■あの子が涙を流すなら! 06■


  一度受け入れてしまえば、後はもうなんということはなかった。

  今までの懊悩が嘘のように、より子はかや子の恋を全力で応援するようになった。世間体を気にすることもやめて、図書館や本屋に通い詰めて同性愛について出来る限り勉強した。かや子から相談を受ければ真剣に聞いたし、麻紀ちゃんとも、何度か話をした。

  より子は妹と恋愛の話が出来るのが嬉しかったし、何よりも、彼女の話を聞いた後にかや子が、

「お姉ちゃん、ありがとうねえ」

 と言って笑ってくれるのが嬉しかった。

 かや子が同性愛者であることを受け入れてから、より一層より子はかや子のことがいとしく、そして大事になった。ああ、この子のお姉ちゃんで良かった、と日々その思いを噛み締めていた。



 そしてある日の、家族揃って自宅で夕食を摂っているときのことだった。

「……あのなあ、かや子」

 突然父が、実に言いにくそうに切り出した。

「うん、なあに?」

 かや子が首を傾げると、父は箸をテーブルに置いた。母も、手に持っていた茶碗を置く。より子は唐揚げを頬張りながら、何か不穏な気配を感じて眉をひそめた。

「和子叔母ちゃんておるやろ、宝塚に」

「うん、いてはるね」

 かや子は頷く。より子は和子叔母のことを思い浮かべて、少し憂鬱な気分になった。和子叔母は父の一番上の姉で、自分に厳しく他人にはもっと厳しい女性だった。悪い人ではないのだが、非常に苛烈かつ強引で、より子は少し苦手だった。

「その叔母ちゃんがな、かや子にお見合いの話を持って来たんやけども……」

 姉妹は揃って、顔をしかめた。すると父は慌てたように、「いや、いや」と手を振る。

「かや子がそういうの嫌がってるっていうことは、お父さんも分かってんねん。でもな、和子叔母ちゃんに、しつこく言われててな……」

 父は五人兄弟の末っ子なので、和子叔母には強くものを言えないことは知っていた。断りにくいのは分かるけど、でも……と、より子は複雑な気分で唐揚げを飲み込んだ。

「何なん、お父さん。それでもしかして、勝手にOKって言うたん?」

 若干の非難を声に含ませてより子がそう言うと、父は心外だという風に眉をつり上げた。

「何でやねんな。そんなことするかい。かや子が嫌がるって言うたら、ほんならかやちゃんと話をさせえと、そう言い出したから困ってるんや」

 はあ、と父は息を吐き出した。母も、困ったように頷いている。和子叔母はとかくきつい人なので、気の弱いかや子が彼女にゴリ押しされたら断り切れるとは思えない。父もそこは分かっているはずなので、極力防波堤になってくれるつもりなのだろうが、和子叔母なら釣書と写真を持っていきなり家に乗り込んで来る、くらいのことをしかねない。

  より子は心配になって、隣に座っている妹の表情を窺い見た。かや子はしばらく不安そうに唇を噛んでいたが、やがて顔を上げて両親をしっかりと見た。

「そんなら、和子叔母さんに言うといて。あたし、結婚せえへんから、て」

 普段の彼女からは想像もつかないきっぱりとした声に、父も母も目を見開いた。より子も少し驚いて、かや子の横顔を凝視してしまう。彼女の表情からは強い意志が感じられ、あっこの子告白する気やわ、とより子は直感した。

「ちょ、ちょっと、かや子」

 思わずかや子の腕を掴むと、彼女はそれをやんわりと解いて、首を横に振った。

「か、かや子……、何もそんな、若いうちから決め込まんでも」

 おろおろと、母が言った。父も、「そうやで、まだ二十歳やないか」と同意する。

「ううん、結婚はせえへんの。絶対に。というか、出来へんのよ」

 かや子は、半ば自分に言い聞かせるように言った。

  より子は動揺していた。止めるべきか迷ってもいた。準備も何もなしに、こんな衝動的に告白させていいものか。しかし、彼女の決意は固そうだった。それならば、姉として見守るべきではないだろうか。この二つの考えがせめぎ合い、すぐに答えを出すことが出来なかった。

