■あの子が涙を流すなら! 05■


 すっかり風も冷たくなった、十一月のことだった。

 休日、より子が部屋でラジオを聞いていると、扉がノックされた。 「はーい」 と返事をすると、薄く扉が開かれた。その隙間から、かや子の声が聞こえてくる。

「お姉ちゃん、入ってもいい?」

 かや子は恥ずかしそうにもじもじと、戸口から目を覗かせてこちらを見ている。

「何、どうしたん。そんなんしてんと、早く入って来いや」

 より子は笑って、ラジオの音量を絞った。かや子ははにかんだような表情を浮かべ、滑り込むように部屋に入って来た。後ろ手に何かを持っている。何を持っているのかと尋ねると、より子は一層恥ずかしそうしていたが、やがて手を前に出した。雑誌の切り抜きらしい写真が何枚か入った、透明なファイルだった。

「あの、麻紀ちゃんがもうすぐ誕生日で、プレゼントを選んでるとこやねんけど、ひとりでは決められへんくて……、お姉ちゃんに相談したいな、って」

 麻紀ちゃんの名前を聞いて、一瞬胸の中が重くなったが、表情には出さなかった。未だ、より子の中では結論が出ていない。しかしこれも妹のためだと言い聞かせ、

「良いよ、一緒に考えよう」

 と、微笑んでみせる。それを聞いて、かや子は顔を輝かせた。妹が笑うと、より子も嬉しくなる。 だけどこの子は、あたしが全てを受け入れていると勘違いしているんだ、と思うと苦しくもなるのだった。

「あのね、あのね、一応候補は絞ってあんねんよ。これとか、これとか」

 かや子はそう言って、ファイルの中の切り抜きを一枚一枚丁寧に取り出して床に並べた。丸いフォルムが可愛いピンクの香水、ハートのイヤリング、花とみつばちのブローチ。うさぎのぬいぐるみ。どれもとても女の子らしくて可愛いが、どうも麻紀ちゃんのイメージとは違う気がして、より子は首を捻った。

「麻紀ちゃんてこういうのが趣味なん? もっとコンサバなイメージやねんけど」

「ふふ、麻紀ちゃん、意外と可愛いのが好きやねんよ。見えないでしょ?」

「うん、意外。でも、麻紀ちゃんの部屋ってそんな少女趣味やったっけ?」

 より子は言って、一度だけ入ったことのある麻紀ちゃんの部屋を思い出した。衝撃の告白を聞いてしまった場所だ。あのときの話の内容が強烈すぎて、部屋の細かい内装までは思い出せないが、シンプルな部屋だったような気がする。

「部屋は全然、少女趣味やないのよ。買うのが恥ずかしいんやって。麻紀ちゃん、変なとこでかっこつけやねん。だから、あたしがあげようかな、って思ってるの」

 麻紀ちゃんの話をするときのかや子は、いきいきとして輝いているように見える。より子は眩しい気持ちでかや子を見つめた。そういえばあたしも、憲次と付き合いだした頃はこんな風に必死になって誕生日プレゼントとか考えてたなあ……なんてことを思い出して、胸が甘酸っぱくなる。


