■世界の、祝福 04■
翌朝、ダイニングに入るなり誠と目が合って、この上なく嫌な気分になった。それは相手も同じらしく、誠は盛大に顔をしかめて香織から目を背けた。
「おかん、弁当早くしてや。おれもう出る」
誠は床に置いていた鞄を肩にかけ、台所に立つ母に声をかけた。母は振り返り、声を張り上げる。
「ちょっと待ちいや。そんならあんた、お箸自分で用意しなさい。吉川くんの分も作ってるから」
言って、母はテーブルの端を指さした。香織もそちらに視線を向けると、そこには弁当箱が三つ置いてあった。ひとつは、香織がいつも持って行く小さな弁当箱だ。
吉川くん、と香織は頭の中で繰り返した。誠の友達の名前だ。最近、よくその名前を耳にする。ここのところずっと誠は帰りが遅く、それは吉川くんとやらの家に入り浸っているかららしい。彼とどれだけ気が合うのか知らないが、平日も休日も、誠はずっと吉川くんと一緒だ。そんなに一緒にいて、何をするのだろうと思う。
吉川くんは一度家に来たこともあるけれど、香織は彼の顔まではよく思い出せなかった。別にそれはどうでも良い。しかし、吉川くんの分も作ってるから、という母の言葉は気になった。
「残したらあかんよ、って吉川くんにも言うときや」
洗い物の水音を縫って、母の声が聞こえる。箸立てから箸を抜き取りつつ、誠は「分かってるって。いっつもちゃんと、全部食ってるやん」と、ぶっきらぼうに返した。
「……お母さん、吉川くんの分もお弁当作ってんの?」
椅子に腰を下ろし、香織は尋ねた。玉子焼きがのった皿を手にして、母がテーブルまでやって来る。玉子焼きを三人分の弁当箱に詰めつつ、「毎日やないけどねー」と楽しそうに言う。
「そういえば、晩ご飯のおかず持って行ったりとかもしてるんやんな。何でそこまですんの」
別にうちの子でも何でもないのに、と香織は声を尖らせた。そうしたら、誠がこちらを思い切り睨んできた。
「うっさいな、お前には関係ないやんけ」
この上なく険のある言い方であった。香織は苛立ち、反射的に誠を睨み返した。 「こらこら」と母が取りなすように間に入る。
「朝から喧嘩せえへんの。吉川くんはご両親と離れてひとり暮らしやからね、何事も助け合いよ」
「ふうん……」
気のない相槌を打ち、香織は視線を誠から母の手元に移した。玉子焼きの隣に、つややかなプチトマトが詰められる。そのとき、香織は唐突に気が付いた。
「……それ、お兄ちゃんのお弁当箱」
母が、吉川くんの分として用意していたお弁当は、浩一が使っていたものだった。香織には見覚えがある。
「ああ、これ? うん、余ってるのん、これしかないし」
何でもないことのように言い、母は弁当箱に蓋をする。嫌、と叫びそうになった。彼の痕跡が消えてゆくようで、耐え難かった。嫌。嫌だ。それはお兄ちゃんのものなのに、誠くんの友達が使うなんて嫌だ。
「おかん、はよそれ貸して」
誠はひったくるようにして、弁当箱を掴んだ。浩一の弁当箱が、無造作に鞄の中に収められる。
「ああもう、斜めにしなや!」
「行って来る」
母の小言には一切反応せず、誠はさっさと居間から出て行った。香織はテーブルの下で、きつく拳を握り締めた。
気分の悪いまま、香織は学校へ行った。教室に着くなり、唇のつややかな友人に声をかけられる。
「……香織、昨日のこと、怒ってる?」
何の話は分かっていたけれど、とりあえず「何で?」と言ってみる。
「カラオケに、男子呼んでたこと」
「ああ……」
否定も肯定もせずに、香織は友人から視線をそらす。
「みゅんちゃんが、塚本とかおりんをくっつけるんだーって盛り上がっちゃって」
友人は、懸命に弁明しようとする。昨日のあれを仕組んだのはみゅんちゃんだったんだ、と心の中で頷いた。意気込む彼女の姿が目に浮かぶ。
「それで、香織的にどうなん? 塚本は」
気が付けば、友人がやけにきらきらした目でこちらを見ていた。香織は困った顔をつくって、軽く首を傾けた。
「どうなん、て言われても……」
「あり? なし?」
「……んん。なし、かなあ」
「なしかあ。香織、その辺結構厳しいよね」
友人は、残念そうに息を吐いた。何だかんだ、この友人も香織と塚本がどうにかなることを期待していたのだろうか。
「みゅんちゃん、何でそんな急に頑張っちゃったん」
そう尋ねると、友人はたちまち苦い顔になった。言いにくそうに何度か唇を開いたり閉じたりしてから、こう言った。
「……ごめん、最初に話を持って行ったんは、あたしやねん」
香織は教室の壁にもたれかかり、無言で続きを待った。友人はぽつぽつ話し始める。
「最近、香織に元気がないからさあ……。何があったかは分からへんけど、あたし、ほんま心配しとって。そんで、彼氏作ったら元気になるかな、って思って……みゅんちゃんに、香織に誰か男の子を紹介して欲しいねんけど、っていう話をしちゃった、っていう……」
友人は胸元で指を組み、小さな声で言った。彼女は唇だけでなく、爪もつやつやだ。香織は、手入れの行き届いた彼女の爪を見つめ、こう言った。
「気持ちは嬉しいねんけど……あたし、彼氏とかそういうのは、今は別に」
「だよね。昨日の香織見て、あたしもそう思った。ごめん」
香織の言葉が終わらない内に、友人はすまなそうに早口で言った。それからもう一度、顔の前で両手を合わせて「ほんと、ごめん」と繰り返す。香織は首を横に振った。
「ううん、気持ちはほんと嬉しい」
それは本心であった。友人の気遣いは嬉しい。塚本にも悪いことをした、と今になってやっとそう思えた。昨日は嫌だ嫌だとそればかり考えていたけれど、塚本は決して悪い人間ではなかった。電話をかけてくれたのに無視してしまったし、そのことについては今度謝っておこう。
しかし、どれだけ塚本が良い人でも友人が気遣ってくれても、浩一以外の男性と付き合うなどということは、香織の中では有り得なかった。香織にとっては、浩一が唯一の存在だ。
香織は首を軽く振った。浩一のことを考えたら、泣きそうになってしまう。こんなところで泣くわけにはいかないので、他のことを考えようとしたら、何故か誠の顔が浮かんだ。
誠くんに彼女が出来たら、ちょっとは優しくなるかな。
ふと、そんなことを考えた。そうなればもう、嫌味を言われたり叩かれたりせずに済むかも知れない。それに前々から、誠に彼女がいればお母さんも安心するのに、と思っていた。香織が恋人を作ることは不可能だから、彼女では母を安心させることが出来ないが、誠に彼女が出来れば。
誠くんこそ彼女をつくればいいのに、と香織は思った。以前、吉川くんに誠に彼女がいるのかどうか聞いてみたが、いない、とのことだった。そう聞いたときは、心底がっかりした。しかし、今はどうなのだろう。今日あたり、その辺を聞いてみよう。また、叩かれるかもしれないけれど。
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