 そうしたらとうとう、かや子は言った。

「だってわたし、レズビアン、やもん!」

 その言葉が食卓に響いた瞬間、両親は揃って口を開けた格好のまま固まった。より子は、あたしも最初聞いたときはこんな顔してたんかしら、と急に冷静な気持ちになった。

「ず、ずっと黙ってて、ごめんなさい……」

 かや子は続けたが、その声は明らかにトーンダウンしていた。若干、震えているようにも聞こえる。より子はすぐさま、かや子のことを抱きしめたくなった。よく頑張った、と背中を叩いてあげたかった。しかしその思いは、直後の父の声にかき消された。

「何をアホなこと言うてんねんっ!」

 その怒号に、かや子はびくっと身体を震わせた。

「かや子……っ、お前は何を……っ、本気で言うてんのかそんなこと!」

「わた、わたしは、本気で……」

 かや子はか細い声で必死に喋ろうとするが、父が思いきり手のひらでテーブルを叩き、その音に萎縮したように、黙り込んでしまった。

「それで見合いが嫌やて、何考えてるんや!」

 父は顔を真っ赤にして、もう一度テーブルを叩く。バァンと大きい音がして、その拍子にコップが床に落ちた。直後、ガラスの割れる甲高い音が聞こえる。

「お父さん、待っ……」

「かや子、嘘よね? 嘘やんね? そんな……そんなん、嘘よね?」

 母は泣きそうな顔で、かや子に詰め寄る。

「お……お母さん、わたしは……っ」

「こんなもん、和子姉ちゃんに何て言えっちゅうねんな!」

「ねえかや子、嘘よね? お願いやから嘘って言って!」

 両親は、次から次へと早口で言い立てる。かや子の瞳が、涙でぶれてゆく。

 ああ、もう、我慢出来ない!

 より子は、椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。

「やかましわあっ!」

 全力で怒鳴った彼女は、振り上げた拳をテーブルに思い切りぶつけた。一瞬、両親が口を閉じてより子の方を見る。

「お姉ちゃん……っ」

 かや子の涙声に、より子の胸が燃え上がる。妹を泣かす者は誰であっても、例え親であっても許せない。

「ちょっと、何なん、お父さんもお母さんも! 何で、かや子の話を聞こうとしないんよ!」

 そう言うと、父がムッとしたようにより子を睨んできた。

「何言うてんねん、お前のためにも言うてるんやぞ。妹が同性愛者なんて、結婚のときにも何するときにも付きまとうやろが」

 その言い様が、より子の怒りを更に煽る。

「何よ、その言い方! あたしの為なんて、恩着せがましいこと言わんといてちょうだい。あたしは、かや子がレズビアンでも何でも構わへんねんから!」

「だから、お前が良くても、結婚するときにやな!」

「あたしの恋人は、そんな小さいことを気にするような男じゃない!」

 より子の頭には、憲次の笑顔が浮かんでいた。妹が同性愛であると告げたとき、戸惑うより子をよそに、「ええんちゃう?」と笑っていた憲次。そんな彼をも侮辱されたと思うと、怒りの炎が勢いを増してゆく。

「あのね、より子。結婚するときは、自分たちだけじゃなくて、相手のご家族のことも……」

 諭すように話を始める母にも腹が立って、より子は「ああもう!」と怒鳴って拳を握った。

「そんなん、今はどうでもええの! かや子がレズビアンってことを聞いて、お父さんとお母さんはどうするか、ってことよ!」

「そんなもん、いきなり認められるか!」

「誰もすぐ認めろとは言うてへんやろが! いきなり怒らんと、かや子の話も聞かんかい!」

 父の怒号に、より子は反射的に怒鳴り返した。

「より子お前、親に向かって何やねん、その口のきき方は!」

「あんたの真似しただけじゃボケ!」

 激しく口論する父とより子をよそに、母は「嘘よ、嘘よね」とそればかりを繰り返していた。より子は一度、息を大きく吐きだした。父につられて、ついつい興奮してしまった。こんなことでは更にかや子を怯えさせてしまう、と反省した。

「……お母さん、嘘やないのよ。ほんまのこと」

 より子は母に向き直り、声の調子を落とした。母は何度も何度も首を横に振る。

「そんなん、うちの子がそんな、同性愛者なんてそんなこと、あるわけないわ……」

 より子はもう一度、大きく溜め息をついた。

「あのねえ、お母さん。信じられへんのは分かるけど……」

「だってそんなん、どうするのよ。結婚もせんと子どもも作らんと……そんなん、どうすんのよ……」

「そんなん、かや子の分も、あたしが子ども産んだらええだけの話でしょうが。何人孫が欲しいんよ。十人までやったら、リクエスト答えたるやんか」

「何をアホなこと言うてるの、この子は……!」

「ちょっとかや子、どういうことなんか説明せい!」

 しばらく黙っていた父が再び声を荒げ、食卓はまた混乱し始めた。

「だからちょっと、二人とも落ち着い……」

 どうやっても収まらないこの場に、より子は焦れていた。穏便に話をしようと思うのに、声に苛立ちが滲むのを止められない。もう、何でこんなことになるんよ、と舌打ちしかけたとき、すぐ近くでガタッと音がした。ハッとして隣を見ると、かや子が駆け足でリビングを出て行くところが目に入った。

