■きみが涙を流すなら 52■


「あっ、つ……」

 僕は制服の胸元をつまんで、バタバタと扇いだ。そんなことしたって、ぬるい風しか来ない。汗が一筋、背中を流れてゆく感触がした。

  太陽は今日も絶好調でギラギラだ。タイガースも、これくらい盛大に輝いてくれたらいいのに。未だ三位に燻ってるなんて、納得がいかない。

  日陰を選んで歩きながら、僕は携帯を取り出して相原にメールを打った。太陽が眩しすぎて、携帯の液晶も見づらい。

「三者面談、さっき終わりました……と」

 今どこにおるん? と付け加えて、送信した。程なくして、「大通りの本屋で立ち読みしてる」と返って来たので、「そんなら、そっち行くわ」と送り返す。

 それから五分ほど歩いて、本屋に到着した。そんなに長く動いたわけでもないのに、既に汗びっしょりだ。自動ドアが開いた瞬間冷たい空気が流れ出して来て、ほうっと息を吐いた。

 店内は、そこそこ混雑していた。外が余りに暑いから、みんな避難して来たのだろうか。

 相原は多分、タイガース関係か高校野球の雑誌でも読んでるんやろう、とアタリをつけて歩いたら、スポーツ雑誌のコーナーで相原の姿を見付けた。大正解だ。彼は紺のTシャツとジーンズという格好で、真剣な顔で雑誌を読んでいる。そのあまりにも本気の表情に、僕は笑いそうになった。こみ上げてくる笑いを堪えながら彼に近付き、「おす」と声をかけて相原の肩を叩く。相原はこちらに顔を向けて、笑顔になった。

「よす、お疲れ」

「何読んでたん」

「ああ、月刊タイガース」

 相原は雑誌を閉じて、表紙を見せた。ジェフ・ウィリアムスの写真がドンと目に入る。今月は、彼の特集らしい。

「はは、やっぱりな。絶対、野球系の雑誌を読んでると思ってん。」

「いやだって、これは読んどかんとあかんやろ。ジェフかっこいいわー」

 首を振りながら、相原は月刊タイガースを棚に戻した。そして僕の方に顔を向け、ニッと笑う。

「面談、お疲れ。とりあえず、出よっか」

 相原の言葉に、僕は頷いた。

  本屋を後にし、再び灼熱の太陽の下に出た。行き先は決まっていないが、照りつける日差しと熱風に顔をしかめながら、とりあえず歩き出す。

 影のある方へ、影のある方へと歩を進めていったら、公園に辿り着いた。遊具は滑り台とブランコしかないが、それなりに広い広場のある公園だ。 入り口のすぐ近くにあった自動販売機で缶ジュースを買ってから、中に入る。

 僕たちは木陰のベンチに、並んで腰を下ろした。古いベンチで、座った瞬間ギイ、と嫌な音がする。

  滑り台の下で小学生がふたり、ニンテンドーDSにかじりついていた。何もこんな炎天下で携帯ゲームをやらんでもと思うが、そういえば僕も小さい頃は、公園でゲームボーイをやっていた。何だってガキは、屋外でゲームをしたがるんだろう。

「あっつい……けどやっぱ、陽の下よりかは大分マシやな」

 相原は手で顔を扇ぎ、さっき買ったコーラのプルトップを引き起こした。僕はミルクティーの缶を額に当てる。気持ちが良くて、思わず目を閉じた。頭上から、蝉の声が激しく降ってくる。ああ、夏だなあ。

「吉川、三者面談、どやった」

 相原の声に、僕は目を開けた。

「あ、おとんも来たから、四者面談か」

 そう付け加えられて、叫び声をあげそうになった。

「恥ずかしいから、それは言わんといて……!」

 何回も、何十回も、来なくて良いと言ったのに、何故かおとんまで面談のために大阪にやって来た。僕はもう、恥ずかしくて仕方がなかった。折角和解できたのに、再び溝が出来てしまいそうな勢いだ。担任も、まさか両親揃って来るとは思っていなかったらしく、大層驚いていた。僕は消えてしまいたかった。

「いやあ、おれも、大概恥ずかしかったで? おかん、喋りすぎでさあ」

 相原は言って、コーラを豪快に呷った。彼は飲み物でも飯でも、とても上手そうに飲み食いする。僕は相原の、そんなところも好きだ。

「はは、ええやん。相原のおかんらしいやん」

「良くないっちゅうねん。おれ、『はあ』と『ああ、まあ』くらいしか言うてへん」

「あ、おれもそうかも。あんまり喋ることないよな。受験のことも、『そろそろ考えとけよ』くらいしか言われへんかったし」

 受験、という言葉が出たところで、相原が顔をしかめた。確かに、受験ってのは嫌な響きだ。出来れば考えたくない。

「あー……受験かあ……」

 溜め息混じりに言って、相原は再びコーラの缶に口をつけた。僕もミルクティーを一口飲む。買ってからいくらも経っていないのに、早くも温み始めている。どんだけ暑いんだ大阪。

