■きみが涙を流すなら ■


「ええと、ほんじゃ、中入って」

 僕は、扉を大きく開けた。相原みたいに軽い調子で言おうと思うのに、どうしても声が固くなってしまう。

 最初におとん、次におかんが扉をくぐる。その際、一瞬だけおかんと目が合った。

 僕は小さい頃からずっと、母親似だと言われてきた。笑ったときの顔が全く同じだと、おとんがしょっちゅう、僕とおかんを見比べて笑っていた。自分ではそんなに似ていないと思うけれど、親戚も近所の人もみんな同じことを言うので、多分そうなんだろう。

  おかんは今、何か言いたいような、何も言いたくないような、微妙な表情をしていた。明らかに頬や首回りの肉がそげ落ちているし、目元のシワも増えている。大阪にいた頃は、肩よりも長い髪に派手な印象のパーマを当てていたけれど、今はすっきりとしたショートカットになっていた。相原のおかんとはタイプが違うけれど、彼女も明るくて溌剌とした母親だった。だけど今は、見る影もない。

  彼女の笑顔はどんなだったろうか。自分にそっくりだというその笑顔を、全く思い出せなかった。

 両親は居間に入って腰を下ろし、物珍しそうに室内を見回した。僕は落ち着かない気分になった。

「何でそんな、まじまじ見てんの」

 尋ねると、おとんは「いやあ……」と呟いてこちらを見た。

「綺麗にしてるんやなあ、と思って」

「そ、そうかなあ」

「四郎は、綺麗好きやもんなあ」

 眩しそうに言われて、くすぐったくなった僕は逃げるように台所に駆け込んだ。コップを三つ用意して、冷えた麦茶を注ぐ。

  その間に、この話し合いをどのように進行させるか考えたが、何も浮かばなかった。一応電話をする前に、あれこれ段取りを決めていたはずなのに、何ひとつとして思い出せない。やばい。相原ばりのノープランだ。

 いつまでも台所でダラダラしているわけにはいかないので、三つのコップを両手に抱えて居間に戻る。そして、ふたり並んで腰を下ろしている両親の前にコップを置いた。コトリという小さな音が、僕には試合開始のゴングの音に聞こえた。

「……ええと、それで、話やねんけど」

 両親の正面に座り、意を決して切り出した。 ここまで来たら、もう引き返せない。逃げ道は何処にも残っていない。

  僕は相原の笑顔を思い出していた。大丈夫、と彼は言っていた。だから大丈夫だ。うん。

  今こそ、思いの丈をぶちまけるときだ。もしそれで、おかーさんがもう一回嘔吐しても大丈夫……と言い切れる自信はないけれど、だけど、前回のようにはいかない。あんな風に、うやむやのまま終わったりしない。今度こそ、何があっても絶対に、自分が考えていることを全部、両親に伝えるんだ。

「あの、おれ、謝りたくて」

 そう言うと、おかんがハッとした表情で顔を上げた。

「ほんまに、すみ」

「待って!」

 僕の言葉は、おかんの悲痛な声にかき消された。僕はびっくりして、言おうとしていたアレコレと空気の塊を呑み込んだ。

「待って、四郎。あたしが先に謝るから」

 彼女は、首を横に振りながらそんなことを言う。理解出来なくて、僕は首を捻った。

「え、何で? おかーさんが謝ることなんか、何も」

「ううん、謝りたいの」

 おかんは、何やら決意を固めたような表情をしている。

 ちょっと待ってくれ、と思った。何を謝りたいのか知らないが、先に謝られたら僕の立つ瀬がない。だって僕は両親と離れている間、頑なに彼らを避けながらも、ずっと謝りたかったのだ。何を置いてもまずこっちが謝らないことには、始まらない。

