■世界の、祝福 05■


 香織はその日の夜に、誠の部屋を訪れた。珍しく彼は机に向かっていた。香織からは、背を向ける格好である。

「何やねん」

 誠は、顔も上げずに言う。香織は部屋に一歩入り、扉を閉めた。誠の部屋は散らかっていて足の踏み場もないので、扉にもたれて話すことにした。

「誠くんって、彼女いないの」

 単刀直入に尋ねると、せわしなく動いていた誠のシャーペンが一瞬止まった。が、すぐにまた動き出す。そのまま誠から答えが返ってくる気配がないので、香織は再度尋ねた。

「彼女。いないの」

「お前には関係ないやろ」

 ごく短く、誠は吐き捨てた。案の定、気を悪くしたらしい。このままだとまた喧嘩になるかもと思った。しかし、引き下がるつもりはなかった。

「いるの、いないの」

「おらんわ。それが何やねん」

 心底鬱陶しそうに、誠は答えた。それを聞いて香織は落胆した。しかし、隠しているだけで本当はいるのかもしれない、と思い直す。

「ほんまに?」

「何やねん。おらん言うてるやん」

 どうやら宿題をやっているらしい彼は、腕を伸ばしてベッドの上に投げ出してあった辞書を掴んだ。香織はその動きを目で追いつつ、「作らへんの?」と尋ねた。

「は?」

 相変わらず視線は机に固定したまま、誠は聞き返す。香織は、足元を見やった。プロ野球の雑誌が落ちていた。誠は野球、野球と常にそればかりだ。何が面白いんだろうと思う。

「誠くん、全然もてへんわけじゃないでしょ。良い感じの女子とか、おるんちゃうの」

「もうお前、出て行けや」

「去年くらいまでは、女子と遊びに行ったりしてたやん。あたし見たことあるもん。最近はそういうの、ないの」

「あーないない。ありません」

 香織の語尾にかぶせ、誠は声を大きくした。適当にあしらおうとするその態度に、香織はむっとする。こちらは真面目に話をしているのに。

「何で、ないの」

「何で、って言われても知らんやん」

「ここんとこずっと、吉川くんとばっか遊んでるやん」

「だから、何やねんて」

「ちょっとは、女子とも遊びいや」

「は? 何なんお前。おれの勝手やんけ」

「だってさ、誠くん。ちょっとおかしいよ。ほんとずっと、ずーっと吉川くんと一緒にいるやんか。異常なくらい」

「はいはい、異常やね。そうやね」

「夏くらいから、誠くん全然家に帰って来ないし。ずっと、吉川くん家に行ってるんやろ?」

 きちんと答えない誠に腹が立ち、畳みかけるように言うと、彼は深く息を吐き出した。椅子を回し、香織の方を向く。げんなり、という言葉がぴったりの面持ちであった。

「なあお前、ほんまさっさと出て行かん? おれ宿題してんねんけど」

「……何か誠くん、ホモみたい。気持ち悪いよ」

 少し挑発してやろうと思い吐き捨てると、誠は「あっそ」と軽く返してきた。こういう風に言ったら絶対に怒ると思ったのに、意外だった。ふつう、自分と友人をホモ扱いされたら怒るものではないのだろうか。そうでなくても彼は常に、香織の何でもない行動や言葉にも憤るのに。

「……彼女作りなよ。そっちのが健全やん」

「って言われても、別に彼女とかいらんし」

 誠は机に肘をつきながら言った。香織は眉をひそめる。あまりに冷静な兄に、何やら胸元がざわざわし始めた。特定の男友達と、気持ちが悪いくらい親密に付き合っている誠。彼女をつくるよう促す香織の言葉に、一切反応しない。香織の言うことに敢えて反発しているだけかもしれないが、それにしたって頑な過ぎる気がした。そう思うと、嫌な悪寒が爪先から這い上がってきた。

「ちょっと待って。誠くん、マジで?」

「何が」

「もしかして、マジでホモ?」

 そんなわけないと思いつつも、香織は尋ねた。目の前の兄は面倒くさそうに、「ああうん、そうそう。マジホモマジホモ」と投げやりな言葉を吐く。香織は、ぎゅっと手を握りしめた。

