■世界の、祝福 02■
「香織、今日ってこれから空いてる?」
その声に香織はハッとした。いつも唇がやけにつやつやしている友人が、香織を見て笑っている。
辺りを見回すと、帰り支度をするクラスメイトたちが目に入った。そうだ今は放課後なんだ、と香織は思った。机の上には、ロッカーから持って来たと思われる自分の鞄があった。何時の間に取って来たのだろうと、香織は内心首をかしげた。今日も、香織の知らないところで時間が過ぎ去ってしまったらしい。
「空いてるけど……何かあんの?」
香織が尋ねると、友人はつややかな唇をつり上げてニッと笑った。
「カラオケー。香織も一緒に行こうよ」
その言葉に香織は曖昧に微笑んで、小首を傾げた。一番最初に頭に浮かんだ言葉は、面倒くさい、だった。歌って、この胸の暗雲が晴れるとも思えない。返す言葉に迷っていると、友人は香織の肩に手をのせた。
「香織、最近何か暗いしさあ。たまには気分転換した方がええって」
友人は、軽い口調で言う。ああやっぱり、外から見てもあたしは暗いんだ、と思うと香織の胸は重くなった。
しかし友人の気遣いが嬉しくもあった。確かに最近の自分は同じことをずっと考え込んでばかりで、汚泥の中を這い回るような日々だ。こんなことではいけない、と自分でもよく分かっている。だから友人の言う通り、気分転換も必要なのかもしれない。彼女たちと騒いで、笑って、思い切り歌えば、何かが変わるかも。
「……うん、そんじゃ、行こっかな」
頷くと、友人は「やった!」嬉しそうに笑った。本当に嬉しそうに笑うので、香織もつられて少し笑った。
香織と友人は、学校からの帰り道にあるカラオケボックスに入った。友人が受け付けを素通りするので、あれっと思っていると、彼女は香織の方を向いてこう言った。
「もう、先に行って部屋取ってもらってるから」
到着メールしとこ、と友人は携帯電話を取り出す。香織は目を瞬かせた。
「あたしらの他に、誰が来てんの?」
「えーとね、みゅんちゃんとか」
メールを打ちながら、友人は答えた。みゅんちゃんは同じクラスで、機会があればプリクラくらいは一緒に撮るけど毎日一緒にお弁当を食べる程仲良くはない、という間柄だ。ちょっと微妙かも、と香織は思った。別に彼女のことが嫌いというわけではないけれど、微妙だ。
「あ、この部屋。どーも、お疲れー!」
友人は声を張り上げて、大きく部屋の扉を開けた。室内から、音の洪水が一気に押し寄せてくる。友人の肩越しに部屋の中を見て、香織は一瞬ぎょっとしてしまった。中にはみゅんちゃんと、彼女と仲の良い女子がひとりと、男子が四人いた。
女の子だけだと思ったのに。
香織は何となく嫌な気持ちになった。友人が、男子も来ていることを意図的に隠していたのかそうでないのかは分からないが、騙された気分だ。
「きゃあ、なっちゃんとかおりん、来たあ!」
みゅんちゃんが、マイクを通して大きな声で叫ぶ。耳がキンとした。香織はすぐさま立ち去りたかったが、今更帰るとも言えなかった。仕方なく、騒がしい室内に足を踏み入れる。
ところどころ焦げ痕のついたソファに腰を下ろし、みゅんちゃんの甲高い歌声を聞きながら改めて室内を眺めた。同じクラスの男子がふたりと、隣のクラスの男子がふたり。全員、顔も名前も知っているし喋ったことくらいはあるけれど、積極的に関りたいとは思わない。
どれが、みゅんちゃんの本命なんだろう。
香織は目を細めた。恐らくみゅんちゃんはこの中の誰かとくっつきたいと思っていて、だけどふたりで会うのは誘いにくいから、適当に人数を増やしたのだろう。多分、そういうことだ。
香織はますます、騙された気分になった。友人は、みゅんちゃんの思惑に気付いているだろうか。気付いているだろう。だってみゅんちゃんは、そういう子だ。
「相原は、どんなん歌うん?」
隣に座っていた同じクラスの男子が、曲目リストを差し出しながら声をかけてきた。短髪で朗らかで、ほんの少しだけ雰囲気が誠に似ていた。昨日の誠とのやり取りを思い出して、香織は顔をしかめそうになった。
