■あの子が涙を流すなら! 01■


 佐倉より子は、ひとつ年下の妹かや子が、可愛くて可愛くて可愛くてしょうがなかった。

  かや子は、何をしても可愛かった。笑っていても怒っていても、ただそこにいるだけで可愛かった。そんな妹に、より子は物心ついたときから惜しみない愛情を注いでいた。

  妹はより子と違って大人しく、身体が弱かった。幼い頃は学校を休みがちであったかや子の為に、より子は道ばたに生えている花で飾りを作り、綺麗な石を拾い、妹に届けるのが習慣だった。かや子はとても喜んでくれて、より子はそれが何よりも嬉しかった。

「おねえちゃん、ありがとうねえ」

 そう言ってふんわり笑う、かや子の柔らかな笑顔が好きだった。清楚で控えめな妹を、このあたしが姉として守ってやるんだと、より子はいつもそう思っていた。


「ふう……」

 喫茶店のテーブルに肘をついて、より子は溜め息をついた。マスターが一人でやっている小さな店で、中森明菜の歌が流れている。ここのBGMは、いつ来ても明菜ちゃんだ。

  より子の向かいには恋人である相原憲次が座っていて、コーヒーをかき混ぜながら「どうしたん」と首を傾げる。

「今日ね……、かや子、お見合いやの」

 より子は呟き、遠くを見つめた。憲次は驚いたように、目を瞬かせる。

「え、お見合い? かやちゃん、まだハタチちゃうかったっけ?」

「そうよう、ハタチよう。今年で短大卒業。あの子は中学からずっと女子校やし、控えめな子やしで、両親が心配してんの。もう、姉としては微妙な気持ちやわあ……」

「へえ、そうなんやあ」

 憲次の相槌により子はもう一度溜め息をついて、今朝のかや子を思い出していた。  

  振り袖を着て、お人形のように佇む可愛いかや子。より子が可愛い可愛いと手放しに褒めちぎると、恥ずかしそうに肩をすくめていた。だけど緊張しているのか、ずいぶんと表情が硬かった。

「そんな真剣に考えんで大丈夫。しょうもない相手やったら、ご飯だけ食べて帰ってき、ね?」

 両親のいないところでこっそりかや子に耳打ちしたら、彼女は「うん」と小さな声で頷き、やっと笑った。

「……だってさあ、もし縁談がまとまっちゃったら、あたし、どうしたらいいん!」

 より子はそう言って、大きな口を開けてショートケーキを頬張った。

「なんや、妹が男に取られるんが嫌なんか」

 憲次は、白い歯を見せて楽しそうに笑った。爽やかな笑顔だった。彼の笑顔は爽やかすぎて、たまに腹が立つときがある。

「そりゃそうよ! あたしの可愛い妹やのに!」

「……お前、ほんっまシスコンやなあ」

 若干呆れた調子で、憲次が言う。シスコンと言われるのには慣れているので、より子はなんとも思わない。

「でも、もし、かや子が見合い相手を気に入ったんやったら、それはもう仕方ないやん。腹立つけど。腹立つけど! くそ、そうなったら、絶対相手を一発殴る!」

「より子。言葉遣い言葉遣い」

 どうどう、と憲次はなだめるようにより子の肩をさすった。より子は苛々を収めるために、もう一口、大口を開けてショートケーキを食べた。

「それにしても心配。ほんま心配。だってあの子ずっと女子校やったから、ちょっと男の人苦手なんよ。大丈夫かなあ」

「ああ、うん。かやちゃん、未だにおれとあんまり目を合わせてくれへんもんね」

 憲次は多少落ち込んだように、声のボリュームを下げた。相原憲次と佐倉より子が付き合い出して、もうそろそろ丸三年になる。お互いの両親からも公認されていて交際は順調だったが、かや子だけはいつまで経っても憲次に心を開く兆しがなかった。

「いや、別に憲次のことを嫌ってるわけじゃないのよ」

 慰めるように、より子は言った。

「こないだも、『憲次さんと一緒に行ったら?』って、映画のチケットくれたし。まあ、それは友達と行ってんけど」

「え、おい。何でおれと行かへんねん」

「だって、恋愛映画やってんもん。あんた興味ないやん」

「うん、まあ、ないけどもさあ……」

 頷きながらも、憲次は釈然としない様子で口を尖らせた。それから壁に掛かっている時計を見て、「うわっ」と声をあげた。

「ごめん、バイトあったん忘れてた!」

「ああ、はいはい。行ってらっしゃい」

 慌てて立ち上がる憲次に、より子は手を振った。こんな風にデートを中断されても、彼女は腹を立てたりしない。特に今は妹のことで頭がいっぱいになっていて、別のことを考える余裕がなかった。

「ほんまごめん! また明日、学校でな!」

「うん、気をつけて。事故に合わんようにね」

「ありがとう」

 憲次ははにかんだように笑ってから、バタバタと慌ただしく店を出て行った。

  その後ろ姿を見送ってから、より子も時計を見た。午後三時半。中途半端な時間だ。どうしようかな、と少し考えてから、彼女も店を出ることにした。家に帰って、かや子が帰って来るのを待とう。一刻も早く、今日の話が聞きたい。


