■一年前のバレンタイン■


 梅屋のタイヤキを頬張りつつ、僕とメガネは学校からの帰路についていた。

「明日はバレンタインだな……」

 僕が諦めきった声音で呟くと、メガネもあっけらかんとした調子で「バレンタインだねー」と返してきた。直後、強い風が吹いた。寒風は、僕たちの体とタイヤキを容赦なく冷やす。

「去年までは良かったよなー。エンジェル高田さんがいたもんな」

 そう言って、僕は指についた餡子を舐めた。梅屋のタイヤキは餡子ぎっしりなので、油断していると溢れてくるのである。

 高田さんというのは、中学三年間、僕たちと同じクラスだった女子だ。彼女は毎年バレンタインにクラスの男子全員にチョコを配るという、正に天使のようなお人だった。彼女の慈愛によって、一体どれだけの男子が「バレンタイン収穫ゼロ」という地獄を回避し、歓喜の涙を流したことか。

  しかし残念ながら、高田さんは僕たちとは違う高校に進学してしまった。そのため、彼女の施しはもう望めない。すなわち、僕たちの今年のバレンタインは終了したという訳だ。

「……いや、でも分かんないよな。もしかしたら今のクラスにも、エンジェルがいるかも……」

 思わず拳を握って力説したら、口の端に餡子を付けたメガネから、憐みのこもった視線を頂戴した。

「本命チョコをもらえるかも、っていう発想にはならねんだな……」

「だって……無理じゃん……?」

 僕だって、身の程くらいはわきまえている。己が壊滅的にモテないという事実を、しっかりと理解しているのである。

「うんまあ……無理だなあ」

 メガネは僕の頭から足までをしげしげ眺めて、ため息交じりにそう言った。自分でモテないだの何だの自虐するのはよくても、他人から言われると何だか腹が立つ。お前だって本命なんて望めないだろうがよ、と言おうとしたら、それよりも早くメガネが口を開いた。

「あ、そうだ。ベリショ、今日うち寄ってけよ」

 メガネは、タイヤキの最後のひとくちを口に放り込んだ。

「え、ああ、うん」

 急な話題転換に戸惑いつつも頷くと、メガネは笑った。

「いやー、美咲ちゃんが、今日は死んでもベリショを連れて来いって言っててさあ」

「え……、み、美咲ちゃん、が?」

 僕は頬を引き攣らせた。

  美咲ちゃんというのは、メガネの二番目の姉さんだ。(ちなみに彼には、姉さんが三人もいる)歳は確か、十九歳。美人なのだけれど、怖い。半端でなく、怖い。人の家族をどうこう言うのも何だけれど、正直あれは女ではないと思う。僕とメガネはたまに、陰で美咲ちゃんのことを「二十一世紀に解き放たれたハートマン軍曹」と呼んだりする。それくらい、怖いのである。