「ちゃんと答えて! ほんまに、そういうこと?」

「そういうこと、って何やねん」

「嘘やんな? 違うやんなっ?」

「だから、何がや」

「吉川くんと、付き合ってる、ん?」

 喉元をふるわせ、香織は言った。心臓が大きな音を立てる。誠くんが同性愛者なんかであるはずがない、と思うのに、どうしようもなく緊張した。

 誠はそんな香織を見やり、平然とこう応えた。

「そうやで」

 それを聞いた瞬間、香織の膝から力が抜けた。ずるずるとへたり込みそうになり、両手でドアノブにしがみついた。胸の中が引き攣った。自分の意志とは関係なく、力のない笑いが口から漏れた。

「は、は……? 誠くん、何言ってんの……?」

 どうしても立っていられなくなり、香織はその場に腰を落とした。足で自分を支えることが出来ない。頭の中で、がんがんわんわん、と意味不明な騒音が鳴り響く。同時に眩暈がやってきた。視界が歪む。床板が、野球雑誌がひしゃげてゆく。

「何言ってんの、って、お前が聞いたんやん」

 対して、誠の声は何処までも静かで平静そのものだ。

「え、何……ほんまに……?」

 香織は急激に重くなった頭をどうにか持ち上げ、誠に視線を向けた。しかし焦点が定まらない。本当に自分の前に誠が居るのか、それすらもよく分からなかった。

「ほんまに、やで。おれは吉川と付き合ってんの。だから、彼女がどうとか言われても知らんしうざいだけ。分かったら、出て行けよ」

 あまりの衝撃に、香織はふたたび頭を深く垂れた。吉川と付き合ってんの、という言葉が脳内でぐるぐると回った。信じられなかった。本当に、去年までは女の子と遊び行ったり、バレンタインデーにチョコを貰って帰って来たり、ごくごく普通の男子だったのに。そんな彼が男と付き合っているなんて、おかしい。絶対におかしい。

 しかし、誠は吉川と付き合ってる、と言い切った。付き合ってる。普通の男女のように?

 デートしたりキスしたりセックスしたり?

 かつての香織と浩一のように?

「何それ……っ、何よそれ!」

 正体不明の大きな衝動に突き動かされ、香織は叫んだ。少し遅れて、その衝動は憎しみと不快感であることを自覚した。悪寒で全身が粟立った。腹の底で、黒い炎が燃え上がる。

「びっくりした。いきなり怒鳴んなや……」

「何それ! 誠くん、本気で言うてんの!?」

「ほんまやっちゅうねん。だからどうしてん」

 誠は火の粉でも払うように、顔の前で手を振った。その物言いに、香織は目を見開く。

「だからどうしてんって……駄目に決まってるやんか、そんなん! 何考えてんの!」

「お前に言われるとは思わんかったわ」

 誠は、つめたい声で言った。その言葉に、一瞬だけ香織の頭が罪悪感で白くなる。しかしすぐに、それを上回る憎悪で黒く塗りつぶされてゆく。そして直後、母の顔が浮かんできた。そうだ、お母さん。お母さんを安心させようと思ったのに。

「だって、だってそんなん……誠くんは、誠くんだけは普通の恋愛しないとあかんやんか!」

「何それ」

「あたしは、もう無理やもん。普通の恋愛なんか、無理やもん。だから誠くんは普通に彼女作って結婚して子ども作らないと、お父さんとお母さんが安心出来ないやんか!」

 誠だけは、まともな恋愛をしなくてはならないのに。香織は裏切られた気分だった。すると誠は頭を掻きながら、「身勝手なこと言いやがって」と呟いた。

「大体、そんなんお母さんたちが知ったら……」

「もう知ってる」

「え?」

 思いもよらないひとことに、香織は息を詰まらせた。眩暈が酷くなる。香織は床に手をついた。頭の中を誰かに掴まれて、ぶんぶんと揺さぶられているようだった。吐き気がこみ上げてきて、息苦しい。

「おとんとおかんには、もう言うてある」

「嘘」

「ほんまに。つうか知らんかったん、お前だけやし」

「そんなん……お父さんとお母さん、何て言ってた、ん……?」

 香織は消えそうな声で言った。磨りガラス越しのような風景の中で、誠の笑う気配がする。

「全然余裕で認めてくれたで。おかんなんか、ウザいくらい応援してくれとるし」

 それが、香織へのとどめであった。視界がどんどん暗くなる。香織は床にうずくまるような格好で、「何それ……」と絞り出した。何それ、何それ、とそればかりが頭の中を行き交う。

 誠は本当に、男と付き合っている。それを両親が認めている。香織だけが知らなかった。ということは、お兄ちゃんも? お兄ちゃんも、そのことを知っていた?

