってしまった。慌てて目をそらすが、見てしまってものを消すことは出来ない。にわかに僕の胸に芽生えた気まずさは、しかし直後の相原の言葉で全て吹き飛んだのだった。

「おとんがさ、甲子園のチケットもらって来てん」

「マ、マジで!?」

 甲子園のチケット、と聞いた瞬間僕のテンションは極限まで上がった。小谷の存在も消え去った。

「マジマジ! めっちゃマジ!」

 相原ががっしと僕の手を握るので、上昇しきったボルテージに任せてその手を握り返す。あっ学校やのに、という考えがチラついたが、これくらいなら平気だろうと思い直す。

「九月二十八日中日戦。行くよな? なっ?」

 相原の目がきらきらしている。多分僕も、同じような表情をしているのだろう。

「行く! 何があっても行く! ちなみに、席ってどのへん?」

「グリーンの七列目」

「ちょ……っ、めちゃめちゃ良い席やん! おとんグッジョブ!」

 僕は感動の余り、声を震わせた。グリーンシートは一般発売されていない、年間予約のみの席だ。つまり一介の高校生が自力でグリーンシートのチケットを取ることはまず不可能であり、何らかのコネが無いと立ち入ることが出来ないわけだ。

「やろっ? やろっ? ちょっと凄いやろ?」

「うん、すげえ! めっちゃすげえ!」

 周りを全く気にすることなくはしゃぐ僕らを見て、クラスメイトたちが笑う。

「お前ら、どんだけ野球好きやねん」

「もう、阪神と結婚しろよ」

 なんてツッコミも入る。僕のクラスでは野球好きは少数派なので、僕と相原が阪神その他について盛り上がるとき、周囲の反応は概ねこんな感じだ。

 そして他のクラスメイトたちと一緒に、小谷も笑っているのが見えた。一見すると、普通の笑顔だ。同じクラスのバカな男子の盛り上がりを、少々呆れつつも笑ってしまう、みたいなそんな表情。

 だけどその向こうに、僕には色んなものが見える。直前まで自分が相原と楽しく話してたのに……という、がっかり感と切なさ、こんな風に無遠慮に相原と接することの出来る男友達に対する羨み、そしてそれらを顔には出すまいという懸命な努力が全部手に取るように理解出来てしまってああもう何というか正直気まずい! 気まずすぎる!

 僕も少し前までは小谷と全く同じ立場だったので、彼女の気持ちがめちゃくちゃよく分かる。相原に片想いしていた時期は、僕もそうだった。相原と無邪気にじゃれるクラスメイトを見ては、ああ良いなーおれもあんな風に相原と絡めたらええのになあと羨望の念を抱きつつ、いや多くは望むまいと自分を律していた。そしてあまりジロジロ見ては不審がられるので、平静を装って努めてそちらを見ないようにし……っていかん、色々思い出してきた。

  くそ、分かるぞ小谷! 片想いって辛いよな! ほんと、辛いよな!

「え……ちょ、吉川、泣く? そこまで感動せんでも……」

 気が付けば、相原が僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。どうやら僕は小谷に感情移入しすぎて、泣きそうな顔をしていたらしい。

「い、いや泣かへんがな! 何でやねん!」

 僕は慌てて首を横に振った。相原の中では完全に、吉川イコールよく泣く、という風に位置づけが固められてしまっているらしい。何という屈辱。しかも甲子園のチケットで泣くと勘違いされるとは。僕の涙腺は、いくらなんでもそこまで脆弱ではない。折を見て、誤解を解かなければ。

 相原の肩越しに小谷の姿を見やると、彼女は仲の良い女子に声をかけられて、そちらに向かうところだった。なんとも言えない気持ちで、彼女の細い後ろ姿を目で追おうとしたが、途中でやめた。

 あまり、小谷のことを意識するのはよそう。彼女に同情したり共感することも、あまり良くない気がする。何より彼女に失礼だ。僕は相原と付き合っているわけだから、言葉は悪いけれど勝者の余裕、みたいな感じもするし。

  それに正直、小谷のことよりも、周囲に相原とのことがばれないように気を遣ったり、少し前まで揉めていた両親との歩み寄りなど、大事なことは山積みだ。

 割り切ろう。僕はそう決意した。小谷のことは考えない。小谷が相原に近付くのを見ても、なるべくスルーする。僕にはもっと、考えることがあるはずだ。うん。

 ……とは言っても、なかなか割り切れないのが人間というやつだ。どうしたって相原と小谷が一緒にいると気になるし、嫉妬してしまう。頭では分かっていても、感情がついていかない。

ああ、僕は本当に愚かで矮小で狭量だ。



「あの、吉川」

 休み時間、トイレに行こうと教室を出たところで、何故か小谷に声をかけられた。相原と三人で会話をしたことはあれど、直接対面で話したことはほとんどないので、僕は少々戸惑ってしまった。何だ何だ。一体何の用だ。

「あ、ああ。何やろ」

 僕は、小谷と向かい合った。彼女は今日も女子らしくて可愛らしい。ふわふわの髪の毛が、顔の横の方で不思議な感じにまとめられて、後れ毛が揺れている。

「ええと……」

 小谷は言いにくそうに、大きな瞳をぱちぱちさせた。それから周囲の目を気にするように、小声の早口でこう言った。

「ちょっと聞きたいことがあるねんけど、放課後残ってもらってもいい?」

「えっ?」

 僕は思わず聞き返した。意味が分からなかったからじゃない。物凄く不穏な気配がしたからだ。

  小谷が、僕に聞きたいことがある、だと。そんなもん、百パーセント相原のことじゃないか。何故か、直接対決とか天王山とか、そんな言葉が頭を飛び交った。

「い、いや、そんな大したことと違うねんけど!」

 小谷は焦ったように手を振り、声を大きくした。それから再び声のボリュームを落として、

「あの、い、良いかな?」

  と尋ねてくる。

 僕は一瞬迷った。彼女が何を聞きたいのか知らないが(大体想像はつくけれども)、ふたりで相原の話をして、僕は平静を保っていられるだろうか。きちんと、「相原の友人」を演じることが出来るだろうか。女の勘は凄まじい上に、僕たちは同じ相手を好きなのだ。相当上手く立ち回らないと、気取られる確率はアップするんじゃないだろうか。

 ……いや、よっぽどのことが無い限り、普通の女子高生が「こいつホモちゃうか」なんて思うはずがない。大丈夫、今まだだって自分の性癖をノンケの人間に見抜かれたことなんて無いのだから。大丈夫なはず、だ。

 僕は自分にそう言い聞かせ、口を開いた。

「……うん、ええよ」

 僕は頷いた。ここで断るのも不自然だし、彼女の話を聞いてみたい、という気持ちもあったからだ。

 それを聞いて、小谷はホッと表情をゆるめた。僕は腹の底に力を入れた。

  さあ、放課後、いよいよ決戦だ。