■あの子が涙を流すなら! 03■


 翌日、授業が終わってすぐ、より子は麻紀ちゃんの家に向かった。

 麻紀ちゃんの家は北摂の高級住宅街にあった。白壁の立派な家に、より子は口を開けて見入ってしまった。庭が広い。屋根が高い。より子には建築のことはよく分からないが、門のデザインも凝っている。麻紀ちゃんは、良いところのお嬢さんらしい。

 しばし豪邸に圧倒されていたより子であったが、意を決してチャイムを鳴らした。お母さんらしき人が出たので名前を告げると、少しして麻紀ちゃんが出て来る。今日も彼女はポニーテールで、白い細身のセーターとジーンズという格好だった。

「お姉さん……」

 麻紀ちゃんはやや気まずそうな顔をして、門を開けた。見た目通り、重そうな音がした。

「あ、ええと……。妹はどんな感じかな、って」

 より子も何だか気まずくなって、麻紀ちゃんから目をそらして言った。どうして言い訳しているような気分になるのか、自分でもよく分からない。

「かや子は、あたしの部屋にいます。どうぞ」

 麻紀ちゃんに促されて、より子は西田邸に足を踏み入れた。

 外観と同じく、中も立派な家だった。玄関が広い。廊下が長い。いちいち花瓶や絵画や陶器が飾ってある。どれも、より子たちの家にはないものだ。みっともないと思いつつも、より子はついあちこち見回してしまった。

「……昨日は、すみませんでした」

 きれいに磨かれた廊下を歩きながら、麻紀ちゃんがぼそりと言った。

「別に、麻紀ちゃんが謝ることじゃ」

「だって……」

 そこまで言って、麻紀ちゃんは口をつぐんだ。より子の胸の奥が、またもざわざわしだす。

 だって、何? 何なの? 何で麻紀ちゃんが謝るの? どうして麻紀ちゃんは、罪を犯した人間のような表情をしているの?

 より子は、にわかに恐ろしくなった。立ちこめる不穏な空気を払うように、より子は首を横に振った。


 二階にある、麻紀ちゃんの部屋に入った。ベッドと机と小さなテーブル、それにタンス二つがあるだけのシンプルな部屋だったが、どれも高いんだろうなと胸の内で溜め息をつく。

 大きなベッドに、かや子が腰かけている。かや子は長い黒髪をおさげにしていて、麻紀ちゃんのものであろうブラウスとジーンズを身につけていた。妹がジーンズを履いているところを、より子は初めて見た。

「お姉ちゃん」

 より子の姿に気付き、かや子は立ち上がった。それから麻紀ちゃんとより子の顔を交互に見て、下を向いた。

「……お父さんとお母さん、怒ってなかったよ。だから、帰ろう、かや子」

 そう声をかけても、かや子は顔を伏せたままだった。戸口に立つより子の横をすり抜けて、麻紀ちゃんがかや子に近付く。そして彼女はかや子のそばで膝をつくと、かや子の耳元で何かを囁いた。それに数度頷いてから、かや子も麻紀ちゃんに顔を近づけて、より子には聞こえない声で何かを言う。

 より子はちょっとムッとして、顔をしかめた。自分には聞こえないように、あれこれやり取りされるのは気分の良いものではない。

 数度言葉を交わした後、ふたりはしっかりと頷き合った。

「……すいません、お姉さん。どうぞ、座って下さい」

 麻紀ちゃんが軽く頭を下げ、小さなテーブルの足下に置かれたクッションを手で示した。より子は何となく面白くない気分のまま、クッションに腰を沈める。素晴らしく柔らかく、座り心地のよいクッションだった。

 かや子もベッドを降り、麻紀ちゃんと並んでテーブルの側に座った。そしてもう一度、お互いの顔を見合わせた。

「……あのね、お姉ちゃん」

 やけに真剣な妹の口調が怖かった。無意識の内に、より子は身体を硬くしていた。この空気は一体何事だ。かや子は、何かを決心したような顔をしている。一体何を決心したのか。そこは、考えたくなかった。

「お姉ちゃんに、聞いて欲しいことがあるの。昨日のわたしたちを見て、何となく気付いたかもしれへんけど」

 いや、あたしは聞きたくない!

