■青あおとした青 06■


 翌日の月曜日には熱はずいぶん下がったけれど、大事を取って学校は休むことにした。

 今日も大和が来たらどうしよう、と軽く心配したが、彼は来なかった。代わりにというか何というか、夜に、

『ごめんね、俺のせいで風邪ひどくなったよね。大丈夫?』

  というメールが来た。

 これにどう返事しよう、と俺は悩みに悩んだ。数行書いては消し、を何度も繰り返す。俺も大和に謝りたい。そう思っていたのに、いざメールを打とうとすると、上手く文章にすることが出来ない。

  二時間以上試行錯誤して、送ったメールは、

『明日は学校行きます』

  だった。何やそれ。全然噛み合ってへんやん。謝ってもないし。 こんな文章しか書けないなんて、俺は本当に駄目人間だ。送信ボタンを押してから、『こっちこそごめん』とかそんなシンプルな文章で良かったんでは、ということに気付く。だけどもう、送ってしまったメールは取り返せない。今からもう一度メールを送るのも、何だか不自然な気がして出来なかった。つくづく、俺は駄目だ。


 更に翌日、夏休み間近の火曜日。今日も順当に暑い。 残念ながら風邪も完治し、元気になってしまったので、仕方なく学校に行くことにした。本当は行きたくない。厳密に言うと、クラスメイトたちに会いたくない。もっと言うと、大和に会いたくない。だけどあまり欠席するわけにもいかないので、俺はのろのろと家を出た。

 とりあえず、大和には謝ろう。折角見舞いに来てくれたのにごめん、ポカリとプリン有難う。ちゃんとそう言おう。俺は心に誓った。

  「おはよう!」

 突然背後から肩を叩かれて、俺は「うおあ!」と奇妙な声をあげてしまった。周りにいた生徒たちから不思議そうな視線を浴び、慌てて口を閉じる。知らない内に、俺は校門の前まで来ていた。

「そ、そんなびっくりしなくてもいいじゃない。前田のびっくりっぷりに、あたしがびっくりしちゃったわよ」

 俺に声をかけたのは、高野だった。今日も彼女は溌剌としている。若干気まずい思いに駆られつつ、「お、おはよう」と挨拶した。

「もう、風邪は大丈夫なの?」

 俺の隣に並んで歩きながら、高野はそう言った。そういえば、寝込んでいたときに彼女が送ってくれたメールに、返事をしていないことを思い出した。

「あ、うん、まあ。ていうかごめん、俺、メール返信してへんかったよな。心配してくれて、ありがとうな」

 高野相手だとこんなにもあっさり、ごめんとありがとうが言えるのに、どうして大和には言えないんだろう。物凄く不思議だ。

「ああ、いいよいいよ、そんなの」

 高野は快活に笑った。それからにわかに、きゅっと表情を引き締める。

「それよりさ、前田。大和と喧嘩かなんか、した?」

 まさかそう切り込んでくるとは思っていなかったので、俺はぐっと詰まってしまった。全く心の準備が出来ていなかった為、動揺が顔に出てしまったかもしれない。

「あ、ごめん。言いたくなかったら、言わなくていいんだけどね。何か、日曜から大和が随分へこんでるからさ。俺のせいで、いっちゃん風邪が酷くなっちゃった、とかなんとか言って。あいつ、何したの?」

「え、マジで? あいつ、へこんでんの?」

 俺が声を高くすると、高野は笑顔になって首を横に振った。

「ああ、いいのよ。前田が気にすることなんかないんだから」

「いや、でも」

「どうせ、大和がいらんことでも言ったんでしょ? 昔っから、おしゃべり野郎で失言野郎なんだから、あいつ」

 俺は、下を向いた。胸が苦しくなってくる。失言野郎は俺の方だ。

「前田、どうしたの?」

「……いや、おれ、大和に色々悪いことしたな、と思って」

「そうなの?」

「うん。だからさあ、高野」

「ん、何?」

「大和のこと、慰めたってや」

 そう言うと、高野はぱちぱちと目を瞬かせ、ふっと笑った。

「嫌よ。何であたしがフォローしてあげなきゃなんないの。何かあったんなら、ちゃんと話し合いなさいよ」

「た、高野さん、厳しいわ……」

 俺は胸を押さえた。袈裟懸けにバッサリと斬られたような気分だ。

「ふふ、大丈夫よ。大和は前田のこと好きだもん。ちゃんと仲直り出来るわよ」

 仲直り、というのも何か違う気が……と思いつつ、俺は小さく息を吐いた。

「あ、噂をすれば」

 下足ホールに入ったところで、高野が声を上げた。ちょうど大和が靴を履き替えるのが目に入って、俺は、ぎくりと姿勢を正した。

「大和!」

 高野はよく通る声で、大和に声をかけた。俺は、彼女の後ろに隠れたい衝動にかられた。

「おはよう」

 高野が、屈託なく大和に挨拶をする。彼はそれに「よーす」と応じてから、俺を見た。  実を言うと俺はこのとき、とても卑怯な期待をしていた。大和が、何事もなかったように振る舞ってくれないかな、という期待だ。

