■きみが涙を流すなら 49■
『博多から、今、新大阪に着いたとこや』
「え、な……マジっすか!」
僕はほとんど悲鳴のような声をあげた。相原が、何? という顔でこちらを覗き込んでくる。僕は必死で脳みそを動かして、言葉を探した。
「えーと、仕事、で?」
何気ない口調で言おうとするが、どうしても不自然な声音になってしまう。
『お前が電話に全く出んから』
おとんの多少怒気を含んだ声に、僕は思わず正座して背筋を伸ばした。そう言われると、何も返せない。ということは、全く連絡のつかない馬鹿息子を、張り倒しに来たのだろうか。ていうか会社は? 何で平日に? わざわざ休んだ?
「ご、ごめんなさい」
色々聞きたいことはあったが、とりあえず謝った。おとんからの電話を無視し続けていたことに関しては、百パーセント僕が悪い。やっぱり、相原の言うとおりもっと早く電話しておくべきだった、と今更ながらに後悔する。
『で、お前は何の電話やったんや』
おとんの声が、遠く聞こえる。駄目だ。混乱しすぎて、まともに口がきける自信がない。汗で携帯電話が滑る。
相原が、握った僕の手を軽く振った。それで、我に返った。顔を上げて相原を見ると、彼はにこっと笑って左手の親指を立てた。何だか分からないけれど、少し落ち着いた。
「その、ちょっと話をしようと思って」
ちょっと噛みそうになったけれど、ちゃんと言えた。おとんは少し間を空けて、『そうか』と言った。
『おれら、今からそっちに行くとこやから、もちょっと待ってくれるか』
その発言に、僕は首をかしげた。
「おれ、ら?」
『おれと、お母さん』
おとんの言葉は、ざっくりと僕の脳天を貫いた。 おかん。おかんも来ているのか。
僕の予定では、比較的話がしやすいおとんとまず話をして、それから徐々におかんとコンタクトを取っていく……というつもりだった。それがいきなり、夫婦そろってご帰阪とは。これは、今まで両親との対話を先延ばしにしていた、僕への罰だろうか。
「ああ……おかーさん、も、来てるん、や」
大ダメージを受けつつも、僕は懸命に舌を動かした。こめかみから、汗がだらだらと流れ落ちてくる。段々身体が冷えてきて、寒くなってきた。
『今から行っても大丈夫か? 何か予定とか』
「や、うん。大丈夫」
僕はそう言って、首を横に振った。内心は全然大丈夫じゃない。あーごめん、これから予定あんねん、とか適当なことを言って逃げてしまいたい。だけど、頑張ると決めたのだから、頑張らないと。
受話器の向こうで、おとんが息を吐く気配がした。
『じゃあ、後でな』
「はい」
思わず丁寧に頷いてから、僕は通話を切った。
力なく腕を下ろして、携帯電話を床に置く。ぼんやりと天井を見上げた。蛍光灯の白い光が眩しい。
電話で話す覚悟は出来てたけど、直接会う勇気はまだないよ、おとーさん……。
しばらくそのままの体勢で呆然としてから、緩慢な動作で相原の方を向いた。
「おとんとおかん、今大阪に来てるんやって……」
声に力が入らない。身体にも。ともすれば、ぱったり倒れてしまいそうだった。
「おお」
相原は、驚いたように目を見開いた。それから、「ちょうど良かったやん」と言って笑う。
「よ、良くないよ! いきなり会って話すとか、おれ、どうしたらええねん!」
「いや、電話より顔見てしゃべる方が、絶対良いって」
「それはそうかもしれへんけど! ああ、ほんまどうしよう、どうしよう!」
「元々、今日は話をする、って決めててんから、何を今更テンパってんねんな」
呆れたように、相原が言う。
「だって、おかんも一緒に来るとは思わんかってんもん」
声が震えてしまう。この半年間、一切口をきいていない母親。おとんが一人で来るなら、まだ分かる。何故おかんが? 何のために? 全く分からなかった。分からない、ということは不安で恐ろしいことだ。背中に震えが走った。怖い。全てが怖い。
「そんじゃ、おれ、帰るな」
見えない恐怖に怯えていたら、相原がこともなげに言った。えっと思った。僕の手から、するりと彼の手が抜けていく。びっくりして、相原を見上げた。
「えっ、帰るんっ!?」
なんて酷いことを言う男だろう! 彼は側にいてくれるものだと思っていた。僕をひとりにするのか。縋るような気持ちで相原を見つめたら、彼は首を傾けた。
「おってええの? おれは別にええねんけど。でも、話がややこしくならへん? 第一、おとんとおかんに、おれのこと言うの? 言わんの?」
それもそうだ。相原にここにいてもらうということは、両親に、相原を会わせるということだ。その場合、なんて言って彼を紹介すればいい? 恋人です、って? そんなこと言って、またおかんの体調がおかしくなったらどうする。でも友達です、って言うのも、何か、ちょっと、なんていうか、なあ?