「吉川、結構成績いいよなあ」

「そ、そうかあ?」

「少なくとも、おれよりかはいいやろ。おれ、二学期からめっちゃ頑張らんと、吉川と同じ大学行かれへんよなあ」

 え、あ、同じ大学行きたい、とか思ってくれてたんや。

 顔がニヤけてしまいそうになって、僕は慌ててミルクティーをごくごくと飲んだ。相原と一緒なら、受験も楽しいかも、なんて考えてしまう。相変わらず、僕は単純だ。

「そういえば、吉川のおとんたち、いつ帰んの」

 思い出したように、相原が言った。

「今日の夜。飛行機で帰るって」

  僕は、滑り台の下の小学生たちに目を向けた。物も言わずゲームに没頭する彼らに、何だかなあ、と思ってしまう。目の前に友達おんねんから、ちょっとは喋れよ。僕も小さい頃は、端から見たらあんな感じだったんだろうか。

「へえ、結構慌ただしいねんな。吉川、一緒にいとかんで、ええの」

「ええよ。また帰って来るみたいやし」

「そっかあ」

 相原は、僕の背中を軽く叩いた。

「良かったなあ」

 彼お得意の爽やか笑顔でそう言われて、僕はどうにもこうにもくすぐったくなった。

 だけど確かに、良かった。あれから少しずつ、両親とも話が出来ているし。うん、良かった。本当に。

 全部相原のおかげやで、と言いたかったけれど、それを言うとまた泣いてしまう予感がしたので、黙っておいた。

  なんとなく二人して無言でいると、滑り台下の小学生が「うわっ、ハメや!」と叫んだ。もうひとりの小学生が「さっきのお返しですぅー」と、歌うような口調で言う。

 僕があれくらいの頃、もう自分はゲイだって自覚してたっけ?

 なんとなく、そんなことを考えた。

「……そうそう。兄貴、今週末引っ越しやねん」

 何気ない口調で、相原が言う。僕はぼんやりとした考えを引っ込め、彼の横顔に目を向けた。

「あ、もう住むとこ決まったんや」

 香織ちゃんが包丁を持ち出して云々の件の後すぐ、浩一さんはそのときのお礼と謝罪を言いに、わざわざ僕の家に来てくれた。そのときに、彼が家を出て学校の近くに下宿するつもりだという話を聞いた。香織ちゃんと離れることにした、と。

「うん。兄貴、結構前から、家を出ることは考えとったみたい。決まるまで、あっという間やったもん」

「そうなんや……」

「就職も、東京とか遠いとこで探すねんて。しばらく帰って来んて」

 そう言う相原は、何処かほっとしたような表情をしていた。

「そっか。とことん離れるねんな」

 僕もそれが最善だと思ったが、香織ちゃんのことが少し心配だった。別れ話であれだけ荒れていた彼女が、浩一さんと離れることになったら、どうなってしまうんだろう。

「……香織ちゃん、は?」

 恐る恐る尋ねてみたら、相原は嫌そうな顔をした。

「香織な。めっちゃウザい」

「そ、そうなん?」

「やたら八つ当たりしてくんねん。ほんま腹立つ」

 相原はぶつぶつ言っている。 残念ながら、相原と香織ちゃんの溝は深まる一方のようだった。全てが円満解決とはいかない。それは、仕方のないことだと思う。

  僕はというと、どうしても香織ちゃんのことを気にしてしまう。一時期、彼女と自分を重ねていたからだろうか、彼女のことが心配でしょうがない。……いや、香織ちゃんが心配というよりは、彼女と衝突することで相原が嫌な思いをしないか、そっちの方が心配なのかも。薄情かも知れないけれど、やっぱり、相原のことが一番大事だ。

「そんなら香織ちゃんも、試練の時やな……」

 僕は、うつむいて手元の缶を見つめた。

  絶対に世間に認められない恋をして、それを失って、相手は自分の元から離れて行って、だけど兄妹だから縁が切れる訳じゃない。

 一体どんな気持ちなんだろう。失恋は僕も経験があるから分かるけれど、それ以外は全く想像がつかない。

「……吉川? 泣いてんの?」

 相原が僕の肩に手を置いて、顔を覗き込んでくる。心外に思った僕は、勢いよく顔を上げた。

「な、何でそうなんの! おれもそんな、泣いてばっかいるわけじゃ……」

 そこまで言って、自分の発言に全く説得力がないことに気付いた。

「……そういえばおれ、相原の前でずっと泣いてた気が、する……な」

 僕は今まで、相原の前で何回泣いただろうか。考えると恐ろしい。

「はは、ええやん別に」

 肩に置いていた手を、相原はぽんぽんと弾ませる。

「ええかあ?」

「吉川が泣くの、嫌やけど、嫌じゃない」

「む、難しいこと言うな」

「吉川が泣くようなことが起こるのは嫌やけど、でも、おれの知らんとこでこっそり泣かれるよりは、おれの前で泣いてくれた方がいいかな、って」

 相原の目は何処までもまっすぐで、僕は顔を熱くする。何この人。何言っちゃってんの、この人。

「お、お前ってほんま、すごいこと言う、よな」

 相原の爽やかすぎる目から視線をずらして、僕はたどたどしい口調で言った。彼は「え、そう?」なんて首をかしげる。無自覚なところが、良いところでありタチの悪いところだと思う。