 しかし大和は何も言わず、気まずそうに俺から視線を外したのだった。

  ああ、なんてことだ!  何だよ、いつものノリで普通に挨拶してこいよ。間延びした口調で、いっちゃーんおはよーう、とか言ってこいよ。何で今日に限って、それがないんだよ。お前がいつもの調子で接してくれれば、おれも軽く謝れたかもしれないのに。

  違う。そんな風に理不尽なキレ方をしている場合じゃない。謝るって、礼を言うって決めたんだ。

   こないだはごめんポカリとかありがとう。

 ……何故、口が動かない? こんな簡単なことが、どうして言えないんだ?

 首と背中を、凄い勢いで汗が滑り落ちていく。心臓がバクバク言っていることに、今初めて気が付いた。俺は今、猛烈に緊張している。もっと言うとテンパっている。何で? 何でこんなことで?

 俺と大和はしばし黙って向かい合っていたが、やがて大和が、

「数学の宿題って出てたっけ」

 と、俺にではなく高野に話しかけた。 おれは全身から力が抜けて行くのを感じた。また、言えなかった。不自然で気まずい間を作っただけだった。あまりの不甲斐なさに、死んでしまいそうだ。

「出てるわよ。プリントもらったでしょ」

「何処やったかな。鞄の中に入ってればいいんだけど」

「しーらない。絶対、写させないからね」

 高野と大和よりも、少し後ろを俺は歩いた。ごく自然に、かつ和やかに会話する二人を見ていると、急激に惨めで空しくなった。何で俺、ここにおるんやろ、という気分になってくる。やっぱり、学校になんか来なければ良かった。


 結局それから大和と口をきかないまま、午前中の授業が終了した。休み時間中、クラスメイトたちはお帰り会の話題で盛り上がっていた。よっぽど楽しかったらしい。俺はただ、すぐ目の前に座っている大和が、こちらを振り向きませんようにと祈るばかりだった。

 昼休みのチャイムとほぼ同時に、俺は弁当を持って教室を飛び出した。廊下に出たところで、大きく息を吐き出す。 ああ、息苦しかった。圧倒的に、酸素が足りていなかった。  

  高野は彼がへこんでいると言っていたけれど、俺には怒っているように見えた。こんな大和は初めてだ。いつもは、俺がどれだけキレても、翌日にはヘラヘラと話しかけてくるのに。

 ああ、駄目だ。脳が爆発してしまいそうだ。もう何も考えたくない。何処に行けば、頭を空っぽに出来るだろう。屋上か。一人になれる定番スポットといえば、屋上だろうか。だけど、屋上で昼飯を食う奴も多そうだ。

  ……まあいいや、とりあえず屋上に行こう。クラスメイトと顔を合わせなくて済むのなら、もう何処だって良い。

 初めて入る屋上は、がらんとしていて誰もいなかった。好都合だけど、ちょっと意外だ。東京では、屋上で飯を食うという文化がないのだろうか。

 なんて思ったけれど、一歩踏み出してみてすぐに、無人の理由が分かった。暑い。尋常でなく暑い。よく考えたら当たり前だ。真夏の昼間に、屋外で飯を食おうなんて酔狂にも程がある。

  しかしここで引き返したらなんとなく負けのような気分になって、俺は直射日光と戦う道を選んだ。じりじりと照りつける太陽の下で飯を食うのも、また一興だ。そんな風に、無理矢理思い込むことにした。 とにかく何よりも、一人になりたい。教室にいたら、気まずさと、大和に謝らなければという義務感で頭がパンクしそうだし。暑さくらい何のそのだ。

 適当に腰を下ろし、容赦なく襲いかかる熱波と戦いながら弁当を食っていると、ポケットの中で携帯が震えた。大和だったら鬱陶しいな、と思いつつ取り出すと、大阪の友達からの着信だった。懐かしさと嬉しさで、一瞬背中に電気が走った。