■きみが涙を流すなら 51■
「あのね、四郎」
おかんの声が、腹と頭の中で響く。
「はい」
僕は再度額の汗を拭い、おかんに向き直った。おかんは、ここに来たときよりは、目に力が感じられるようだった。
「……正直ね、四郎から男の人とお付き合いしてる、って聞いたときはね、もうほんと信じられへんかったのよ」
無意識の内に、背筋を伸ばしていた。初めて聞く、彼女の気持ちだ。どんなことがあっても、何を言われても、最後まできちんと聞いて、受け止めなくては。
「何かもう、悲しいんか腹立ってんのか何なんか分かんなくて……」
「うん」
僕は、噛み締めるように言った。意外と心の中は静かで、素直に彼女の言葉を聞くことが出来た。
「ていうかね、今でもちょっと、よう分からんのよ」
おかんは、そう付け加えた。僕はじっと、おかんを見た。以前よりも細くなった首や顎に、これまで彼女が思い悩んできた形跡が伺えるようだった。
「でも多分、あたしは怖かったんやと思うの。今までそんなことは全然知らずに子育てしてて、えっ今まであたしが見てた四郎は何やったの、っていうのがね、何かすごく、怖かった」
それは少し予想外の言葉で、僕は目を瞬かせた。
「親は子どものこと、何でも分かってると思ってたのよ。だから突然、あたしの知らない四郎が出て来て物凄い戸惑ったしショックやしで、訳分からんくなっちゃったのね」
おかーさんはそんなこと考えてたんや、と思った。僕はずっと単純に、同性愛ということに対して、不快感を抱かれているのだと決めつけていた。
「親として、受け入れてあげるのが一番、てことは、分かってるのよ。でもそのときはもう、とにかくパニックになってしまって、まともに考えられへんかったの。それで、よりにもよって吐いたでしょ、あたし」
「う、うん」
ついつい、おかんから目をそらしてしまった。そのことは、思い出すのが未だに辛い。
「あの時は……ほんまに、ごめんなさい」
「い、いや、何で謝んの」
「だって、どう考えても最低の反応でしょ。ほんま最低。自分で自分が信じられへんかったわ、あの時は。食事中やったし混乱してたとはいえ、吐くって何よ。何なんよ。ああ、思い出したらへこんできた。ああもう最低。ありえへんでしょ、普通」
おかんはそう繰り返しながら、顔を歪めて頭をがりがりと掻いた。そういえばこの人も、僕と同じでマイナス思考にはまり込んだらとことん抜け出せない人だった、と思い出す。
おかーさんも、そのことは気にしてた、のか。
それが分かると、ほんの少しだけど、気持ちが楽になってきた。
「しかもそれで、四郎に謝りもせずに、そのままお父さんにくっついて福岡に逃げて来ちゃって……。落ち着いてから、死ぬほど後悔しとったの。あたしのあの反応で、どれだけ四郎が傷付いたか。あの子はもう、あたしのこと母親とは思ってくれへんわ、って思って。四郎に電話して謝ろうと思ったけど、罵られたり無視されたら、って思ったら、もう怖くて怖くて。あたしなんか最低やから、何を言われてもしょうがないのに」
「お、おかーさん。そんな卑屈な」
僕が言えた義理ではないが、突っ込まずにはいられなかった。何というか、母との血の繋がりを実感する瞬間だ。
「しかもね、お父さんから聞いたの。四郎、自分がゲイってこと、お友達には全然言ってないんやって?」
「あ、うん」
そのときと今では随分事情が違うのだが、僕は頷いておいた。ここで相原の話を出してもややこしくなるだけだし、上手く説明する自信がない。
「それを聞いてね、思ってん。四郎は、お友達にも言えないようなことを、勇気を出して言ってくれた、のに……」
そこまで言って、急におかんは言葉を詰まらせ、白い手で口元を押さえた。みるみる内に彼女の目に涙が溜まり、ぶわぶわと溢れ出してくる。
「何で、親であるあたしたちが、ちゃんと聞いてあげなかったの……!」
おかんは、両手で顔を覆って泣き出した。おとんが、労るようにおかんの背中をさする。
母親のその姿と言葉は、僕の心を激しく揺さぶった。
「ごめんね、四郎……。全然話も何も聞かないで、ごめんね……!」
消えてしまいそうな掠れ声で、おかんが謝る。
……僕はずっと、両親にカミングアウトしたことを後悔していた。そしておかんは、僕の話を聞かなかったことを、後悔していたらしい。僕たちは、お互いに同じことを考えていた。こんな単純なことを確かめ合うのに、半年もかかってしまった。
「ちゃんと話を聞いて、四郎を理解する為に、こっちに帰って来たんやんか……。だから、諦めてくれ、なんて言わんといてよ……っ!」
そう言って、彼女は泣き声を大きくした。僕は息を詰め、口を押さえて下を向いた。喉が震えて、今にも嗚咽が口を突いてしまいそうだった。
ああ、僕はなんて愚かなんだろう!
