■青あおとした青 13■


 はっと我に返ったら俺は床に座り込んでいて、大和が俺のシャツのボタンを留めていた。

 頭の中では、温い波が緩やかに寄せては引いてを繰り返していて、どうにも思考がはっきりしない。

 ええと、何があったんでしたっけ。

 俺は視線を動かして、大和を見た。彼は楽しそうに、ボタンをひとつひとつ留めている。その顔と指の動きを交互に見ていたら、急に頭の中と視界が鮮明になった。そして俺は、今までのことを全て思い出した。

「わああっ!」

 思わず大声をあげて、大和を突き飛ばす。彼は後ろに倒れそうになるのを、床に手をついて堪えた。

「な……、いっちゃん、いきなり何なの……!」

「こ、この、外道が!」

 俺は手を振り上げて、大和の頭や背中を何度も何度もはたきまくった。

「いた、痛い、痛いってば、いっちゃん!」

 情けない声を出しながらも、大和の顔は笑っている。それがむしょうに腹が立って、俺は更にバシバシと奴をどついた。

「しばく! マジしばく!」

「あはは、もうしばいてんじゃん」

「こんなもんでおさまるかあ!」

「えー、でも」

 大和は言って、俺の両腕を掴んで顔を寄せてきた。

「気持ち良かったっしょ?」

 大和はニコッと笑う。

 瞬時に、先程のぬるぬるとかぐちゃぐちゃとか自分のみっともない声だとかが脳裏に蘇ってしまって、顔が一気に熱くなった。

「いっちゃん、かわいいー」

「やかましわ!」

 両腕をホールドされているので、俺は大和の額に頭突きを喰らわせてやった。ごつ、と鈍い音が頭蓋骨に響く。

「い、いってえ!」

 大和が初めて、本気で痛そうな声をあげたので、俺は少し満足して鼻で笑った。

「もーいっちゃん、さっきまでと全然ちが……」

 大和がそこまで言ったところで、俺は渾身の殺気を込めて彼を睨みつけた。すると大和は、肩を縮めて口を閉じた。

 俺はさっさと衣服を整えて、立ち上がった。関節が妙に軋んで、顔をしかめた。大和が側でヘラヘラしていたので、もう一度頭をはたいてやった。

 二人揃って教室を出る。いつの間にか、とっぷり陽が暮れていた。 どんな顔をしていれば良いのか分からなくて、視線をあちこちに彷徨わせていると、携帯が震えた。確認してみると、高野からのメールだった。

『あんまり介入しない方がいいかなーと思って、あたしあのまま帰っちゃったんだけど、大丈夫だった? 大和と喧嘩にならなかった?』

「おおおおう……」

 呻きながら、俺はその場にしゃがみこんだ。そうだった。高野のことを忘れていた。彼女もまさか、こんな展開になっているとは予想だにしていないことだろう。というか、俺も全く予想していなかった。