「……こんな大勢来てるって知らんくて、ちょっと恥ずかしいかも」
肩をすくめてそう言うと、彼は「ええ、良いやん良いやん! 誰も気にせえへんって!」と笑った。良い笑顔だった。だからどうした、という感じだったけれど。
それから、彼は何かと香織に話しかけてきた。にこやかに受け答えをしながら、香織は、ああこの子はあたしが好きなんだ、と無感動にそう思った。態度で分かる。しかしだからと言って、全く心は動かなかった。彼の人の良さそうな笑顔も、気さくな語り口調も、細やかな気遣いも香織の胸には響かない。それどころか、時間が経つごとに段々鬱陶しくなってきた。
ああやめて、お願いだからやめて。きみがあたしを好きになるのは勝手だけど、あたしには好きなひとがいるの。好きなひとがいるの。好きなひとがいるの! その人はもっと落ち着いていてそんな風にべらべら喋らないでただあたしのことを見ていてくれて抱きしめてくれて優しくてだけど冷たくて酷くて、ああ、酷い、酷いひと、あたしを放って何処かに行ってしまった。住所も何も教えてくれない。電話番号も変えてしまっていて全く連絡が取れない。あのひとがいないとあたしは生きていけないのに、全然会えない。声も聞けない。酷いひと、酷いひと、酷いひと、酷いひと!
「おい」
低い声で呼びかけられた。それはどう聞いても浩一の声だった。香織は勢いよく振り返った。しかしそこにいたのは、浩一ではなかった。誠だ。冷たい目で香織を見下ろす誠。誠くんとお兄ちゃんの声はまるで似ていないのに、どうして間違えたんだろう。一瞬にして心が絶望に浸される。
香織は自宅の、浩一の部屋の前で座り込んでいた。何かを求めるように、手が扉に向かって伸ばされていた。全く無自覚の行動であった。
カラオケボックスにいた筈なのに。瞬間移動でもしたのだろうか。いや、まさか。知らない内に、帰って来たのだ、きっと。ああ、駄目だ。あたしは病気なのかもしれない。香織は頭をゆるく振った。
「気持ち悪っ」
吐き捨てるような誠の言葉に、かちんとして彼を睨んだ。
「うっさい」
「折角阪神勝ったのに、テンション下がるわ」
「うっさい」
「お前さあ、別れたんやろ? 何なん、その未練ありまくりな態度」
別れた。 その言葉は、香織の胸を深く抉った。
お前とは別れるから。
浩一の言葉が蘇って、香織は叫び出しそうになった。そんな残酷な言葉を口にする誠が信じられなかった。
「……あたしは、納得してへんもん……っ」
絞り出すようにして言うと、誠は心底嫌そうな顔をした。
「へえ、ずっと付き合ってくつもりやったんや。気持ち悪っ」
誠の言葉は、いちいち香織の心を引っ掻いてゆく。香織は自分の胸元を掴んだ。苦しい。熱い。怒りだとか悲しみだなんて言葉では表現出来ない何かが、身体からこぼれてきそうだ。
悔しい。これだけ侮蔑されて、言い返せないのが悔しい。自分が異常だということは、重々承知している。許されるはずのない恋だということも、終わりが来るのは必然だということも分かっていた。分かっていたけれど、どうしても呑み込めない。彼のことが忘れられない。求めることをやめられない。
そのとき、制服のポケットの中に入れていた携帯が震えた。お兄ちゃんかも、と思って急いで取り出す。そしてディスプレイを見て絶望した。カラオケで一緒になった、同じクラスからの男子からだった。あの人からかかってくるはずがないのに、一瞬でも期待してしまった愚かな自分が、嫌で嫌で仕方がなくなる。
香織は衝動的に、誠に向かって携帯電話を投げつけた。彼は「うわっ!」と声をあげ、胸元で携帯を受け止めた。
「いった……! 何やねん!」
誠は携帯電話を投げ返そうと腕を振り上げたが、光るディスプレイの表示に気が付いてそちらに目を向けた。
「……塚本、これなんて読むねん、……ひろき? 誰これ。新しい彼氏?」
誠がそう言った瞬間、香織は全身の血が沸騰するのを感じた。何かを考えるよりも早く、香織は誠に向かって手をのばしていた。
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