■あなたのとりこ 01■


 新学期が始まって、僕は生まれて初めて自分が意外と嫉妬深いことを知った。

 前の恋人と付き合っていたときは如何せん不倫だったので、どうせ自分は二番手だと思っていた。だから相手の奥さんに嫉妬なんて……いや、全く無かったとは言わないけれど、嫉妬に身を焼かれるような思いをしたこともなかった。


 僕はほんの少しだけ首を傾けて、みっつ前の席に座っている相原の後ろ姿を見やった。数学教師の講義を子守歌に、彼は船を漕いでいる。相原は数学の時間、大抵夢の世界にいる。二学期からは寝ずに頑張る、と言っていたけれど、今のところ成果は見られない。

 相原の頭が、ゆるゆると小さく揺れる。今にも首がガクッと前に傾きそうで、僕は、ちくしょう正面から見たいぜ、と思った。なんせ僕は、相原の寝顔をほとんど見たことがない。

 そのとき相原の隣から細くて白い手が伸びてきて、彼の肩を指先でつついた。相原の横の席の、小谷唯だ。女性の名前を覚えるのが極端に苦手な僕だが、彼女の名前は覚えた。目覚めた相原が、ハッとしたように顔を上げる。僕はついつい、ムッとして小さく顔をしかめてしまう。

 小谷は、相原の顔を見て微笑んでいる。長い睫毛が、ここからでも確認出来た。小谷は小柄で華奢で、まあ……可愛いんちゃう? 男にもてるんちゃう? という感じ。知らんけど。

  彼女は口を小さく動かして、多分だが「もうすぐ当たるよ」というようなことを言った。相原は慌ててノートの下から教科書を引っ張り出して、「どこどこ?」と尋ねる。小谷は自分の教科書を差し出して、今教師が喋っている箇所を教える。相原はいつもの爽やかな笑みを浮かべて(僕はまた、ちくしょう正面から見たいぜ、と思った)「ありがとう」と礼を言った。小谷は、照れたように笑った。

 小谷唯、許すまじ。

 僕は知らず知らずの内に、眉間に力を込めていた。いかんいかん、と指でその部分を揉みほぐす。

 いや、いや。僕だって別に、相原と接する女子全てにここまでのジェラシーを燃やしているわけじゃない。流石に、そこまで狭量な男ではない。だけど小谷は別だ。彼女は明らかに、相原に惚れている。しょっちゅう相原のことを見ているし、何かと彼に絡むし、とにかく雰囲気で分かる。小谷は相原のことが好きだ。相原のことを。おれの相原のことを!

  相原は夏休みにも女子に告白されていたし、どんだけもてるねん、という話だ。正直、勘弁して欲しい。相手が小谷じゃ、勝てる要素がひとつもない。……いや、僕は一応相原と付き合っているのだけれど。だけど彼女が本気を出したら、もしかしたらもしかしてしまうかもしれないじゃないか。あの白い肌とふわふわの髪の毛と大きな眼と細い手首と腰に、相原が傾いてしまうかもしれないじゃないか。

  だから小谷唯は、僕にとっての脅威だ。


 数学の授業が終わって、僕は相原の元に向かった。休み時間になると教室は途端に騒がしく、そして埃っぽくなる。相原は僕に気付くと机の中に押し込むようにして教科書をしまい、笑顔になった。

「相原、また寝てたやろ」

 と笑いながら言うと、

「うわ、ばれてた」

  と彼も笑った。

「いっつも最初の方は頑張って起きてんねんけど、三十分超えたらあかんねんなあ。……そうや、吉川。今日は帰りに本屋寄ってこな」

「あ、うん。水曜やもんな」

 相原の言葉に、僕は頷いた。すると隣から、

「水曜は本屋に行く日なん?」

  と高い声がした。小谷だった。彼女は頬杖をついて、楽しそうにこちらを見ている。正面から見ると、彼女の大きな眼と長い睫毛が際立つ。ノンケの男はこういう顔が好きなんだろうな、と思った。知らんけど。

「水曜は週間ベースボールの発売日やから、いっつも立ち読みして帰んねん」

 相原が小谷の方を見て返事をした。しまった、なるべくこいつらに会話をさせないように僕が返事してやろうと思ったのに、先を越されてしまった。僕は舌打ちを噛み殺す。

 多分相原は、何も考えていない。彼はびっくりするほど鈍いので、小谷の気持ちにも気付いていない。彼女が相原のことを好きだということを、僕から相原に伝えるのはルール違反のような気がするので、彼には何も言っていない。僕は変なところで律儀なのだ。

「へえ。吉川も、野球好きなんや」

 その口調に、「あたしは相原の趣味をちゃんと知ってねんで」という気持ちが込められていたように思えたのは、僕の被害妄想だろうか。被害妄想だろうな。悔しいけれど、小谷は性格も良いと評判だ。何でこんな女子が存在するんだろう。本当に、勘弁して欲しい。

「そうそう、相原とはトラキチ仲間やから」

 僕は内面で渦巻く矮小な感情を表に出さないように努め、出来るだけ軽い口調で笑ってみせた。僕と相原が付き合っていることを万が一にも気取られないために、言葉の内容にも注意する。

「そうなんや。吉川が阪神ファンって、なんか意外」

 小谷は目を丸くした。僕はすかさず、

「小谷は、野球とか見いへんの?」

  と聞いてみた。

「あはは、ごめんねー。あたしは全然、分からへんねん」

 彼女は笑って手を振った。それを聞いて、僕がどれだけ安心したことか。ガッツポーズをしたくなった。良かった。これで彼女が野球好きだったら、僕は完全に負けていた。相原と共通の趣味があるという点で、僕は一歩リードだ。

 ……いや、一歩リードもなにも、僕は相原と付き合っているのだけれど。だけどどうしても、勝っている気にはなれないのだった。

「野球ってそんな、面白い?」

 小谷は、僕ではなく相原に向かってそう言った。この女、油断も隙もない。

「おお、めっちゃおもろいって、ほんま!」

 相原は目をきらきらさせて、声を弾ませる。野球のこととなると誰に対してもこうだ、と分かっていても僕は奥歯がむずがゆくなってしまう。

「そうなん? そんなに?」

 彼女は相原を上目遣いに見上げる。なんとも自然な仕草。僕はやきもきしてしょうがない。

「うん、小谷も一回見たらええねん。サンテレビで」

 おいおいおい。

  この男はそんな極上の笑顔で、何を言ってるんだ。相原に笑いかけられて、小谷は「えー」と言いながら小首を傾げる。彼女の中のラブゲージが上昇したのが、目に見えるようだった。

「そんなら、見てみよっかなあ」

 おいおいおいおい!

 僕の脳内に大嵐が吹き荒れたが、人前でその感情を出すわけにはいかない。しかし相原に乗っかって、そうそう小谷も野球見ようぜーなんて死んでも言えないので、とりあえずニコニコしておく。頬が引き攣ってそのまま固まってしまいそうだった。

  てめーおれの相原に色目使ってんじゃねえ! 野球なんて興味ないやろうが!

 と、言いたい。物凄く言いたい。だけどそれを言うわけにはいかない。何も分かっていない相原は、終始ニコニコと笑っている。彼は自分の何気ない一言がどれだけ小谷を喜ばせ、そして僕を戦かせているか理解していないのである。ああ、僕は彼のそういう天然なところだって好きなのだけれども!

 耐えろ、耐えるんだ、吉川四郎。僕は手を背中の後ろに回し、こっそり拳を握った。

 ノンケの同級生と付き合うのはかくも過酷なのか。

 僕は天を仰ぎたくなった。