「な、何で美咲ちゃんが、おれを呼ぶんだよ」

「いや、明日のバレンタインの予行演習がしたいとかなんとか。チョコケーキ焼くから、試食して欲しいらしいよ」

「美咲ちゃんがバレンタイン? チョコケーキ? あの、全くピンと来ないどころか、フカシにしか聞こえないんだが」

「幸か不幸か、フカシじゃないんだなこれが。でもま、良かったじゃんベリショ。一日早いけど、バレンタイン収穫ゼロではなくなるぜ」

「いやいやいや、美咲ちゃんのチョコはノーカウントだろ。愛も義理も何も詰まってないだろ、そのチョコは。え、何、美咲ちゃんて料理上手いの?」

「未知数だなあ。料理なんてしたことねえもん、あの人」

「オーケー、帰る」

 僕は頷いて、速やかに踵を返した。その腕を、メガネが素早くがっちりと掴む。

「ヘイ、ベリショくん。一人だけ逃げようったって、そうはいかないんだぜ。おれも試食することになってんだから」

「いや、お前は弟じゃん? おれ他人じゃん?」

「水臭いなあ。他人なんて言うなよ」

 メガネはニコニコしながら、物凄い力で僕を引っ張る。僕は懸命に足を踏ん張るが、メガネの力にじりじりと引きずられてしまう。

「美咲ちゃんからの呼び出しって時点で死亡フラグなのに、何だよ手作りチョコケーキって。若干十六歳で、その試練は背負えねえよ!」

「死なばもろともって素敵な言葉だよな、ベリショ」

「お前ひとりで死んでくれ!」

 僕たちはしばし路上で言い合いをしていたが、

「でも、ここでブッチしたら美咲ちゃんに殺されるよ?」

  というメガネの一言に、屈さざるを得なかった。行くも地獄、戻るも地獄である。僕はなんて可哀想なんだろう。

 メガネの家は、僕の家から歩いて十分くらいのところにある。二階建ての、綺麗な洋風建築だ。メガネが玄関を開けたらすぐに、中から怒号が溢れて来た。

「おっせえんだよ、この童貞ホモ野郎どもがっ!」

 ……美咲ちゃんである。この一言で、彼女がどういう人間か理解してもらえたと思う。こういう人なのだ。

 美咲ちゃんは玄関で腕を組んで、仁王立ちしていた。すさまじい怒りのオーラを発しながら。デニムのショートパンツから伸びるきれいな足についつい眼が行ってしまうが、すぐに眼をそらした。あまり長い間見ていたら、殺されてしまうかもしれない。

  美咲ちゃんは美人だしスタイルも良いんだから、もっと可愛いく振る舞えば良いのに。勿論、そんなことは歯が砕けても言えない。

「こ、こんにちは、美咲ちゃん」

 僕は背筋を伸ばした。きちんと、こんにちは、と言わないとどつかれるのである。彼女の前では、未だに緊張してしまう。

「いらっしゃーい、ベリショくん」

 美咲ちゃんは、片頬を上げて笑った。僕はこの笑顔を、『殺人者スマイル』と呼んでいる。

「美咲ちゃん、ただいま。ケーキ出来た?」

 メガネは流石に慣れているので、何でもない口調でそう言いながら靴を脱いだ。すると美咲ちゃんは、何やら布の塊を、こちらに向かって蹴って寄越した。メガネがそれを、手に取って広げる。エプロンだった。ピンクと赤、二着ある。

「お前ら、それを着ろ」

 彼女は顎で僕たちを示すが、意味が分からない。

「え、何でエプロンなんか……」

「だって、料理するのに制服が汚れたら困るだろ? 私の細やかな気遣い、感謝しろよ」

「へ? 料理って何の話……。おれは今日、美咲ちゃんが作ったチョコレートケーキを試食する、って聞いたんだけど」

 僕が尋ねる横で、メガネは早速赤のエプロンを身に着けている。おいおい、お前も何かツッコめよと思ったが、次に美咲ちゃんが言ったことがあまりに衝撃的すぎて、メガネへのツッコミは遥か彼方に消え去ってしまった。

「ああ、それ? 予定変更。お前らが作るチョコケーキを、私が試食する日にした」

「ええええっ! だってバレンタインじゃ」

「バレンタインともさ。馬鹿正直に私が焼くより、男が作ったチョコを男に食わす方が面白くね? そんでさ、全部食べ終わったところでネタばらしすんのよ。それは、うちの弟どもが作ったもんだって。いやあー、どんな顔すんのか、すんげえ見たいじゃん」

 鬼だ。鬼としか言いようがない。僕は心の中で、美咲ちゃんからチョコを貰う男性に合掌した。

「というわけで、時間もないしさっさと台所に行きな」

 美咲ちゃんは冷たい声で言って、台所の方向を顎で示した。僕たちに退路は用意されていない。やるしかないのである。


 ……こうして僕とメガネの、ある意味思い出に残るバレンタイン前日は始まった。