 地元の駅に着いて、より子はのんびりとした速度で歩いた。秋も深まるこの季節、絨毯のように敷き詰められた落ち葉を踏みしだいて歩くのが楽しい。

 かや子、ほんまに大丈夫かなあ。緊張しすぎて、泣いたりしてへんかしら。

 一人でいると、すぐに妹のことを考えてしまう。自分でも相当重症だと思う。

 その時、背後から誰かが体当たりしてきた。腰の辺りに重い衝撃を受け、より子はびっくりして「きゃああ!」と叫び声をあげた。

「お姉、ちゃん……!」

 腰元から聞こえる声に、えっと思って身体を捻る。まず最初に、赤くて華やかな着物が目に入った。母のお下がりの、ちょっと古くさいけれど美しい振り袖だ。

「えっ、なっ、かや子っ?」

 腰に飛びついてきたのは、妹のかや子だった。かや子は肩で息をしながら、顔を上げた。美容院できっちりとまとめてもらっていた黒い髪はほつれ、着物も着崩れてしまっている。

「かや子、お見合いはどうし」

 その言葉が終わらない内に、かや子の両目から透明の涙があふれ出し、より子はぎょっとした。

「ど、どうしたん、かや子! 相手に、酷いことでもされたん!?」

 かや子の肩を掴んで問い質すと、彼女は泣きじゃくりながら弱々しく首を横に振った。

「違う……っ、違うの……」

 そう言って、かや子は泣き続けた。事情は分からないが、より子の胸は痛んだ。可愛い妹の涙が、一番堪える。

「そんなら、何があったの。泣いてたら、分からへんわよ」

 なるべく優しい口調で尋ねる。するとかや子は突然、

「もう、嫌やの!」

 と大きな声を出した。妹のそんな声を聞くのは初めてだったので、より子は驚いて言葉を失ってしまった。

「もう、嫌! お見合いなんて嫌! 嫌! 嫌っ! 男なんかと会いたくないの!」

 喉が裂けんばかりに絶叫して、かや子はより子の胸に顔を埋める。より子は呆然とした思いで、泣き叫ぶ妹を見下ろした。

「も……もしかして、お見合い、途中で抜けてきたの?」

 聞くと、かや子は無言で頷いた。なんてこと! と、より子は天を仰いだ。

「そんなに、相手が嫌やったの?」

 恐る恐る尋ねてみると、彼女は勢いよく顔を上げた。

「相手が誰とか、そんなこと問題やないの!」

 そう叫んだ拍子に、彼女の両目から更に大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。そのたびに、化粧がどんどん崩れてゆく。

「麻紀ちゃんに、会いたい……っ」

 涙でブレた声で、かや子は絞り出した。

「麻紀ちゃんに会いたい! 麻紀ちゃん! 麻紀ちゃん!」

 あああっ、とかや子は泣き崩れた。道行く人々が、一体何事かとすれ違い様にこちらをチラチラと見る。

  あの清楚で控えめなかや子が、こんなにも感情をむき出しにするなんて、何事なの。 より子は、しばし呆然としてしまった。そして混乱する頭を抱えつつ、麻紀ちゃんて誰だっけ、と重い頭で必死に考えた。

 麻紀ちゃん。そうだ、西田麻紀ちゃん! かや子の短大の同級生で、一番の仲良しの女の子だ。確か手帳に、彼女の自宅の電話番号を書き留めておいた筈。首を巡らせて周囲を見ると、すぐ近くに電話ボックスを見付けた。よし、とより子は拳を握りしめた。

「分かったから。お姉ちゃんが、麻紀ちゃん呼んでくるから。ちょっと待ってて」

 そう言い置いて、より子は電話ボックスに飛び込んだ。身体を捻ってかや子の姿を視界に入れつつ、急いでダイアルを回す。 三コール目に、麻紀ちゃん本人が電話に出た。はきはきとしていて、しっかりとした印象の声だった。

「もしもし、わたし、佐倉かや子の姉です。初めまして」

 受話器に食らいつく勢いで、より子は早口で挨拶をする。

『あっ……、お姉さん、初めまして』

 麻紀ちゃんは緊張したように、やや声を硬くする。

「突然の電話で、ごめんなさいね。実は今、妹がお見合いを抜け出して来ちゃってて」

『お見合い!?』

 心底驚いた様子で、麻紀ちゃんは聞き返してきた。それに、より子も驚いた。麻紀ちゃんは、お見合いのことを知らなかったのだろうか。

『かや子、お見合いしたんですかっ?』

 詰問するような口調で言われて、より子は少々戸惑ってしまった。かや子は、一番の親友にお見合いのことを話していなかった? どうして?

「え、あ、いえ、そうなんだけど、でも、何かあったのか、途中で抜けて来ちゃったみたいやの。あの子、ずっと泣いてて何も言ってくれへんし、麻紀ちゃんに会いたい、ってそればっかり。それで、もし迷惑じゃなかったら」

『行きます。今、かや子は何処にいるんですか』

 麻紀ちゃんは即答した。彼女の勢いに若干気圧されたより子だったが、とにかく来てくれるというので安心した。