「何よそれっ!」

 香織は叫んだ、声がひび割れる。自分の身体も、一緒に割れてしまいそうだった。全身が痛い。苦しい。眩暈がおさまらない。

「嫌! 嫌っ!」

「嫌って言われてもな」

「そんなん酷い! 何よそれ! 何であたしは駄目で、誠くんが男と付き合ってるのはアリなん!」

 納得がいかなかった。浩一との恋を最後まで隠し通し、愛するひとを失った香織と、男と付き合っているのに応援されているという誠。理不尽だと思った。

  何で誠くんだけ。何で!

 香織は立ち上がり、扉を開けて廊下に出た。階段から下を覗き込み、「お母さん、お母さん!」と大声で母を呼ぶ。

「なーにー? そんなおっきい声で言わんでも、聞こえるわよお」

 ぱたぱたという足音と共に、居間から母が出て来て階下からこちらを見上げる。まるまるとした顔に、愛嬌のある笑顔。そんな彼女が、誠が同性と付き合っていることを知っていたんだと思うと、たまらなくなった。

「お母さん、誠くんが吉川くんと付き合ってるって、知ってたん!?」

 叫ぶと、母はハッとした表情になった。それから少し考えるように眉間に皺を寄せ、香織を見つめる。

「……うん、そうよ。知ってたよ」

 しっかりと頷く母に、香織は絶望を覚えた。本当に、母は知っていた。急に香織は、母が吉川くんにお弁当を作ったり、誠におかずを持たせたりしていることを思い出した。知っているから、認めているから、そういう風に吉川くんの世話を焼くのだ。

 母は階段に片足をかけ、香織に向かって手招きをした。

「香織、ちょっと降りてきなさい。あのね、急には受け入れられないかもしれへんけど、でも」

「嫌っ! そんなんやめて! 聞きたくないっ!」

 香織は身体の向きを変えて、足をもつれさせながら廊下を走った。母の口から、誠へのフォローなんて聞きたくなかった。いつだって、彼女だけは香織の味方でいてくれたのに。

  無意識に、浩一の部屋に足が向いていた。おにいちゃん、と口を突いてこぼれ出す。お兄ちゃんなら、自分の話を聞いてくれると思った。同意してくれなくても良い。ただ聞いて欲しかった。いつものように静かに、穏やかに、香織の言うことを聞いて欲しい。そうすれば、この全身が引き絞られるような苦痛も和らぐはず。

  お兄ちゃんなら助けてくれる。助けて。助けて。助けて、お兄ちゃん!

 香織はドアノブを掴んだ。その温度を確かめる間もなく、勢いよく扉を開け放つ。

「お兄ちゃ……っ」

 彼女は途中で言葉を切った。そこは兄の部屋などではなく、ただの四角い空間であった。そうだ彼は出て行ったんだと思い出す。浩一は家を出る際、部屋の中を空にしていった。何もない。その場所には、彼女の望むものは何もなかった。

「いや、あああっ!!」

 崩れ落ち、香織は泣き叫んだ。涙が溢れ、浩一の部屋だった場所の床に染みをつくってゆく。香織には何もない。ほんとうに何もないのだと言うことを思い知った。

  誠くんには恋人がいるのに。あたしにだって、恋人がいたのに。好きだった。ううん、今でも好きなのに。どうして、今のあたしには何もないの。どうしてここにお兄ちゃんはいないの。

 香織は、床板にきつく爪を立てた。そのまま、床を引っ掻く。がりがりと音を立てて、糸を引くように彼女の爪痕が刻まれていった。そして、ぐちゃぐちゃになった頭の中でただひとつ、鮮明に浮かび上がった思いがあった。

 みんなが、たとえ世界中が誠くんと吉川くんを祝福しても、あたしは、あたしだけは絶対に彼らを祝福しない。


 祝福なんかしない。



 絶対に。