■一年前のバレンタイン 2■
「ベリショ、お前ケーキって作ったことある?」
美咲ちゃんから投げつけられた……手渡された、ではなくて投げつけられた、である……お菓子作りの本を開いて、メガネが言った。
僕たちはひとまず、台所に立った。美咲ちゃんは、ダイニングからこちらを見ている。
「いや、ない」
そう答えると、メガネは笑顔でお菓子作りの本をパスしてきた。
「そっか。ま、でもお前手先器用だしさ。頼りにしてるぜ」
「いやいやいや、頼りにされても困るって。それに大体、こういうのって手先の器用さは関係ないんじゃ……」
「おい」
ドスの効いた声が、ダイニングから一直線に飛んで来た。美咲ちゃんが、不機嫌そうな顔で僕たちを睨みつけている。
「喋る前に、動け」
「はい」
僕とメガネはほぼ同時に返事をした。
……とりあえず、美咲ちゃんが貸してくれたエプロンを広げる。それはどピンクでフリル付きの、ギャグみたいなエプロンだった。メガネの方は、普通の赤無地エプロンである。その無難なデザインをじっと見つめていると、僕の視線に気付いたらしいメガネが、白い歯を見せて笑った。
「諦めろ。早いもの勝ちだ」
末っ子であるメガネは、黒川家の渡り方を流石に熟知している。ひとりっ子かつ余所者である僕には、いささか不利な状況である。
先程から美咲ちゃんが、「さっさとエプロン着けて作業に入れよ童貞野郎」とでも言いたげな顔で、こちらを見ている。仕方がないので、僕は諦めてえげつないピンクのフリルエプロンを身に着けた。それを見たメガネと美咲ちゃんが同時に吹き出し。そして無遠慮に大笑いした。
「あっははは! 最高! お前最高!」
美咲ちゃんは、テーブルをバンバン叩いて大喜びだ。ここまで受けると、腹が立つのを通り越して少し嬉しくなってしまう僕は、頭がおかしいだろうか?
「ベリショ、かーわーいーいー」
しかし不思議なことに、メガネに冷やかされると腹が立つだけだ。何故だろう。よく分からないが、僕はメガネは相手にしないことにした。
「何だよ、無視すんなよー。いじめ、カッコ悪いぞ」
「うっさいな! いいから、とっとと作んぞ」
僕はそう言って、メガネの頭をはたいた。
美咲ちゃんから指定されたメニューは、ガトーショコラだった。シンプルだし楽そう……などと思っていたが、料理本に載っている工程に僕は息を呑んだ。意外とやることが多くて、難しそうだ。失敗したら、美咲ちゃんにどれだけボコられるのか。僕だって命は惜しいので、気合いを入れることにした。
ガトーショコラ作りに必要な材料、器具はあらかじめ用意していてくれていたので、早速作業に入ることにした。とりあえず僕がメレンゲ作りで、メガネがチョコ溶かしだ。
ボールを抱きしめて一生懸命卵白と砂糖を混ぜ合わせていると、チョコを刻んでいたメガネが三分もしない内に音を上げた。
「ベリショ、めんどくさい」
「お前なあ……」
「このチョコさあ、そのままレンジでチンしちゃいかんの」
「いや、駄目だろそれは。チョコは湯煎だろ」
「めんどくせえー。なあ、一回レンジに突っ込んでみねえ? 案外上手くいっちゃうかもよ」
「やだよ。おれ、こういうのは本の通りにしないと気が済まないんだよ」
即答すると、メガネは溜め息をついた。
「ベリショって、変なとこで神経質だよな」
「お前が雑なんだっつうの」
僕は喋りながらも、泡立て器を回し続けた。なかなか、写真のような白いモコモコにならない。これは、結構な重労働だ。
「ていうかおれら、バレンタイン前日に何やってんだろうねー」
メガネがぽつりと呟き、僕は思わず手を止めた。
「や、やめろよ。折角作業に没頭しかけてたのに。おれを現実に戻すな」
「まあでも、バレンタインチョコをもらえる見込みゼロのおれたちが、見知らぬ男のためにチョコケーキ作るって、ある意味面白いよね」
「いや、おれはこういう方面のオイシさは、あんまり欲しくねえなあ……」
僕はそこまで言って、ちらりと美咲ちゃんの方を見た。彼女はダイニングで雑誌を読んでいる。もう、こちらを監視するのに飽きたらしい。そういうところを見ると、美咲ちゃんとメガネは姉弟だなと思う。
「……あのさ、メガネ。美咲ちゃん、誰にチョコあげんの?」
僕はボールを抱えたまま、メガネの耳元でこっそり囁いた。あの美咲ちゃんからチョコを受け取る男というのは、一体どんな人なんだろう。からかい目的のチョコのようだから本命ではないかもしれないけれど、美咲ちゃんなら本命にこそ、そんなネタ的プレゼントを贈るような気もする。
メガネはバターの重さを量りながら、首を傾げた。
「さあ? 誰だろね。親父には別でチョコ買ってたから、家族以外だと思うんだけど」
「え、親父にはって……。お前はもらえないの?」
「おれが? もらえる訳ないじゃーん」
そう言ってメガネは朗らかに笑う。僕はそんな彼の笑顔に、泣きそうになった。家族が決して安全パイではないメガネ。なんて可哀想なんだろう。
「美咲ちゃんて、彼氏とかいんの?」
「さあ?」
「お前、何も知らないんだな」
「だって、世の中には知らない方が幸せなこともあるじゃん」
平然と言うメガネの言葉には、とてつもない説得力があった。確かに、そのとおりだ。僕は物凄く納得した。
「ただいまー!」
突然、溌剌とした声が響いた。普通に可愛いこの声は、メガネの三番目の姉さん、香澄(かすみ)ちゃんだ。
ああ、香澄ちゃん帰って来たんだー……などと呑気に考えかけて、僕はハッと我に返った。今の自分の格好、立っている場所、そして行動、全てが有り得ない。
特に、このコントのようなピンクのエプロンがよろしくない。香澄ちゃんは、美咲ちゃんとは違って普通の女の子だ。こんなところを見られる訳には……!