おかーさんはおかーさんなりに、歩み寄ろうとしてくれていた! 何やねん、何やねん。どんだけおれは空回りしてんねん!
「……おかーさん、ごめん。ごめん、ほんまに。諦めて、とかもう言わへんから、泣かんといて」
そう言って、おかんの顔を覗き込もうとしたら、彼女は勢いよく顔を上げた。
「もう、せやからあたしが先に話したかったんやんか!」
おかんは、平手で僕の頭をバシッと叩いた。大して痛くなかったけれど、予想外の衝撃に思わず「痛っ!」と悲鳴が口からこぼれた。
「もう! ちょっと四郎、ティッシュ何処よ、ティッシュ」
「え、あ、ああ、はいはい」
僕は立ち上がって、テレビの上に置いてあったティッシュ箱を手に取り、おかんの足下に軽く投げた。勢いよくティッシュを引っ張り出しながら、おかんは僕を睨んだ。
「物を投げたらあかん、って何回言ったら分かんの、あんたは!」
「ご、ごめん」
今までしおらしかった彼女が、突然以前のような「おかん」になって、僕は面食らってしまった。直後、笑いがこみ上げてくる。
そうそう、おかーさんはこういう人だった。泣くときは泣く。笑うときは笑う。怒るときは怒る。華やかだけど弱気で小心者で、そんでもって、卑屈。ややこしい人なんだった。
僕は息を吐き出した。何だか、安心してしまった。そしておかんが鼻をかむのを待ってから、一番聞きたかったことを聞くことにした。
「ええと、おかーさん。正直言って、おれがゲイってこと、受け入れてはない……やんな?」
そう尋ねると、一瞬彼女は押し黙った。そして、やや気まずそうにこう言う。
「それは……。いや、あの、あのね、理解する気はあるのよ」
あたふたするおかんに、僕はついつい笑顔になった。口先だけで、理解してる、とか言われなかったことが嬉しい。そして、理解しようとしてくれていることが、更に嬉しかった。
「うん、それで充分嬉しい。ありがとうな」
僕の言葉に、おかんは少しほっとしたように笑った。
ああそうだ、こんな笑顔だ、と思った。僕も今、こんな風に笑っているんだろうか。
……きちんと話が出来て良かったと、僕はしみじみ感じていた。
百パーセント理解してもらった訳ではないし、それにはまだまだ時間がかかりそうだけど、大きな進歩だ。僕も言いたいことが言えたし、おかんの考えを聞くことも出来た。そして僕もお袋も、お互い盛大に空回りしていたことが、よくよく分かった。やっぱり、卑屈は駄目だな。これは改善しないと。とても勉強になった。
「……何か、お父さん、めっちゃ蚊帳の外やねんけど」
寂しそうに、親父がぽつりと言った。そういえば、おとんをほったらかしにしてしまっていた。半ば本気で彼の存在を忘れかけていた僕は、彼の言葉にハッとした。そして、あまりにも寂しそうなおとんの口調に、噴き出しそうになる。
「お前なあ、お父さんのこと忘れとったやろ」
「わ、忘れてへん忘れてへん」
僕は慌ててかぶりを振った。おとんは、疑いの眼差しをこちらに向けてくる。
「お父さんは、別にお母さんの付き添いだけの為に、わざわざ有給取ったわけとちゃうねんぞ」
「そんなん、誰も思ってへんってば」
「大体やな、お前、おれらと話すの怖い言うてもやな、進路の話はきちんとせんとあかんやろが」
「あ、うわ、はい。ごめんなさい」
僕は、背筋を伸ばした。おとんは、軽く怒っているようだった。こんな風に、おとんに叱られるのも久し振りだ。怒られているというのに、何だか新鮮な気持ちになってしまって、僕は目を細めた。
「こっちから電話してんのに、全然出えへんしやな。何かあったと思うやろ」
「す、すいません」
そこは本当に、心底申し訳ないと思っているので、僕は誠意を込めて謝った。
「今までおれ、ほんまに、おとーさんとおかーさんに嫌がられてるっていうか、むしろ憎まれてるんちゃうかって思ってたもんで……」
「何言うてんねんな!」
おとんとおかんの声が重なった。あまりのシンクロっぷりに、僕は若干身体をそらす。