 即座に、そう思った。それが本音だった。これから妹が何を言い出すか。想像がつくような気がしたけれど、いやそれは間違いだ、と彼女は自分の予想を必死に否定した。

「お姉ちゃん、わたし」

 あかん。駄目。やめて。

 かや子が生まれてから今日この日まで、彼女はより子の可愛い妹だった。それなのに、こんなことが。まさか。お願い。ほんまに。許して!

「わたし、男の人が駄目で……、女の人が好きなの」

 くらりとした。何となく予想していたとはいえ、やはりショックだった。目の前が暗くなる、というのをより子は初めて体験した。床に手をつくが、そのまま手が床にめりこんでゆくような感じがした。

「麻紀ちゃんのことが好きなの。……愛し合ってるの、わたしたち」

 待って、待って、かや子。

 より子は、空気を取り込もうと口を開けた。呼吸の仕方が、急に分からなくなった。苦しい。

「……いつから、やの」

 必死で息を吸い込み、より子は唸るように言った。かや子が、口の端を強張らせる。

「それは、わたしがレズビアンになったのが、いつからってこと? それとも、麻紀ちゃんとの付き合いがいつからってこと?」

「どっちも、よ」

「自分がレズビアンだって自覚したのは、一年くらい前……。麻紀ちゃんとのお付き合いも、その頃から」

 これは現実だろうか、と思った。こんなことが、現実であって良いのだろうか。より子はかや子たちの顔を見ることが出来なくて、下に視線を落とした。毛足の長いラグが見える。白くてつやつや。より子の精神状態と真逆だ。彼女の心は今、どす黒くてささくれだっている。

「お姉ちゃん……怒ってる……?」

 怯えた声で言われ、より子は顔を上げた。かや子は、震えをこらえるようにして、ぎゅっと唇を噛み締めている。

 自分が怒っているのかどうか、より子には判然としなかった。腹立たしい気もするし、悲しい気もするし、そのどれとも違う気がする。ただ、胸にごうごうと嵐が巻き起こり、息が苦しい。

「いや……あたしは……」

 言うべき言葉が見つからず、より子は視線を彷徨わせた。次にかや子に視線を戻したとき、彼女は涙を流していた。木製の小さなテーブルに、妹の涙がぱたぱたと落ちる。

「ごめんね、こんな話……っ。妹がレズビアンなんて、嫌やんね……。お姉ちゃん、ごめん……ごめんね……っ」

 その涙に、より子は胸を貫かれた。  胸の嵐がぴたりと止み、別の感情が湧き上がってくる。

 ああ、ああ、かや子! あたしの可愛い妹!

 でも、とより子は拳を握りしめた。駄目だ。同性愛なんて、絶対に駄目だ。自分の妹がレズビアンだなんて、認めることが出来ない。そんなこと、出来るはずがない。というか、彼女が本気なのかどうかが分からない。いや、言っている本人は本気なのだろうけれど、本当にかや子がレズビアンなのか疑わしい。ずっと女子校暮らしで男性に縁がないから、そんな風に思い込んでいるだけなのではないか。 ここはガツンと言ってやらなければ、とより子は口を開きかけた。しかしその瞬間、泣いているかや子の顔が視界に入って、彼女の唇は石化したように動かなくなってしまうのだった。

 かや子が、妹が泣いている。だけど、同性愛だなんて、そんなことおいそれと認めることは出来ない。どうする。どうすればいい!

 より子は無意識の内に、かや子の手を握りしめていた。かや子が、ハッとしたようにより子を見る。涙で濡れた、黒い瞳。震える唇。白い頬。泣き虫で気が弱くて、一人では何も出来ないかや子。

「大丈夫。お姉ちゃんが、力になるから」

 より子は、そう言った。言ってしまった。妹がレズビアンだなんて、これっぽっちも受け入れていないのに。泣いている妹の姿を見るのが辛いばっかりに、無責任な発言をしてしまった。

「お姉ちゃん……!」

 かや子は、これ以上ないくらいに嬉しそうな顔をした。そんな彼女を見ていると、激しい後悔が押し寄せてきた。胸がギリリ、と痛んだ。