■きらめかない、ときめかない 06■
夢を見た。
俺は自分の部屋の、黒いローテーブルに肘をついて、特に見たくもない野球中継をなんとなく眺めていた。画面の中で誰かがホームランを打って、おー、なんて気の抜けた声をあげる。
そうするとキッチンからメグリがやって来た。当たり前みたいに俺のTシャツとスウェットを身につけ、手には焼きそばの盛られた皿を二枚持っている。
「はい、もっさん、ご飯」
そう言ってメグリは、俺の前に焼きそばを置いた。ふわりと白い湯気が立ちのぼる。
メグリが俺の家で俺の服を着て、飯を作ってくれるというシチュエーションに、夢の中の俺は何ひとつとして疑問を抱いていなかった。それよりも今回はきちんと服を着ていて、濃厚なラブシーンからは程遠そうな状況であることにほっとする。俺は皿の縁に置かれていた箸を手に取った。
「ねえ、もっさん」
メグリの声に、俺は焼きそばを箸で掴もうとしていた手を止めた。顔を上げると、無表情のメグリと目が合った。
「俺、今日こっから出てくから」
メグリは淡々と述べつつ、テーブルの端に置いてあった醤油差しを持ち上げた。俺は、ごくりと唾を呑み込んだ。しまった、油断した。今日は、いきなり本題だったか。
「なん、で?」
引き攣った笑いと共に尋ねたら、語尾にかぶせる勢いで「だってもっさん、ひでえもん」と返って来た。
「何が」
「色々。つめてえし、思いやりねえし」
メグリは早口で言って、焼きそばの上で醤油差しを傾けた。黒い液体が、びしゃびしゃと麺の上に注がれてゆく。
「え……ちょ、メグリ、何やってんの? これ、もう味ついてんじゃねえの。醤油いらねえだろ」
「もっさんは酷い」
俺の言葉を無視して、メグリは絞り出すように言った。彼からは正体不明の気迫が感じられて、反論することが出来なかった。
「俺にばっか冷たいし、肝心なことは何も言ってくれないし」
焼きそばが、どんどん醤油に浸ってゆく。やがて黒い液体は皿から溢れ、テーブルに流れ出した。
「いや、メグリ。メグリさん。醤油、醤油」
「またそうやって、話をそらす気だ」
鋭い目で睨みつけられて、俺は反射的に口を閉じた。その間にも、醤油はどんどんテーブルに広がる。終わりがない。この小さな醤油差しに、どうやってそれだけ大量の醤油が入っているんだと思った。
「もっさんはいつもそうだ。そういうの、不誠実っていうんだよ。それで、俺ばっかりがしんどい思いをする」
その言葉は鋭い刃となって、俺の胸に深く突き刺さった。身に覚えがありすぎる。醤油が溢れる。黒い海がどんどん広がってゆく。
「もっさんは酷い。酷いよ。もうしんどい。嫌だ」
いつの間にやら、醤油の海は部屋全体に広がっていて、俺の腰元辺りまで水位が上がってきていた。
「メ、メグリ、ちょっと待てって」
どんどん、醤油の量が増してゆく。尋常ならざる増えっぷりだ。水位がもう、俺の胸元まで達している。
「メグリ!」
俺は、メグリから醤油差しを取り上げようと、慌てて手を伸ばした。彼の手首に触れる。色のないメグリの目がこちらを見る。俺は震え上がった。
「だからもう、さようなら」
「こえええっ!」
そんな叫びとともに、俺は布団を跳ね上げ飛び起きた。そのまま、布団の上でぜえはあと呼吸を整える。その内に周りに醤油の海が無いことに気が付き、ああ良かったこれは現実だ、ほっとする。
怖かった。若干意味が分からなかったが、無表情で醤油を注ぎまくるメグリが大変に怖かった。思い出すと、腹の底が締め上げられるような感じになる。
そしてまた、メグリと付き合って別れる夢だった。一体、何だと言うのだろう。俺の深層心理は、一体何がしたいんだ。
だけど昨日の俺は本当に心から最低だったから、メグリに振られても仕方がない。いや付き合っていないのだけれど。 夢の中で彼が言っていた、俺が不誠実でメグリばかりがしんどい思いをしている、というのはもっともだと思う。だから俺は振られたわけで……いや、付き合っていないのだけれど! ああ、夢と現実がごっちゃになってややこしい。
俺は頭を上げて、カレンダーを見た。今日は休みだ。メグリに会わないで済むことに安堵する。それと同時に、そんなだからメグリに不誠実だと言われるんだと思った。いや、実際に言われたわけではないけれど。ああ、本当にややこしい。
このまま家でじっとしていたら、頭がおかしくなってしまう。俺は顔を洗って着替えを済ませ、枕元に放り出してあった文庫本を掴んで部屋を出た。珈琲でも飲んで、頭をシャキッとさせよう。
俺は、行きつけの珈琲店に出掛けた。珈琲とサンドイッチを買って、店の奥にあるソファ席に身を沈める。
苦い珈琲をひとくちすすり、ほっと一息ついたところで隣のテーブルからやかましい女の声が聞こえてきた。
「そうそう、メグリの続報があるんだけど!」
やたらと早口で、そんな言葉が聞こえた。俺は勢いよく、隣のテーブルに顔を向け……たいのをぐっと堪え、視線だけをさりげなく横に滑らせた。すると、巻き髪の女が渋くてけだるい声で「またメグリ?」と言うのが見えた。この声は間違いない。ブルースだ。もう一人、甘ったるい化粧をした女が楽しそうに手を叩く。
「聞きたい、聞きたい!」
顔と同じくらい甘ったるいアニメ声だった。この声も、俺は知っている。 早口、ブルース、アニメ声。この、声に特徴がありすぎる女子高生三人組。
これは間違いない。彼女らは、以前もテーブルが隣同士になった女子高生たちだ。俺は店内の時計を見た。午前十一時を少し回ったところだった。何だって学生が、こんな時間にこんなところにいるんだ。それに、メグリの続報って一体何だ。
俺はそんなことを考えたが、一つ目の疑問はすぐに解けた。そういえば、今日は土曜日である。客商売をしていると、平日と休日の認識が曖昧になっていけない。
そして二つめの疑問も、程なくして解決した。以前と同じように早口が、憚ることなく堂々とメグリの話を始めたからである。
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