「何か変なこと言ったかなー」

 と言いながら、相原は肩でぽんぽんやっていた手を、僕の頭に移動させ、髪の毛をかき混ぜた。

「あの、さっきから何やってるんですか、相原さん」

「ああ、もうすぐ学校始まるやん? だから、どの程度ならくっついてても周りに怪しまれへんか、考察中」

「おっ、お前ってやつは……!」

 僕は、更に顔を熱くした。

 最近分かったことだけど、相原は意外とくっつきたがりだ。僕としては、それは大変に嬉しいことなのだけれど、屋外にいるときは注意しないといけないかもしれない。相原にではなく、僕自身が注意しなくては。デレデレニヤニヤは厳禁だ。自制心を総動員する必要がある。

「……あ、そうや。学校始まる、で思い出してんけど」

 僕が声を上げると、相原は僕の頭から手を離した。その手の動きを目で追ってしまいそうになるのを、何とかこらえる。

「おれ、親に博多に引っ越して来い、って言われて」

「は」

 相原は目を見開き、一瞬動きを止めた。それから身を乗り出して、声を大きくする。

「うそ、何それ! おれそんなん聞いてへん!」

 彼の額がぶつかりそうになって、僕は若干頭をのけぞらせた。

「ご、ごめん。言いそびれてた」

「え、嫌や! 吉川、行くん? 行かんよな? 行かへんやんな?」

 僕の言葉の途中で、相原は言葉をかぶせてくる。僕は慌てて、首を縦に振った。

「う、うん。行かへんよ」

 すると相原は再度動きを止め、そのまま数秒間固まった。やがて大きく息を吐き出して、右手を胸に当てる。

「……良かったあ……!」

「ご、ごめんな、黙ってて」

 軽い世間話のつもりで振ったのに予想外の反応が返ってきて、僕もドキドキしてしまった。変に驚かせてしまって申し訳ないのと同時に嬉しくて、また頬が緩みそうになる。思わず目を泳がせたら、滑り台の下の小学生たちが公園から出て行くのが目に入った。これで、この公園にいるのは僕たちだけになった。あ、それじゃ、ちょっとくらいニヤけてても大丈夫か? いや、油断は禁物だ。何処で誰が見ているか、分からないのだから。

「びっくりするわ、ほんま……。汗も引っ込んだ、っちゅうねん。あー、心臓に悪い」

 相原は右手で、胸をさすった。それから遠慮がちに、こちらを見る。

「……で、おれめっちゃ、行かんよな、とか自己中なこと言ってもうたけど、ええの、離れたまんまで」

 気遣わしげな相原に、僕は笑ってみせる。

「うん。もう高校生活半分終わってるし、こっからまた新しい学校とか、しんどいやん。どうせ大学は関西の学校行くつもりやし」

「それは確かに、そうかもな」

「それに、離れてても何か大丈夫な感じするし」

 そう言うと、相原も笑顔になった。僕の一番好きな顔だ。

「それに」

 僕は付け加える。

「阪神と相原がないと生きていかれへん」

 何も考えずに口を動かしていたら途中で恥ずかしくなってしまって、最後の方は消えそうな声になった。言うならきちんと、はっきり言えば良いのに。そこが相原と違って、僕の駄目なところだ。

「おれは阪神の後かよ」

 相原は笑った。僕は「え、いや、」と、口をもぞもぞさせた。

 入り口から甲高い声が聞こえたので、何かと思ってそちらに目を向けたら、今度は小学生女子の集団が公園にやってくるところだった。最近の子どもは物凄くおしゃれで、色とりどりの洋服が眩しい。リーダー格らしい背の高い女の子が、「鬼、決めるでー!」と大きな声をあげている。

「ああ、何か、腹減った!」

 そう言って、相原は立ち上がった。こちらを振り返って、

「吉川ん家行こうぜ」

  と白い歯を見せる。

「うん、そやな」

 僕も立ち上がった。再び、ベンチがギイッと音を立てた。

 木陰から出た瞬間、矢のような日差しが脳天を貫き、僕たちはほぼ同時に

「あっつ!」

 と悲鳴じみた声をあげた。それから、ふたりで顔を見合わせて笑った。

 空は青いし、僕の好きな人は、こんなに近くで笑っている。


 ああ、僕は幸せだ!





おしまい

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ここまで読んで下さいまして、本当にありがとうございました!!
2008.08.18 きりんこ