「お前なあ、何でおれらが四郎を憎むねんな」
「そうやで、あんた。あたしらいっぺんも、四郎を憎んだことなんかないねんから。親を舐めなや」
「ほんまやで。親を舐めたらあかんわ」
「何でそんなこと考えるんか、意味が分からんわ」
「何やなあ、お父さんは悲しいわ」
「アレやわ。ほら四郎って、ちょっと卑屈なとこあるから」
夫婦揃って、口々に言い立てる。僕は勢いに圧倒されて「ご、ごめん」と謝った。そして、それならば言わせてもらおうと、身を乗り出して口を開いた。
「お、おかーさんに卑屈とか言われたくないわ。自分やって、四郎はあたしを母親と思ってないんちゃうかとか、卑屈三昧やったやんけ。こっちこそ、そんなん一瞬たりとも考えたことないっちゅうねん」
そこで一旦言葉を切り、息を吸い込んでから、
「子どもを舐めなや」
と言ってやった。 おかんはちょっと気圧されたように、「ご、ごめん」と言った。その横で、おとんがぷっと噴き出す。
「ほんまそっくりや」
と彼が小声で呟くのを、聞き逃さなかった。僕はにわかに恥ずかしくなり、咳払いをして話を本題に戻すことにした。
「ええと……そんなら、おとーさんは、おれがゲイってことについて、どう思ってんの」
尋ねると、おとんは「ああ、それなあ」と言って笑顔になった。
「お父さんは最近になってやっと、四郎の好きにしたら良い、って思えるようになってきた。そんななあ、犯罪犯してるわけでも何でもないんやし」
ちょっと自信を滲ませた口調で、おとんは言った。
「えっマジで?」
驚いて聞き返すと、おとんは「あ、いや」と慌てたように手を振る。
「でも……お前の恋人に会ったりしたら、そんときはやっぱ、ショック受けるかも分からん」
言い直されても、腹が立ったり悲しくなったりはしなかった。そう考えるのが当たり前だし、おかんのときと同じく、いきなり全肯定されなくてホッとした。突然、全面的にお前を受け入れるとか言われても、それはそれで怖い。
相原の両親は即座に受け入れてくれたらしいけど、あそこの家はちょっと特殊だ。僕の両親は、近親者に同性愛者も何もいないのだから、なかなか受け入れられなくて当然だ。
それに親父からもお袋からも、離れている間に僕のことを真剣に考え、理解しようと努めてくれていたことが伺えて、それが本当に、本当に嬉しかった。
……ていうかおとーさん、もう既におれの恋人と会ってるで……。
それを思うと、気まずいような面白いような、微妙な気持ちになってしまう。
「でも、いつか紹介しろな」
「……うん」
そう言ってから、両親の顔を順番に見た。
「おとーさんとおかーさんが大丈夫になったら、ちゃんと会ったってな」
ほんまに良い奴やから、と心の中で呟いた。おとんとおかんが、ゆっくり頷く。
ああ、話して良かった!
本当に、話して良かった!
「……そうや、四郎」
「うん、何、おかーさん」
数十分前とは比べものにならないくらい落ち着いた、そしてリラックスした気分で僕は返事をした。
「やっぱり、あたしたち、もっと話し合うべきやったと思うの」
「おれも、そう思う」
僕は同意した。本当に、僕たちはすぐに話し合うべきだった。
「お父さんとも話してたんやけど、四郎」
おかんはそこまで言って、おとんの顔を伺い見る。おとんは、うんうん、と首を縦に振った。
何や、この夫婦のコンビネーション。そう思って首を捻っていたら、おかんがこんなことを言った。
「やっぱり四郎も、博多に来いへん……?」
聞いた瞬間はびっくりしてしまったが、数秒間その言葉を噛み締めたら、別に驚くことでもなんでもないことだと分かった。
ああ、うん、そうやんな。家族は一緒が一番やんな。もう、お互い避ける意味もないねんし。
理解した僕は、両親に笑みを返した。
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