■きらめかない、ときめかない 01■
「えええっ、メグリってホモなのおっ!?」
突然聞こえてきた声に、俺は顔を上げた。久々に休みを取ることが出来たものの特にすることがなく、なんとなく珈琲屋で読みかけの文庫本を広げていたときのことだった。
声の出所は、隣のテーブル。女子高生らしき三人組だ。先程から何やら下世話な話で盛り上がっているらしかったが、それまではあまり気に留めていなかった。しかし、前述の言葉にはつい反応してしまった。
何故ならば、俺の知っている人間にも、メグリという名の男がいるからだ。
俺の知るメグリは、名字が巡といって……下の名前は何だったか。朋……朋ナントカだ、確か。忘れてしまった。職場に行けば分かる。 メグリは俺の勤める書店の高校生バイトだ。隣でキャアキャア盛り上がっている連中と、丁度同い年くらいの。
もしかして、こいつらはメグリと同じ学校なのだろうか。で、メグリがホモだって?
メグリは一年前くらいからバイトに来ていて、人懐こい性格で覚えも早く、よくやってくれているのでとても助かっている。そのメグリが、ホモ?
いや、偶然の一致で別人のことかもしれない。しかし、メグリなんて珍しい名字が、そうそう被るだろうか。
俺は隣に怪しまれないよう文庫本に視線を落としつつ、耳だけは女子高生の甲高い声に集中させた。いや、良いんだけども。メグリがホモでも別に良いんだけれども。だけどやっぱり、気になるじゃないか。
「え、メグリって誰? うちの学年?」
ブルースでも歌い出しそうな、けだるげかつ渋い声の女子高生が言った。
「うちの学年だって。ほら、三組にいるじゃん。小嶋と岩田と仲良い奴」
やたらと早口の女子高生が、そう返す。三組とかじゃ分からねえよ、もっと具体的なヒント出せよ、と俺は舌打ちしたくなった。
「分かんない。もうちょっと情報ないの」
ブルースが、ゆったりと首を振るのが視界の端に映った。そうだよな、もっと情報が欲しいよな、と心の中でブルースに同意する。
「あ、ほら、メグリってあれだよ。陸上大会で異常に速かった奴。うちのクラスの陸上部連中が、めっちゃ悔しがってたじゃん」
アニメ声の女子高生が、弾んだ声をあげた。「ああ、あいつね」と、把握したらしいブルースが頷く。 俺は奥歯を噛んだ。陸上大会。そういえばメグリから、そんなような話を聞いたことがある。
(俺、運動駄目だけど、足だけは速いんすよ。こないだも、学校の陸上大会でね……)
そうそう、そんなことを言っていた。思い出すと同時に、頭を抱えたくなった。うわあ、決まりかあ。あいつかあ。やっぱり、あのメグリのことだったかあ。いや、別に良いんだけれど。良いんだけれども、にわかに心臓が鳴り出した。
「ていうか、何処からそのメグリがホモって情報が出て来たの?」
アニメ声が早口に問い、早口は「それがさあ」と言って声を低くするが、隣のテーブルに座っている俺にも丸聞こえだった。
「静香ちゃんがメグリに告ったらしいんだけど、断られて、そんときに聞いたらしいよ」
「マッジでー? 静香ちゃん、それはキッツイわ」
色々と動揺していた俺の心が、一気に静まりかえった。その静香ちゃんとやらはメグリにふられた腹いせに、早速こうやって吹聴して回っているわけか? それこそキッツイだろ、と思う。むしろメグリに同情したくなった。
「ていうかアレだね、メグリってそんなホモっぽかったっけ?」
「あー何かね、言われてみたら女の子に興味なさげかなー? て感じかな」
「別にカマっぽくはないよね」
「そうだよねー」
女子高生たちの勝手な盛り上がりを聞きつつ、俺は息を吐いて文庫本を閉じた。聞かなくて良い話を聞いてしまった。別にメグリがホモでも、業務に支障を来すわけではないし。あいつは良い奴だし仕事もよく出来るし、何の問題もない。
女子高生のうわさ話なのでどのくらいの信憑性があるのか分からないが、本当でも嘘でもメグリが気の毒だ。さっさと立ち去って、今日のことは忘れよう。
そう思って残ったコーヒーを一気に飲み干そうとカップに手をかけたら、アニメ声が楽しそうに言った。
「ええー、そんじゃあさ、誰かと付き合ってるのかな。うちの学校に、もう一人ホモがいるとか」
アホらしい。どうでもいいわ、そんなもん。俺はカップに口を近づけた。すると、笑いをこらえるように早口がこんなことを言い出したのだった。
「いや、バイト先に好きな人がいるんだって!」
俺はカップに口をつけたまま動きを止めた。え、今この早口、なんて言った? バイト先に? メグリの好きな奴がいる? すなわちそれは、俺の職場に?
駅前にある、あの大して大きくない本屋に?