「お、あ、ええと」
どうとも答えられなくて、僕の口から意味不明な音が漏れた。相原はそれを見て、苦笑いを浮かべる。
「な。今の吉川は、そこまで考える余裕ないやろ。それにやっぱ、親子だけで話し合ったほうがええで」
「それは確かに……いや、でも、あ、いや、ううん、でも」
「吉川、しっかりしろー」
相原は気楽そうに笑っている。僕はチラチラと相原の顔を盗み見て、遠慮がちに口を開いた。
「いやあの、相原、帰って大丈夫、なん?」
「ああ」
僕の言葉に、彼は目を細めて笑った。
「うん、吉川がテンパってるの見てたら、何か大丈夫になってきた」
そう言っておかしそうに笑うので、頬が熱くなってきた。むしょうに恥ずかしい。
「な、何やねん、それ」
「大丈夫大丈夫。頑張れ、吉川。おれも頑張るから。な?」
相原は力強く言って、僕の両手をぎゅっと握った。昨日からこっち、彼とこうやって触れ合う時間が多かったので、流石にこれくらいの接触では動揺しなくなってきた。
相原が、大丈夫なはずはないと思う。だって、あんなことがあってから、まだ一日だ。居間に入れば嫌でも思い出すだろうし、家族と顔を合わせるのも辛いだろう。
「……うん、頑張る、わ」
僕は、どうにかそう言った。僕も相原も、今が試練のときだ。頑張れ。頑張れ、相原。頑張れ、おれ。
「ど、どうしようもないくらいに家庭が崩壊したら、慰めてな」
おずおずとそう切り出したら、相原は笑顔になった。
「うん、そんときは全力で慰めたるから、安心しとけ」
僕は少しだけほっとして笑った。こういう安心感は、小林と付き合っていたときにはなかったものだな、と頭の端の方でぼんやりと思った。
「そんじゃ、あんまのんびりしててもアレやから、帰るな。新大阪からやったら、結構すぐ着いちゃうもんな。何かあったら、電話して」
相原はそう言って、携帯電話を振った。
「うん。ごめんな、相原も、何かあったら電話してな」
「おう」
相原は笑って頷いた。僕はその笑顔を、頭に焼き付けた。両親との話し合いでピンチになったら、この笑顔を思い出そう。
彼を見送るために、玄関までついて行く。靴を履く後ろ姿を見ていると、ああやっぱり離れたくない、と思ってしまう。
相原が玄関を開けて、廊下に出る。そして「ん?」と小さく声をあげ、こちらを振り返った。
「なあ、吉川。あっちから歩いてくるのって、もしかして吉川のおとんとおかん?」
「えっ?」
僕は慌てて身を乗り出して、廊下を見た。
スーツ姿の男の人と、白っぽい服を着た女の人が、男の人の後ろに隠れるようにして歩いてくるのが見える。見間違えようもない。僕の父と母だった。父は白髪が増えていたし、母は痩せたようだったが、紛れもなく両親だ。
おとんの方と、目が合った。心臓が、激しく揺さぶられた。
おとーさん、おかーさん!
叫び出したくなるのを、どうにか我慢した。嬉しいんだか懐かしいんだか苦しいんだか分からない。
「ま、正に、おとんとおかん……ですねえ」
廊下に片足を出し、玄関の扉を半開きにして僕は小声で言った。口を動かしながらも、おとんから目を離すことが出来ない。直後、廊下に出している足が裸足であることに気付いたが、かまっている余裕はない。
というか、随分早くないか? いや、こんなもんか? 駄目だ、もうまともに物事が考えられない。
「結局会っちゃうな。そんなら挨拶だけしよっか。余計なことは言わん方向で」
相原はごくごく小さい声で囁いて、両親の方に身体を向けた。そして、こちらにどう声をかけようか迷っているふうの僕のおとんに向かって、「こんにちはー!」と爽やかに呼びかけた。その声で、今まで下を向いていたおかんも、こちらに気が付いた。
両親も、それなりにシリアスな心情でここまで来たのだろう。そこに突然爽やかな少年に声をかけられて、相当面食らったようだった。二人して、ぎこちないにも程がある、ロボットみたいな会釈を返す。
相原は、僕のおとんに微笑みかけた。
「どうもー。前に一回、電話で話しましたよね。覚えてはります?」
するとおとんは目をぱちぱちさせて、「ああ……ああ!」と、何度も頷いた。そうか、この二人は電話で話したことがあるんだ、と僕は思い出していた。そのときは、相原と付き合うなんてことは勿論、お互いの秘密も知らなかったので、相原が自分の恋人だと勘違いされないように、必死で弁明した記憶がある。
「四郎の友達の……ええと、相原くん」
「わ、名前覚えてくれてはったんですねー。ありがとうございます」
「あ、いや、息子がいつもお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそお世話になってます」
深々と頭を下げるおとんに、相原は照れくさそうに笑った。それから彼は、僕のおかんの方に顔を向けた。
「吉川のおばちゃん、初めまして。吉川と同じクラスの、相原っていいます」
相原は、おかんに向かってお辞儀をした。
「あ……どうも、こんにちは」
おかんは慌てたように礼をする。久し振りに聞く母親の声に、胸が熱くなった。そうか、おかーさんて、こんな声だっけ。
おとんが一歩前に出て、僕と相原を交互に見た。
「四郎、お客さん来てたんか」
「いや、おれは借りてたCD返しに来ただけなんで。今帰るとこっす」
相原は朗らかに言って、手をひらひらさせる。
「そんじゃ吉川、またな!」
僕の肩をぽんと叩いて、相原は軽い口調でそう言った。なんという爽やかさ。こんな状況にも関わらず、ちょっと胸がときめいた。
「お、おお。そんじゃな」
手を振る僕に、相原は笑みを返した。それからもう一度両親に会釈をしてから、彼らの横を通り過ぎて歩いて行く。
その後ろ姿をずっと目で追ってしまいそうになったが、ぐぐ、と頭を動かして両親の方を見た。
……相原は、もういない。ここから先は、僕ひとりの戦いだ。
僕は息を吸い込んだ。
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