僕は焦ってエプロンだけでも外そうとしたが、遅かった。ボウルを持ってあたふたしている内に、香澄ちゃんがダイニングの中に入って来てしまった。
「美咲お姉ちゃん、ケーキ作ってるんだよね! 私にも食べさせ……」
笑顔の香澄ちゃんと、目が合った。学校帰りの香澄ちゃんは、紺色のセーラー服の上に白いコートを着ていた。ちなみに彼女は、僕たちと同じ学校に通う高校二年生だ。僕は彼女のことを「黒川家の良心」と呼んでいる。本当に彼女は常識のある、可愛い女の子なのである。
エプロンを着けてボウルを抱える男子高校生を見て、香澄ちゃんは固まった。僕も固まった。美咲ちゃんは大笑いしていた。メガネはいつも通りの調子で、「香澄ちゃんお帰りー」と声をかけた。
「……え、あれ、龍? サイトーくん? あれ? 何してんの?」
香澄ちゃんは、目をぱちぱちさせながら、僕とメガネを交互に指さす。僕は控えめな口調で「お邪魔してます」と言った。それ以外、何も言えない。
「え、あ、いらっしゃい。いや、あの、ほんと何してんの?」
まだ混乱している様子の彼女に、美咲ちゃんがとんでもないことを言い放った。
「香澄、ダーメ。そこに触れちゃ。ホモカップルが、お互いにプレゼントするために、ケーキ焼いてる最中なんだから」
「えっ、ホモ!?」
「ちょ……!」
香澄ちゃんと僕は、ほぼ同時に声を引っくり返した。なんてことを言ってくれるんだ、このハートマン軍曹は。
「香澄ちゃん、うそうそ。美咲ちゃんがチョコ作んのめんどくさくなって、おれたちに押しつけてるだけ」
流石に、メガネは冷静だった。全く動じず、淡々と事実を述べる。僕はほっとした。こいつの場違いなまでの淡白さは、こういうとき非常に役に立つ。というか、こういうときにしか役に立たない。
「あ……ああ、そうか。そうだよね。ああー、びっくりした。うん、そうだよ。そうに決まってるじゃん……」
香澄ちゃんは自分に言い聞かせるように何度も頷きながら、ダイニングから離れて行った。僕のエプロンに関しては、ノーリアクションだった。僕はこっそり、額の汗をぬぐった。良かった、エプロンには突っ込まれなかった。いや、突っ込まれない方がやばいのか? これがサイトーくんの趣味だと思われてしまうのか?