 それから二人であれこれ話し合って、プレゼントを選んだ。一時間程ふたりで頭を悩ませて、イヤリングかブローチに絞り込んだ。

「……お姉ちゃんは、憲次さんと結婚するん?」

 話の途中で、突然かや子がそう尋ねてきた。

「え、いきなり何よ」

「だって、お姉ちゃんたち、付き合い始めて結構経つやん。来年には大学も卒業するし……。そういうの、考えてるのかなって思って」

 真剣な口調で言う妹に、より子は少し恥ずかしく、そしてきまりが悪くなった。しばし視線をうろつかせ、「ええと」とか「まあ」とか口をもぞもぞさせた後で、

「うん、すぐにって訳じゃないけど。でも、そういう話はしてるよ」

 と、答えた。するとかや子は手を叩いて顔を輝かせた。

「わ、やっぱりそうなんや! お父さんたちには話したの?」

「ううん、そんなん全然まだまだ!」

 すっかり照れくさくなってしまって、より子は手を振った。

「ほんと全然、いつ結婚するとか、そういうのも決まってないんやから。口約束だけよ」

「そうなんや……」

 かや子はそう呟いてから、目を伏せた。

「それでも……いいなあ……」

 消えそうな声で言い、憧れと諦めを半分ずつ混ぜ合わせたような表情でを浮かべるかや子に、より子はどきりとした。

  この子は一生、好きな人と結婚することが出来ないのだ。 同性愛ってそうよね。そういうことよね。

  より子は、自問自答するように胸の中で頷いた。結婚だけが愛の形じゃないけれど、結婚しないのと絶対に結婚出来ないのとでは訳が違う。彼女らの愛を、国は認めない。どういう気持ちでかや子が「いいなあ」と呟いたのかと思うと、より子は唇を噛み締めたくなった。

「……うん、イヤリングにしようかな」

 重い空気を払うように、かや子は明るい声で言った。

「ブローチよりも、色んな服と合わせられそうだし。あんまり大きい飾りがついてなかったら、麻紀ちゃんもきっと恥ずかしがらずに使ってくれるよね」

 白いハートのイヤリングの写真を手に取って、かや子はより子に「ね?」と同意を求める。

「う、うん。良いと思うよ」

  より子が頷くとかや子は嬉しそうに笑い、細く息を吐いた。

「喜んでくれるかな、喜んでくれるといいな……」

  そのかや子の笑顔に、恋愛の幸福や甘さや苦さや苦しさが全て詰まっているのが感じ取れて、より子は、胸がぎゅうっと苦しくなった。彼女は、本気で麻紀ちゃんを愛している。彼女の持つ純粋さと危うさを振り絞るようにして、西田麻紀という女性を愛しているのだ。そのことを、初めて理解出来た気がした。 より子は、心の根元が震えるような感じがした。

  そして恋人の誕生日プレゼントを選んで一喜一憂する妹の姿を、心底いとしいと思った。

 いとしい。ああ、やっぱり、何があってもあたしはこの子がいとしい!

 それは天啓のように、不意に頭の中に飛び込んできた。同性愛に対する気味の悪さや不安よりも、妹へのいとしさが勝った瞬間であった。ひとたびそう思うとより子の心は震え続け、涙が出そうになった。

「……お姉ちゃん?」

 訝しげな顔をするかや子を、より子は衝動的に抱きしめた。柔らかくて華奢な身体は、より子の腕の中で驚いたように揺れる。

 祝福したい、とより子は思った。この子を祝福したい。彼女が恋をしていること、恋人がいること、その恋人が生まれた日がもうすぐやってくること、彼女が幸福であること、全てをまとめてとにかく祝福したい。

 だって人を好きになって、恋人同士になって、それが誰からも祝福されないなんて、あってはならない! まして姉であり、一番かや子のことを大事に思っているあたしが祝福しないなんて!

「かや子、かや子」

「お、お姉ちゃん。どうしたん」

「あのね、今までちゃんと言ってなくてごめん。あのね、おめでとう!」

「え、な、何が」

「だって、かや子に恋人が出来たんだよ。いや、知ったのがつい最近ってだけで、付き合いだしたんはもっと前、ってのは分かってんねんけど! でも……おめでとう! おめでとう! おめでとう! 良かったね、かや子!」

 一度言うと止まらなくなって、より子は何度も何度も「おめでとう」を繰り返した。口にするたびに、至上の幸福が全身を包んだ。愛する人を祝福することは、何よりも嬉しくて幸せなことだ。何でもっと早くこうしていなかったのだろう、とより子は後悔する。かや子の相手が女性であるとか、そんなことは些末な問題だった。かや子が今幸福である、これが一番大切なことだ。

「お姉ちゃん」

 かや子はやや呆然とした面持ちで、より子を見た。そして「わたし……」と言いかけて、唇をわななかせた。

「わたしずっと、誰でも良いから、そんな風に言って欲しか……っ」

 そこまで言って耐えきれなくなったようで、かや子は声をあげて泣き出した。崩れそうになるかや子の身体を両腕で支える。もっと早く言ってあげられなくてごめん、と小さな声で呟き、より子もほんの少しだけ泣いた。