■青あおとした青 08■


 そのとき、肩に誰かの手が置かれ、俺は喉元までこみ上げてきていた絶叫を飲み込んだ。

「……前田? 大丈夫?」

 ゆっくり顔を上げると、心配そうな表情の高野と目が合った。

「具合悪いの? 保健室行く?」

 高野の言葉に、俺は首を横に振った。

「……いい、大丈夫……」

  すると彼女は「そうは見えないけど」と言って息を吐き、すぐ後ろにある階段を指さした。

「ちょっと、座ろうか」



 手すりにもたれかかるようにして階段に座り込む俺に、高野は自販機でお茶を買ってきてくれた。

「……どうも、すんません」

 恐縮しながらペットボトルを受け取ると、高野はニコッと笑った。

「良いのよ、別に」

 それから彼女は、自分用に買ってきたお茶のキャップを開け、豪快に呷った。

「ああー、美味しい! やっぱ、お茶が一番よね。もうね、こっち帰って来てから、口に入る何もかもが美味しくって、やばいんだよね。お菓子もご飯も、美味しすぎ。このままじゃ、際限なく太るわ、あたし」

 ダイエットしなきゃーなんて言いながら、高野はペットボトルのキャップを閉じた。

  アメリカに留学していた高野。慣れない環境で過ごしていた高野。彼女は、こんな真っ黒な気持ちになったことはあるのだろうか。

「……高野は、さ。アメリカ行って、すんなりそっちに溶け込めた?」

 ついつい、そんなことを聞いてしまった。

 俺の言葉に、高野は目を瞬かせ、こちらを見た。彼女と目が合った瞬間、何を聞いてるんだ俺は、と我に返った。慌てて取り消そうとしたら、高野は朗らかにこう言った。

「まっさかあ! 最初は全然駄目だったわよ」

 あっけらかんと言って首を横に振る高野に、今度は俺が目をパチパチさせる番だった。すると彼女は俺の隣に腰をかけ、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「やっぱね、最初の一ヶ月か二ヶ月くらいは辛かった。ご飯不味いし、何処行っても初めてで何か怖いし、それに何より、言葉の壁が大きいよね。意思の疎通が出来ないって、ほんっと辛いしストレスが溜まる」

 何処か遠くを見ながら、高野は言った。怖いとか辛いとか、そんな言葉が高野の口から出るのは意外なような気がして、俺は少し目を細めた。

「……それ、克服できた?」

「いやあもうねえ、悪戦苦闘の毎日だったわよー」

 そこまで言ってから高野は言葉を切り、こちらを見た。

「……前田も、悪戦苦闘してるとこ?」

 それに俺は、ぐっと詰まった。だけど高野の顔を見て、彼女のしっかりした声を聞いていると、何を言っても聞いてくれそうな気になった。

「うん」

 意を決して、俺は頷いた。

「何かもう、転校して来てからずっと、東京に馴染まれへんくて。こっちの人らのノリとか会話のテンポとかも合わんし。俺、関西弁で言葉キツイから、喋りながら相手が引いてんの、すごい分かったりするし、明らか俺一人浮いてんのも分かる。それに、関西人への偏見もいい加減ウザイし」

 今まで誰にも話したことはなかったのに、一度口を開くと止まらなかった。

「大和とは結構喋るし、あいつが良い奴って分かってんのに、何か最近噛み合わへんくて……ていうか、俺が心狭いのが原因やねんけど、あいつにめっちゃ感じ悪い態度ばっか取ってまうし。大阪ではこんなことないのに、とか、考えてもしゃあないことばっか考えてまう。ほんとはもっと、大和ともちゃんと普通に喋りたい、のに」

 一気に吐き出した後、俺はじりじりと恥ずかしくなってきた。こんなかっこ悪くてみっともないことを、女子に打ち明けている俺は一体何なんだ。後悔と羞恥に押しつぶされて死にそうだった。

「ご、ごめん。ウザいな俺。ほんま、何言ってんやろ……!」

 もし高野がドン引きしていたら……と思うと、恐ろしくて彼女の顔を見ることが出来ない。ここは即座に立ち去るべし、と立ち上がりかけたところで、高野が俺の腕を掴んだ。そんな風に女子と接触したことがなかったので、口から心臓が出そうになった。

「大丈夫、ウザくない」

 高野は、俺の顔を覗き込んだ。彼女の揺るがない強い瞳は、何だかとても頼もしくて、咄嗟に姉貴、と呼びたくなった。なんてかっこいいんだろう、高野は。彼女のかっこよさに引き寄せられて、俺は再び、階段にすとんと腰を下ろした。

