■あの子が涙を流すなら! 07■


 ……二十数年後。


 相原より子は駅の改札を抜け、きょろきょろと辺りを見回した。探していた人物は、すぐに見つかった。駅の出口付近に佇む、ほっそりとした女性に向かって、より子は大きく手を振った。

「かや子ー!」

 よく通るより子の声に、佐倉かや子がはっと顔を上げた。そしてより子を見て、「お姉ちゃん!」と顔を綻ばせる。最近かや子が引っ越したというので、今日は彼女の新しい家に遊びに行く約束をしていたのである。

「いやあ、久し振り! 元気にしてた?」

 小走りでかや子に近付き、より子は両手で手を振った。かや子は若々しく、そして品の良い笑みを口元に浮かべた。今年で四十三歳になる彼女だが、せいぜい三十代前半にしか見えない。

「うん、元気よ。お姉ちゃんは?」

「元気元気! じゃないと、三人も子育て出来へんもの」

「ふふ。子供たちも元気?」

 出口に向かって歩き出しながら、かや子は尋ねる。

「元気やけど、真ん中と下が反抗期でしょ。もう、めんどくさいのなんの」

「そっか、もうそんな時期なんやね」

 かや子は、眩しそうに目を細める。

「そうよう。月日の経つのは早いのよう」

 ふたりは顔を見合わせて笑った。



 かや子の新居は、大阪市内にある新築のマンションだった。箕面の古い街に住むより子は、未だにオートロックなどの設備が珍しく、ずっときょろきょろしていた。そうしたら、かや子に笑われてしまった。

「わ、おっしゃれ! 綺麗にしてるやんか」

 室内に足を踏み入れた瞬間、より子は感嘆の声をあげた。

「藍子さんが、インテリアに凝ってるの。勝手にいじったら、怒られるんよ」

 照れくさそうに、かや子は笑った。藍子さんは、現在彼女が一緒に暮しているパートナーだ。かや子と同い年で、高校の美術教師だと言っていた。学生時代に付き合っていた麻紀ちゃんとは、残念ながらあまり長くは続かなかった。今は麻紀ちゃんも結婚して二児の母親なのだと、以前かや子が話してくれた。

 より子が買ってきたケーキとかや子の淹れた紅茶で、ふたりは居間でゆっくりと寛いだ。居間は白と茶色が基調の、お洒落だけど肩の凝らない空間だった。

「今日はね、すごいニュースがあるの」

 より子はそう言って、身を乗り出した。ずっと喋りたかったことなので、口が疼いてしょうがない。

「えっ、なあに。お義兄さん、昇進したの?」

 目をぱちぱちさせて真剣な顔で言うかや子に、より子は声をあげて笑った。

「あはは、そんなんとちゃうって! あのねえ」

 そこで、言葉を切った。うんうんなあに、と、かや子も身を乗り出してくる。言う前から、より子は頬が緩んでしまうのを止められない。

「実はね、次男に彼氏が出来ちゃったー!」

 両手を広げて高らかに言うと、かや子は「えっ!」と、彼女にしては珍しく大きな声を出した。

「お姉ちゃん、今、彼氏って言った? 香織ちゃんに彼氏じゃなくて、まこちゃんに彼氏?」

「そうなの、まこちゃんに彼氏なの」

「まこちゃんに!?」

「そうそう」

 すごいでしょう、とより子は口元に手を当てた。フォークをケーキに突き立てたまま固まる、心底びっくりした様子のかや子に、してやったりな気分になる。

「まこちゃんに、彼氏が」

 かや子は放心したように、もう一度呟く。そしてゆっくりとケーキからフォークを引き抜き、皿に寝かせる。

「びっくり……したあ……。めっちゃ、胸がドキドキしてる。それ、ほんま?」

 胸に手を当て、かや子は何度も何度も瞬きをする。

「ほんまなのよ、これが。相手は同じクラスの子でね、良い子よー。ちょっと神経細そうやけど」

「でも、でも……まこちゃんって、ゲイでは、ないでしょう」

「相手の子がね、誠に告白したんやって」

「そんでまこちゃん、OKしたわけ。何で……」

 言いかけて、かや子は手で口を押さえた。そして恥じるように、

「ごめんね、何で、ってことはないわよね。まこちゃんもその子が好きやから、OKしたんやんね」

  と言い直す。

「その話、まこちゃんから聞いたの?」

「そうそう。夕飯のカレー食べながらいきなりね、吉川と付き合うことになったから、って、あっさり。あ、吉川くんっていうのが、その彼氏の名前ね。ほんっまあの子、お父さんそっくりやわ。そういう衝撃的なことを唐突に、サラッと言うんやもん。あたしも思わず、夕飯食べた後やったのにカレー食べてもうたわ」

「何でそこで食べるのよ」

 かや子は、おかしそうに笑った。

「びっくりしすぎて、お腹空いたのよ」

「それで……お姉ちゃんは何て言うたの」

「女の子と付き合うよりも何倍も大変やねんから、その辺理解して、あんたがしっかりするのよ、って」

「あは、ええアドバイスやわ。お母さんにそういう風に言ってもらえて、まこちゃんも心強いやろうね」

「何と言ってもあたし、日本一同性愛に理解のある母親やからね」

 より子は、胸をそらした。かや子は、うんうん、と頷いて笑う。そんな彼女の笑顔を見て、より子は少し切ない気持ちになった。

 より子は今でも、かや子の為にもっとしてあげられることがあったんじゃないか、と思う。 かや子は短大を卒業すると同時に、半ば勘当される形で家を出た。より子も随分両親を説得しようと頑張ったが、戦時中生まれの石頭を柔らかくすることは出来なかった。かや子は早々に両親に理解してもらうのを諦めてしまい、両親もかや子の話題を出すことは全くなかった。

  あれから約二十年。かや子は、一度も実家に帰っていない。より子との付き合いはあるので、彼女の子供たちとは親しくしているが、それ以外の親族とは全く交流がない。  

  もっとあたしが早くこの子を理解してたら、こんなことにならなかったかしら。あのときかや子が告白するのを止めてたら、もっと違う結果になってたかしら。

 考えても仕方のないことを、今でもたまに考えてしまう。

「ねえ、お姉ちゃん」

 物思いの波にさらわれかけていたより子を、かや子の声が引き止めた。夢から覚めたような気分で妹を見ると、彼女はいたずらっぽい表情をしていた。両親と決別してからも色々あって、かや子は沢山苦しんだ。そして、沢山泣いた。だけどその分、彼女は強くなったと思う。

「藍子さん秘蔵のチョコがあるねんけど、食べへん? 今、持ってくるから」

「え、藍子さん秘蔵って……食べてええの?」

「いいのいいの、まこちゃんのお祝い。ね?」

 そう言って、かや子はふわりと微笑んだ。まるで少女時代に戻ったようなその笑顔に、より子もつられて笑顔になる。今でもより子は、かや子が笑うと言いようのない幸福感で、胸がいっぱいになるのだった。



 ああ!  いくつになっても変わらない、可愛い可愛い、あたしの妹!



おしまい!