■世界の、祝福 01■


 相原香織は恋人を失ってから、色のない日々を生きていた。彼のいない毎日に、一体何の意味があるのだろうと思う。

  先月、彼は香織の元から去った。新しい住所は、教えてくれなかった。引っ越しも、香織の外出時を狙ってこっそり行われた。お別れすらも、させて貰えなかった。そのときのことを思い出すと、今でも悔しくて涙が出そうになる。恋人は、逃げるように香織の前から消えた。あんなに愛し合ったのに、最後は一言もなかった。

  何でなん、何でなん。

  香織はずっと心の中で繰り返していた。

  何でなん、お兄ちゃん。





 学校に行くと、ストレスが溜まる。特に香織は、学友たちから恋愛の話を向けられるのが、嫌で嫌で仕方なかった。失恋してナーバスになっているときに人の恋愛話を聞くのが苦痛、というのもあるが、彼女らの恋愛の幼稚さ、くだらなさに怒りすら覚える。

「香織、香織」

 休み時間、机に突っ伏して悲しさや苛立ちに耐えていたら、友人が香織の背中を軽く揺すった。このまま寝たフリをしてやろうかと思い、香織は軽く身じろぎだけをした。

「香織ってば。お兄さん、来てるで」

 その言葉に香織は勢いよく顔を上げた。

 お兄ちゃん。お兄ちゃん! お兄ちゃんが来てくれた!

 香織の心の中に陽が差しかけたが、教室の入り口に視線を向けた瞬間、すぐにまたどんよりとした曇り空に戻った。来ていたのは、次兄の誠だった。考えたら当たり前のことなのに、落胆と絶望感が大きくて死にそうになる。

 香織は友人に礼を言い、フラフラと教室の入り口に向かった。

「誠くん、何よ」

 誠の顔を見上げると彼は無造作に、香織の手に弁当の包みを押しつけた。あからさまに不機嫌そうな表情と仕草に、香織はむっとした。

「忘れもん。ちゃんと持って行っとけよ」

 誠は憮然とした口調で言う。香織は返事をせずに、誠の手をじっと見つめた。

  同じ兄弟なのに、お兄ちゃんと全然違う手。

  お兄ちゃんに会いたい。お兄ちゃんに会いたい。お兄ちゃんに会いたい。

 ともすれば口からこぼれてしまいそうな思いを、香織は奥歯で必死に噛み潰した。頭上から、誠の溜め息が聞こえる。

「……そんじゃな」

 短く告げて、誠はこちらに背を向けて歩き出した。香織も無言で弁当を胸に抱き、教室の中に戻る。

「どしたん、忘れ物?」

「あ、うん。お弁当」

 級友に声をかけられて、香織は笑顔を作った。

「へえー届けてくれたんや。お兄ちゃん、やっさしいやん」

「ええー、お母さんに言われて来てるだけやもん。別に優しくないよ」

 誠くんはあたしのこと、叩いたし。

 と、心の中で静かに呟いた。あのときのことは、多分一生忘れない。別に怒っているだとか、仕返ししようだとかそういうことを考えているわけではない。ただ、忘れない。きっと、ずっと覚えている。





 ……ふと気が付いたら、香織は浩一の部屋の前に立っていた。いつの間に学校から帰って来たのか、よく覚えていない。彼女は制服姿で鞄も持ったままだったが、ここに立ち続けてどれくらい経つのか、全く分からない。

 浩一の部屋の、扉の向こうは静かだった。誰もいないのだから、当たり前だ。香織はしょっちゅう、無意識の内にこの場所に来てしまうが、扉を開けたことはなかった。この向こうには何もない。それを目の当たりにするのが恐ろしかった。

 震える手で、扉に触れた。冷たい。息を吸い込む。涙が出そうだった。

「何してんの、お前」

 はっと我に返った。階段を上ってきた誠が、目を細めてこちらを見ているのに気が付いた。今帰って来たところらしく、誠は制服姿だった。

  彼は香織と兄の秘密を知っている。そのことが明らかになってから、誠は香織に対しての不快感と侮蔑を隠そうともしない。香織は奥歯を噛み締めた。

「別に、誠くんには関係ないでしょ」

「関係はないけど、邪魔。どけよ」

 そう言って、誠は香織を押しのけるようにして彼女の側を通り抜けた。肩と肩がぶつかって、香織は顔をしかめた。

  そのとき、場違いなくらい明るい、六甲颪のメロディが鳴り響いた。誠の携帯電話の着信音だ。野球に興味がない香織には、それが耳障りで仕方ない。

 誠は鞄から携帯電話を取りだして、電話に出た。

「もしもし、あー吉川」

 今までとは別人のような明るい声で、誠は言った。香織は瞼をひくりと震わせた。

  何それ。さっきまでと、全然違うやん。あたしと喋ってるときは、めっちゃ感じ悪いのに。何それ。何それ。

「 うん、どしたん。あはは、何やそれ」

 楽しそうに笑い、誠は自室の中に消えて行った。香織は恋人を失った日から、笑うことなんて全く出来ないのに、誠は容易く笑ってみせる。

「何よ……何よ……っ」

 香織は両手でこめかみを押さえた。頭が痛い。胸の中がごうごうと燃えるようだった。熱い。痛い。苦しい。苛々して仕方がない。目に映る何もかもが憎らしい。あの人が、あの人さえいれば、こんなことにはならないのに。

「お兄ちゃん……。助けて……っ」

 廊下に膝をつき、香織は消え入りそうな声で呟いた。