「あのね、アメリカでの話に戻るんだけどね。やっぱ、コミュニケーションには気持ちが大事だ、って分かったのよ」

「気持ち?」

 俺は、首を傾げた。

「やだ、そんな真剣に聞かないで。クサいこと言ってるね、あたし。何か、恥ずかしくなってきちゃった」

 高野は照れくさそうに笑った。

「いや、めっちゃ参考にするんで、その辺詳しく、是非」

 そう言って身を乗り出すと、高野は「そう?」と言って、再び話し始めた。

「自分の気持ちを伝えようとする気持ちと、相手を理解しようとする気持ちね。それを前面に出せば、相手もこっちを理解しよう、自分の言葉をあたしに伝えよう、って思ってくれるもん。やっぱ、心って大事よ」

 頭の中に、大和の顔が浮かんだ。俺は、あいつを理解しようとしただろうか? あいつに、俺のことを理解してもらうように努めただろうか?  腹の底がざわついた。

「ていうか、前田ってそんな浮いてるかな?」

 高野は不思議そうに首を捻る。おれは、いやいやいや、と手と首を振った。

「いや浮いてるよ。明らか浮いてますやん」

「そう? 女子と喋ってる時に、そういう話って全然聞かないけど。むしろ、大和との会話が漫才みたいで面白い、ってこっそり評判よ」

「え、そ、そうなん?」

 俺は声を引っ繰り返した。そんな話、初めて聞いた。女子とほとんど会話をしないので、俺は怖がられているんだと勝手に思い込んでいた。

「そうそう。そんな風に、意外と考えすぎだったりするもんよ」

 高野は歌うような調子で言って、再びお茶をぐいっと飲んだ。

「そ、そうなんか、なあ」

 分かったような分からないような気分で、俺はお茶を見つめた。ただ、少し気が楽になったのは確かだ。

「まあ、でもね。今の前田の話、すごい分かる部分もあるわ。やっぱ、日本人に対する偏見って結構あってさあ」

 溜め息混じりに、高野はそう言った。

「え、日本人はちょんまげ結ってるとか、そういう?」

「はは。そこまで極端なのは、流石に聞いたことはないんだけどね。でも、会う度に胸の前で手を合わせて『ドーモドーモ!』って言いながら、すんごいお辞儀してくる奴とか、ウザかったわー」

「それは俺が『まいど!』って言われたら、ちょっとイラッとくるみたいな」

「そう! 正にそれ! たまにそいつが、そう間違ってはいない日本人のモノマネもするんだけど、それも何か腹立つのよ」

「うわ、何かめっさ分かる……!」

 東京に来て初めて得られた共感に、俺は何度も頷いた。高野は、嬉しそうに手を叩く。

「分かるよね、分かるよね!」

「相手に悪気がないのは分かるねんけど」

「でもバカにされてるみたいで、腹立つの!」

「そうそう!」

 俺たちは、にわかに盛り上がった。喋りながら、俺はアホみたいに笑った。今まで言えなかったことが言えて、しかも高野は嫌な顔せずに聞いくれて、ほっとするやら嬉しいやらやっぱり若干恥ずかしいやらで、涙が出そうになる。

 高野は良い奴だ。ちょっと本気で、姉貴と呼ばせて頂きたくなった。

「……そういえばさ、高野は何で、俺のことオオサカって呼ばんの」

 俺は、かねてから疑問に思っていたことを尋ねてみた。彼女からの返答は、至ってシンプルだった。

「だって、そんなあだ名、つまんないじゃない。つけた奴のセンスを疑うわ」

 高野はあっさりと、石橋の考えたあだ名を切り捨てた。いや、俺も同意なのだけれど、そこまできっぱりと言葉に出して言われると、石橋のことがすこし気の毒にも思えてくる。

「前田泉、なんて折角キレイな名前なのに。本当は泉って呼びたいんだけど、いきなり名前呼び捨てはアレかな、って思って名字で呼んでんの」

「あ、そうなん? 別に、泉でええのに」

 そう言うと、高野は顔を輝かせた。

「ほんと? じゃあ、泉もあたしのこと真奈って呼んでいいよ」

「い、いや、それは流石にマズイやろ!」

 大和ですら、名字で呼んでるのに!  そう言おうとしたら、後ろからパタパタと誰かが階段を下りてくる音がしたので、一旦口を閉じた。

「あら、大和」

 高野の言葉に、げっと思って後ろを向いた。確かに大和だった。