「どうしたの、いっちゃん」

「うわああ、高野おお。あああ返事出来ねええ」

「何がだよ。見ていい?」

 大和の言葉に、よろよろと立ち上がってから頷くと、彼は俺の手から携帯を取った。画面を一瞥し、「はあ」と吐息のような声を出す。

「普通に返事すればいいじゃん」

「いや、普通に、ってどういう風によ!」

「だから、大和と俺はラブラブになりました、って」

 俺は拳骨で大和の頭をどついた。

「いって! ちょ、いっちゃん、さっきからこれDVじゃね?」

「うっさいわボケ! お前な、高野の気持ち考えろよ。高野はお前のこと好きやねんぞ」

 俺の言葉に、大和はうんざりしたように舌を出した。

「しっつけえー。だから違うっつってんのに。高野が好きなのは、いっちゃんでしょ? おれんとこには、そんな優しいメールなんて来ねえもん」

「しつこいのはお前やろ! 俺は絶対違う、っつうのに」

「そんじゃあ明日、確かめてみようぜ」

「おお、ええで」

 俺は自信満々で胸をそらした。

「よし、じゃあ勝負な」

 大和もキリっとした顔を作ってそう言った……のも束の間、すぐに表情を崩して「うふふふふ」と笑った。その笑いが心底気持ち悪かったので、俺はちょっと彼から離れた。

「な、何やねん、その笑い。怖いぞお前」

「えーだって嬉しいじゃん。いっちゃんと両想いになれたなんて、夢みたいなんだもん。ね、手とか繋いじゃおうよ」

「きもいんじゃボケ! つうかお前なあ! 人前でそんな態度取ったら、本気でブッ殺すからな!」

「ああ、良いね。良い感じ。今のいっちゃんからは、心の壁は感じないわ」

 大和はまた、うふふふ、と笑った。俺は大和から、更に離れた。

  そのとき、再び携帯が震えた。今度は何だ、と確認したら、亮太からの着信だった。俺は急いで通話ボタンを押した。

「あ、はい、もしもし!」

『泉? ごっめん! さっき電話くれてたよな! バイト先の先輩につかまってて、出られへんかってん』

 電話なんてしたっけ? と一瞬首を傾げたが、すぐに思い出した。階段の踊り場でどん底だったときに、とにかく誰かと話がしたくて電話をしたのだった。

「え、あ、いや、別に大した用事ではなかってんけど」

 俺は妙な恥ずかしさと気まずさを覚え、アハハと笑った。横目で大和を見ると、彼は不機嫌そうに目を細めていた。

『トミーズもお前から着信あったって言うし、何かあったんかと思って』

「いや! 全然そんなんじゃなかってんけど、いや、その、何やろ」

 しどろもどろになっていると、横から大和が、

「いっちゃん、早く帰ろうよー!」

 と、不自然なくらい大きな声で言ったので、ぎょっとしてしまった。

『あ、友達?』

「え、あ、うん」

 俺はぎこちなく頷いた。そうしたら、横から大和の手が伸びてきて、俺の携帯を掠め取った。

「あっ、こら!」

 取り返そうとするが、大和は身軽な動作でそれをかわし、電話を耳に当てて「もしもーし」なんて明るい声で言った。

「おい、大和……!」

「どうもー。あ、俺? 大和勇一って言います、よろしくー。そうそう、いっちゃんの友達。超友達。ていうかむしろラブラブ……いって!」

 俺に膝を蹴られて、大和が悲鳴を上げる。

「何かさ、いっちゃんてば超暴力的なんだけど、ずっとこうなの? あー愛情表現なんだ?」

 大和はニヤッと笑ってこちらを見た。顔が熱くなる。亮太、お前は何を言ってんねん!

「あははは、ああーなるほどね」

「おい、代われや。俺への電話やろ」

「うんうん。ん? いや、そこはもう愛だから」

「おい! 何しゃべってんねん!」

「うん、うん、そうだね。うん、俺もそう思う」

「おい!」

 もう一発蹴ってやろうと足を振り上げると、大和が「うん、そんじゃ代わるね」と言って電話を差し出してきた。俺は、携帯をひったくるようにして、大和の手からもぎ取る。

「も、もしもし亮太! さっきの奴頭おかしいから、あんま気にせんといて!」

「うわ、ひっでえ」

 電話に向かってがなりたてる俺に、大和は苦笑いした。亮太は、電話口の向こうで大笑いしている。

『あっははは、大和くん、おもろいやん』

「おもろないっちゅうねん! ただのドMオネエやっちゅうねん」

『何それ、どんだけオイシイねん!』

 亮太は、更に笑い声を大きくした。しばらくそのまま笑い続けて落ち着いてから、彼は少し真剣な口調になった。

『いや……ほんまは俺ら、ちょっと心配しとってん』

 俺は口を閉じた。亮太は、静かな声で続ける。

『泉、引っ越す直前まで、行きたくない行きたくない、ってずっと言ってたやん? それにお前、結構天の邪鬼やし。友達とかちゃんと出来てるんかな、ってトミーズとちょいちょい話しててん』

 黙って、亮太の言葉を聞いた。

 俺は今日階段の踊り場で、どうしようもないくらいの強烈な孤独感に襲われた。この世の全ての人間に、拒絶されたような思いだった。本当に俺はアホだ。こんな風に、離れていても自分のことを気にかけてくれている人がいるのに。

『でも、大丈夫っぽいな! そっちでも、上手くやってるみたいやん』

 一転して、亮太は明るい声でそう言った。

 俺は上手くやってるんかな。どうなんかな。

 そう考えていたら、大和が俺の服の端をぎゅっと掴んだ。飼い主に構って欲しい犬みたいな顔をしていて、吹き出しそうになった。

「おお、大丈夫大丈夫。こっちにも結構、おもろい奴いてるし」

 そう言って大和を見上げると、彼は得意そうな表情で笑った。調子乗んなボケ、という気持ちを込めて、大和の額を軽く叩いた。

『あはは、そっかそっか。そんならまた、東京の話とか聞かせてな』

「うん、そんじゃな。わざわざ電話くれて、ありがとうな」

 そう言って、俺は通話を終了させた。何だかとても、穏やかな気持ちになった。