「それも、静香ちゃん情報なの?」
ブルースが、やや呆れたように言う。早口は、笑って首を横に振る。
「ううん、これは岩田情報」
岩田! おまえ、友達の秘密を、こんな口の軽そうな女にばらしてんじゃねえぞ! 俺は、会ったこともない岩田という男をを心の中で罵倒した。メグリも岩田とやらを信用して、そんな話をしたのだろうに。友達は選べと、今度あいつに言ってやらないといけない。
いやしかし、これ以上は本当に、聞いてはマズイ気がする。そう思うのに、椅子から動くことが出来ない。気になる。メグリの好きな奴が誰なのか、メグリには申し訳ないがめちゃくちゃ気になる。下世話な興味が湧いてくるのが止められない。
誰だ。一体誰なんだ。俺は頭の中で、職場の男スタッフの顔を片っ端から並べていった。 うちの職場には、学生やらフリーターやら、結構な数の男スタッフが在籍している。その中で、一番メグリと仲が良いのは誰だろう。
「なんか、バイト先の上司で好きな人がいるらしいよ。ずっと片想いなんだって」
「へえー、純愛じゃん」
……ちょっと、待て。ちょっと待て!
俺の心の中に、大嵐が巻き起こった。ブルースやアニメ声は、メグリの好きな人というのが自分の学校にいない、ということで若干がっかりしているようだったが、俺の首筋には冷や汗が溢れた。
バイト先の上司。ということは、社員ということか。うちの店に、社員は三人しかいない。 ひとりは店長、ひとりはコミック担当の女の子、そしてもうひとりが、俺、だ。ホモってくらいだから、女の子は除外だろう。店長は五十代の妻子持ち。俺は二十五歳独身。
……えっ、俺? もしかして、俺?
いや。いやいや。早とちりすべきではない。店長かもしれない。メグリは尋常ならざる渋好みなのかもしれない。ハゲ好きなのかもしれない。メタボフェチなのかもしれない。その可能性だって捨てきれない。
そういえばメグリはやたらと俺に懐いているけれど、それに他意はない……はずだ。最近、「ハタチになったら飲みに連れてって下さいよー」とか「もっさんの家行かせて下さいよー」などと頻繁に言われるけれど、それだって他愛もない職場内コミュニケーションだ。深い意味はないに決まっている。
しかしメグリが、店長にそんな風に絡むことってあるだろうか。少なくとも俺は、見たことがない。いやでもそれはほら、好きだからこそアタック出来ないのかもしれないし? なあ?
さっきから、手のひらが汗でぬるついてしょうがない。女子高生たちは、正に「メグリのバイト先の上司」が隣のテーブルに座っていることも知らず、メグリの好きな人はどんな人か、ということを好き勝手想像して盛り上がっていた。
俺はというと、今まで全く意識していなかったメグリの行動や言動が、実は意味を持っていたんじゃないかと思い始めていた。 時間よりも随分早く店にやって来て、俺が閉店担当のときは最後まで残っているのは、もしかしてそういうことか。大笑いすると俺の背中をバンバン叩いてくるのは、そういうことか。
あまりにもバシバシやりまくるから腹が立って、一度四の字固めを食らわせてやったことがあったが、そのとき文庫担当の女の子が「メグリくん嬉しそうなんですけど!」と笑っていた。メグリは「痛すぎて笑うしかないんすよ!」と言っていたが、それも、もしかして、もしかしてそういうことだったのか。
疑い出したらキリがない。全てが怪しく感じられる。しかし、この女子高生の言うことが全てデマだという可能性だって勿論ある。確率は低そうだが、俺の知っているメグリとは別人のメグリくんの話だということもある。一概には決められない。そのはずだ。
だけど、もし、万が一、メグリが俺のことを好きだったらどうする? 俺はテーブルの木目を凝視した。もしそうだったら、どうしよう。いや、どうもしなくていいのか? 頭の中に、屈託のないメグリの笑顔がチラつく。「もっさん、俺に弁当作って下さいよー」とか訳の分からないことを言う、メグリの声が耳の奥で再生される。
どうしよう。心臓が、熱を帯びてきた。俺は一体、どうすればいいのだろう。いやでも、俺じゃないよ。いや、でも、でも。
そのとき突然、俺のポケットの中で携帯が鳴り出した。心底驚いた俺は、思わず椅子から腰を半分浮かせてしまった。足がテーブルに当たり、ガン、と大きな音がする。隣のテーブルの女子高生たちが、一斉にこちらを見る。恥ずかしくなって、彼女らから視線をそらすようにして携帯を取り出した。
着信:メグリ
俺は息を呑んだ。何故、こんなタイミングでメグリから電話がかかってくるのか。
携帯電話は鳴り続ける。俺は震えながら、通話ボタンに指をかけた。出るべきか? いや、出ろよ、と思う。仕事の話かもしれない。店内では対応しきれない、何かトラブルがあったのかも。
店内は空調が効いて快適なはずなのに、汗が顎を伝う。
どうしよう。メグリ。あいつは生意気だけど良い奴だ。メグリ。どうしよう。どうしよう。どうしよう!
俺は頭を抱えたくなった。携帯電話の振動とバイブ音が、頭でわんわん反響する。 職場の部下、メグリ。良い奴だ。弟みたいなものだと思っていた。
ああ、どうしよう。どうしよう。どうしよう!
どうしよう、をひたすら繰り返していたら、着信は止んだ。俺は、大きく息を吐き出した。 止まった。止まってくれた。止まってくれた、という表現もおかしいが、そうとしか言いようがない。着信が止まると同時に、頭の中でわんわん言っていた音も消えたが、心の中の「どうしよう」だけは収まらなかった。
次 戻
|