僕はしばし懊悩したが、
「誰が手ェ止めて良いっつった!」
という美咲ちゃんの怒号を受け、急いで手を動かした。へこむ時間すら与えられない。彼女は本物の鬼である。
ガトーショコラが出来る頃には、完全に夜も更けていた。
メガネの両親は旅行中とのことで、彼らとかち合わなかったのが唯一の救いだ。バレンタイン前日に男ふたりでせっせとケーキを作っている……なんていう光景を、友人の姉さんに見られるのも気まずいけれど、両親に見られる方がもっと気まずい。
出来上がったガトーショコラは、少し膨らみが足りない気もしたが、初めてにしては上出来な仕上がりに見えた。チョコとココアの香りが、空腹中枢を激しく刺激する。
「おおおすげー。美味そうじゃん」
メガネがぱちぱちと手を叩く。僕は何も言わなかったが、密かに無言で感動していた。手作りケーキなんて雲の上の存在だと思っていたけれど、やってみれば出来るもんなんだなあ……。
僕がささやかな達成感に浸っていると、美咲ちゃんの声が割り込んで来た。
「出来たか? そんなら帰れ」
なんというお言葉だろう。ねぎらいとかいたわりとか、そういったものは一切無しだ。僕はやや落胆した。期待なんてしていなかったが、落胆した。だってもっと、他になにかあるだろう。
……しかし当然反論なんて出来るはずもないので、僕は速やかに帰宅したのだった。
そして帰り道で、顔も知らない、美咲ちゃんがチョコを渡す相手を思って、そっと合掌した。
ごめんなさい、美咲ちゃんの本命さん。 あなたは美咲ちゃんの手作りだと思って、あのガトーショコラを食べるだろうけれど、実はあれは野郎が作ったんです。愛も何も込められてないんです。あるのは、美咲ちゃんへの恐怖だけです。そんなケーキでごめんなさい。美咲ちゃんと、お幸せに。(付き合ってるのかどうか、分からないけれど)
翌日、二月十四日の休み時間。
僕とメガネの元に、エンジェルが現れる気配はなかった。クラスの女子は誰も彼も、クラス随一のイケメンである後藤くんに群がっている。
「ふ……。まあ、予想出来た結果だよな」
僕は、少しかっこつけた口調で言った。
「そうそう。期待もしてなかったしな」
メガネも、やや芝居がかった口調で言う。僕たちの間に、強固な連帯感が生まれつつあった、その時である。
「メガネー、姉ちゃん来てるぜ」
クラスメイトが、メガネの肩をつついた。僕も顔を上げると、教室の入口に香澄ちゃんが立っているのが見える。
「あれ、何だろ。弁当ちゃんと持ったけどな」
メガネは首を傾けながら、香澄ちゃんに近づいた。そして彼女と二、三言言葉を交わすと、「ベリショー」と僕を呼んだ。
あれ、おれも?
そう思いつつも立ち上がり、香澄ちゃんの前に立って会釈をした。
「あの、サイトーくん。これ、バレンタインの……」
そう言って香澄ちゃんはおずおずと、可愛らしいピンクの紙袋を差し出してきた。僕の心臓が大きく跳ねる。
え、な、うそ、マジ?
僕は動揺して、すぐに手が出せなかった。全く期待していなかったバレンタインチョコだ。心の準備が全く出来ていない。
「弟と同じもので、悪いんだけど」
申し訳なさそうに、香澄ちゃんは言った。メガネと一緒。そう聞いて、一瞬だけテンションが降下した。見ると確かに、メガネも全く同じ紙袋を手に提げている。
何だ、メガネと一緒か。いや、義理チョコだということは分かっていた。分かっていたはずなのに、一ミリでも期待してしまっていたこの身が憎い。
「あ、いや、とんでもないっす。ありがとうございます」
僕はどういうノリで礼を言えば良いのかが分からなくて、もごもごとした口調で言いつつ、紙袋を受け取った。はしゃぎすぎるのもみっともないし、かと言ってぶっきらぼうに礼を言うのも失礼だし。如何せんもてないので、その辺りのさじ加減が全く分からない。
「わざわざ学校で渡さなくても、家でくれたら良いのに。ベリショの分も預かったのにさ」
メガネがそう言って、不思議そうに香澄ちゃんの顔を見る。すると彼女は気まずそうに、弟から目をそらした。
「いや、それは……ごめん、ね!」
何故か香澄ちゃんは勢いよく頭を下げ、そして疾風のように走って行ってしまった。
ごめんね?
その言葉に、僕の胸に嫌な予感が湧いてきた。先ほどまでの喜びが、じりじりと胸騒ぎに上書きされていく。
何で、チョコを渡して、ごめん? このチョコに、謝らないといけない何かがあるのか?
「まさか……」
呟くと、メガネは僕の隣で、うんうんと頷いた。
「おれも、そのまさかだと思うよ」
僕たちはダッシュで席に戻った。その途中で、クラスメイトたちが、
「ベリショたちがチョコもらったって!」
「マジで!?」
「いやでも、あれ、メガネの姉ちゃんだろ?」
などとざわめいているのが聞こえて来た。しかしそんな周囲の雑音に耳を傾けている場合じゃない。 僕とメガネは勢いよく、紙袋の中身をつかみ出した。
一目で分かった。それは、昨日僕たちが焼いたガトーショコラだった。
二分の一カットの状態で、雑にラップで巻かれている。そして、中にはカードが添えられていた。
『がっかりしただろう? 美咲』
……僕とメガネは昼休みに、「がっかりケーキ」と名付けられたそのガトーショコラを、がつがつと食った。脇目もふらずに食った。ケーキを半ホール一気食いするのは正直辛かったが、僕もメガネも立ち止まらなかった。さっさと食って、このことは忘れようということになったのだ。
僕たちは本当にがっかりした。多分、美咲ちゃんが思っている以上に。
バレンタイン前日に、自分が食うためのケーキを作っちゃった僕とメガネ。
がっかりだ。がっかりにも程がある。黒歴史と言ってもいい。
がっかりケーキは、美味かった。何でこんなによく出来てるんだと、腹が立つくらい美味かったのだった。
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