「かや子!」

 より子は慌てて、かや子の後を追った。



 かや子は自室に駆け込んだ。急いで追いついたより子は、ドアノブを回す。鍵はかかっていなかったので、ホッとした。

 部屋の中は真っ暗で、奥からかや子の泣き声が微かに聞こえてきた。より子は胸が苦しくなり、後ろ手でドアを閉める。闇の中、手探りで妹を見付けて胸の中に抱き寄せた。

「かや子、かや子。ごめんね、力になれなかった」

 泣きじゃくるかや子が、首を横に振る気配がする。

「そんなこと、ない……。お姉ちゃん、わたしのために怒ってくれて、ありがとう……」

 切れ切れの言葉にたまらなくなって、より子は彼女を抱きしめる手に力を込めた。

 どうしてあのときかや子を止めなかったんだろう。どうしてもっと冷静に、両親と話が出来なかったんだろう。

 色んな思いが頭で渦巻いて、悔しくてしょうがなかった。

 しばらく黙ってかや子の泣き声に耳を傾け、自分も泣いてしまいそうになるのを必死に堪えた。そうしていると次第に目が慣れてきて、かや子の姿がぼんやりと見えるようになった。彼女も少し落ち着いたようで、ぽつぽつと話し始めた。

「お父さんがあんなに怒るの……初めて見た」

 それは、より子も同じだった。叱られたことは数あれど、あそこまで激昂した父は初めてだ。特にかや子は小さい頃から両親に叱られることも少なかったので、余計にショックも大きかったことだろう。

「怒られるかも、とは思ってたけど……覚悟が足りなかった、みたい」

 吐息と共に、かや子は力なくそう言った。より子は、ぐっと奥歯を噛み締める。

「……お父さんたちも今日は、突然のことでびっくりしただけやって。根気よく話せば、きっと分かってくれる」

 そうは言ってみたものの、より子はいまいち自分の言葉に自信がなかった。あの両親に根気強く話をする、なんてことが、かや子に出来るのだろうか。勿論より子も協力する気だが、より子が口を出すとどうしても喧嘩になってしまいそうだ。

「わたし、何でレズビアンになんてなったんやろ……」

 疲れた声で、かや子は呟いた。より子は唇を引き結んだ。そんな、全てを諦めたような声で、そんなことを言って欲しくない。彼女には、あの柔らかで魅力的な笑顔で笑っていて欲しい。

「もう、何言うてんのよ、この子は」

 より子は、妹の額をぺちりと軽く叩いた。かや子が驚いたように、より子を見上げる。

「お姉ちゃん……」

「ええやないの、レズビアン。何があかんの。何も悪いことないやんか。そんなことよりかや子の幸せを願おうって、何で考えられへんのよ」

 後半は、両親に向けての言葉だった。より子は本気で憤っていた。それは、少し前の自分に対する怒りでもあった。

 全くもって、簡単なことだった。レズビアンだろうが何だろうが、かや子はかや子、可愛い妹。びっくりするくらい、単純で当たり前なことだ。そんなことにも気付かなかった自分が不甲斐なく、そして今も尚それに気が付いていない両親が、腹立たしくてしょうがない。

「さっき言ったとおり、あたしはバンバン子どもを産むわよ。親父が、もう孫はいらん、勘弁してくれ、って言うまで産んだんねん!」

「お姉ちゃんてば」

 かや子は、ほんの少し微笑んだ。 より子は手を伸ばし、つややかな彼女の髪の毛を指で梳いた。柔らかでまっすぐな髪の毛の間を、指が通ってゆくのが心地良い。

「ねえ、お姉ちゃん」

「うん、なあに」

「ありがとうねえ」

 そう言って、かや子は笑った。闇の中にあって、輝くような笑顔だった。より子も、目を細めて笑った。


 ああ、なんて可愛い、あたしの妹!