「いや、待って。そんならおれの話聞いてからにして。とりあえずおれに謝らして」

「あかん。あたしが先に謝る」

「待って、ってば。おれが先に謝るって言うてるやんか」

「あんたこそ待ちなさい。あたしが先に謝るって言うてるでしょ」

「おれが先に謝らないと、意味がないねんて」

 僕は段々焦れてきた。話し合いがスムーズに行くとは思っていなかったけれど、スタートライン以前でつまずくなんて、全くの予想外だった。

「あたしだって、あんたに先に謝られたら意味がないわよ」

 おかんも、多少苛立ってきたようだった。語気がどんどん荒くなる。

「いや、だから、おれが」

「あたしが」

「うん、ちょっと落ち着けや」

 とうとう、おとんが二人の間に割って入った。呆れ果てた顔をしながらも、目元は穏やかで笑っているようにも見える。僕たちは同時に口を閉じた。

「ほんま、四郎とお母さんはそっくりやなあ」

 おとんは嬉しそうに言う。何を呑気なことを、と口からそんな言葉が出そうになったが、どうにか堪えた。

「お母さん、とりあえず四郎の話を聞こうで。折角、話してくれるんやから。な?」

 おとんにそう言われても彼女はまだ不服そうな顔をしていたが、「な?」ともう一度促されて、深く息を吐いた。

「……分かったわ」

 おかんは、諦めたように言った。

  僕は、つまらない口論ではあったけれど、意外と普通に母親と言葉を交わせたことにびっくりしていた。何や。会ってみたら、結構喋れるもんやねんな……。

「そんじゃ、四郎。話って?」

 ゆっくりと、おとんが尋ねる。

 僕は顎を上げた。こうやって、改まって両親と向かい合うと、やっぱり緊張してしまう。膝の上に置いた手が汗ばんできて、何度も手のひらをジーンズにこすりつけた。

 大丈夫、大丈夫、と心の中で呟きながら、口を開いた。

「まず、こんな風に……家族が、気まずくなる原因を作ってごめんなさい」

 おかんが一瞬、何かを言いかけた。しかしすぐに唇をぎゅっと結び、黙り込んだ。おとんも、何も言わない。

「たくさん悩ませてごめんなさい。三者面談のこと黙っててごめんなさい。電話も無視しててごめんなさい。おとーさんとおかーさんと、ちゃんと話をするのが怖かった、もんや、から」

 僕は、手の甲で額を拭った。冷房が効いているのに、汗でべしゃべしゃになっていた。それからおかんの顔を見る。吐きそうな顔はしていなかったので、少しほっとした。

「ほんまに、ごめんなさい」

 小さい声で再度謝ってから、やや大きい声で「改めて、言わせて欲しいねんけど」と前置きする。

「おれは、ゲイです」

 おかんの眉間が、ひくりと動いたのが分かった。その表情の変化に、どういう思いが込められているのかは分からない。だけど、あまり良い感情ではないことは、なんとなく分かった。僕はそれに、少しだけ胃の辺りが痛むのを感じた。しかし、口の方は自分でも驚くほどスムーズに動く。ずっと言いたかったからだろうか、考えなくても言葉がどんどん口から溢れて来て止まらない。

「自分でも何が原因でこうなったのか、全く分からへんねんけど……。あ、おとーさんとおかーさんの育て方には、全く何の落ち度もないねんで」

 念の為、そこは強調しておいた。あたしたちの育て方が悪かったから四郎がこうなった、とか思われたらたまらないからだ。

「ほんまに……何でなんやろう。おれも一応一通り悩んで、どうにかして女の子に興味持とうと頑張ってみたこともあるけど、やっぱ無理やってん。つまり、もう、どうしようもない、わけです。おれは本当に、どうしようもない。こんなん、絶対おとーさんたちが悲しむって分かり切ってることやから、絶対言わんとこうって思ってた。のに、自分はどうしようもない、どうやったって女の人とは恋愛が出来ない、結婚だって出来ない、ってことが分かったら、今度は隠してるのがしんどくなって」

 指先が震えてきた。声も、若干掠れ始める。

「この先何十年もずっと、家族に自分の根っこの部分を隠して誤魔化して生きるっていうのが、耐えきれなくなってもうて……。あ、いや、今では言わんかったら良かった、って反省してます。ほんまに。すいませんでした。なんせ、おかーさん吐いてもうたし。ほんま、めっちゃ後悔してるし申し訳ないと思ってる。それであの、理解してくれとか言うつもりは無いんで、あの、おれのことは……諦めてくれると嬉しいな、と」

 一気に言ってしまった。頭が、キシリトールを噛んだ後の口の中みたいに、スウッとしていくのを感じた。何だ、このスッキリ感。しかし、それとは対照的に両肩には物凄い勢いで疲労感がのしかかってきて、僕は喘ぐように呼吸をした。

「……ごめんなさい。ほんま、ごめんなさい。」

 無意識の内に、謝っていた。

 それを見て、おかんが神妙な顔で息を吐いた。