■世界の、祝福 03■


 ばちん、と大きな音が廊下に響き渡った。香織の平手が、誠の頬を打った音だった。

「いってえな! さっきから何やねん、八つ当たりすんなや!」

「何よ……何よ! 誠くんが悪いんやんか!」

 香織は叫んで、もう一度腕を振り上げた。その手を、誠が掴む。携帯電話が廊下に落ちる、重い音がした。誠の眼は怒りで燃えていた。何よあたしやって怒ってるんやから、と香織は思い切り睨み返してやった。

  誠は歯を噛み締め、拳をぐっと握った。また叩く気だ、と思った。こないだみたいに、あたしを叩く気だ。誠くんは外ではにこにこして優しいフリをしているけれど、あたしのことはすぐに叩くんだ。

「こらあ!」

 そこに、良く通る大声が飛び込んできた。香織と誠は、同時に声のした方に顔を向けた。騒ぎを聞きつけた母が、階下からやって来たのだった。

「あんたら、何やってんの!」

 母の怒鳴り声に、誠は一瞬怯んだ様子を見せた。香織は誠を指さし、叫ぶ。

「お母さん! お母さん! 誠くんが、あたしのこと叩こうとした!」

「え……っ、ちょっと誠、あんた何考えてんの!」

 香織の言葉に母は絶句し、丸い目を更に大きく見開いた。

「はあっ? 何でおれやねん! おれ、何もしてへんっちゅうねん!」

「でも誠くん、あたしのこと叩こうとしたもん!」

「叩いたんは、お前やろ! ふざけんなよ!」

「違うもん、悪いんは、誠くんやんか!」

 声を張り上げていると頭が熱くなって、何故か両目から涙が溢れてきた。視界がみるみるうちに歪んで、何が何だか分からなくなった。後から後から、熱い涙がこぼれてゆく。泣きじゃくる香織を見て、母はため息をついた。

「何やの。ちょっと落ち着きなさい、ふたりとも。そんで、何があったの」

「言っとくけど、おれは別に殴ろうとしてへんからな」

「嘘や! 絶対、叩こうとしてた!」

「だからっ、それは、お前やろ! 思いっきりビンタかましてきたんは誰やねん!」

「ああもう! 静かにしなさいっ!」

 どん、と母は足を踏み鳴らした。それで誠と香織は口を閉じた。香織の涙は止まらない。切れ切れの嗚咽が、ひっきりなしに口から漏れ出る。母はそんな香織の背中を、優しくさすってくれた。こんな風に、人に慰められたのはすごくすごく久し振りかもしれない。そう思うと、更に涙が溢れ出した。

「……何があったんか知らんけど、誠、あんたお兄ちゃんやねんから、妹泣かさんとき」

「だから、何でおれが……っ」

「まーこーと」

 不服そうな誠の言葉を、母は問答無用で遮る。誠は悔しそうに口を閉じた。それから不快感を露わにした表情で、泣き続ける香織を見て思い切り舌打ちをした。

「あーあ、女は良いよなあ。とりあえず泣いて、男のせいにしとけば全部許されるもんなあ。ほんっま、腹立つわあ」

 だから嫌やねん、と吐き捨てるように言って、誠はくるりと身体の向きを変えた。

「こら、誠! そういう言い方せえへんのよ!」

「はいはいすんませんでした!」

 忌々しげに吐き捨てて、誠は叩きつけるようにして自室の扉を閉めた。母は、長い息を吐き出す。それから香織の方に向き直って、彼女の肩を軽く叩いた。

「……香織も小っちゃい子やないんやから、そんな泣かへんのよ」

 香織は何度もしゃくり上げながら、「……うん」と頷いた。

「そんで、お兄ちゃんは何を怒ってやったの」

 優しい口調で母は訪ねる。答えられるはずがなかった。決して許されない、香織の秘密だ。

「……お母さん」

「うん、どうしたん」

「好き」

 ぽつりと呟くと、母は驚いたように目を瞬かせた。それから頬を少し赤くして照れ笑いを浮かべる。

「いやあ、どうしたのん、突然」

「お母さん、好き」

 目からこぼれる涙を指で受け止めて、香織はもう一度言った。お母さん、好き。香織は母に沢山の嘘をついているけれど、それだけは本当だ。

「何よう、お母さんも、香織のこと好きよ」

 母はこの上なく幸せそうに笑った。香織はとても悲しくなってしまった。

  優しくて明るくて、大好きなお母さん。香織はきょうだいでひとりだけ女だから、母はいつだって味方になってくれた。しかし香織の秘密は、確実に母を不幸にする。自分でどうにか出来れば良いのに、どうすることも出来ない。どうしても、どうしても香織は浩一のことが好きだった。それだけは、動かせなかった。






  とても唐突に訪れた恋だった。

「あれっ、相原。何やねんお前、その子彼女? うわめっちゃ可愛いやん」

 浩一とふたりで歩いているとき、たまたますれ違った彼の友人に、そう声をかけられた。そのときの、彼女、という響きに何故か香織はどきりとした。彼女。彼女。頭の中を、その一言がぐるぐると回る。

 あたし、お兄ちゃんの彼女に見えたんや。

 何だか頬が熱くなるのを感じて、香織は慌てて下を向いた。

「いや、妹」

 友人の勘違いを、浩一は短く否定した。それに、香織は少しがっかりした。そして、そんな自分に驚いた。だってどう考えたって、香織は浩一の妹なのに。

「ええっ、マジで? うわあ、てっきり彼女かと思った! 似てへんなあ」

 兄の友人は、目を見開いて声を引っ繰り返した。それを聞きながら、香織は一向に収まる気配のない鼓動に戸惑っていた。

 小さな頃からずっと、かっこいいお兄ちゃんだとは思っていた。誠くんはうるさいし、昔から意地悪ばかりだったけれど、お兄ちゃんは全然違った。いつも静かで落ち着いていて、頼りがいのあるお兄ちゃん。付き合うならお兄ちゃんみたいな人がいい、とずっと思っていた。

 香織はそっと、胸に手を当ててみた。心臓がちっとも落ち着かない。それに何やら、足元がふわふわとした心地だ。

 ああ、ほんとうに、お兄ちゃんの彼女になれたら良いのに。