■きみが涙を流すなら 48■
自分の家の玄関に入った瞬間、中から冷たい空気が流れ出してきた。一瞬、何で? と思ったが、この家を飛び出したときにクーラーの電源を消した記憶がないことに思い至った。
「うわ、そういえばクーラーつけっぱなしやった……」
慌てて靴を脱いで上がり、居間に入ろうとしたら、突然、後ろから相原が抱きついてきた。身体は前進しようとしていたので、相原の腕がぐっと腹に食い込む。一瞬何が起きたのか分からなくてぽかんとしてしまったが、直後に状況を理解して、心臓が止まるかと思った。
「あ、お、おお、お」
僕は意味不明のうめき声を発し、全身を硬直させた。前方から冷たい風が吹き、後方からは相原の体温が感じられる。背中と肩にのしかかる重みに、胸が震える。相原の額が、僕の後頭部にごつんと当たった。
「ごめん、何かもう、疲れた……」
ほとんど吐息のような声で、相原が呟く。その声の響きが痛々しくて、僕はうつむいた。
「うん……」
とりあえず頷くが、その後が続かない。こういうときって、何を言えば良いんだろう。どう言うのが正解なんだろう。正解なんてあるんだろうか。
考え込んでいたら、相原はゆっくりと僕から離れた。
「……家に連絡せんと」
相原はそう言いながらフラフラと居間に入り、ソファに倒れ込んだ。
僕は台所の冷蔵庫から、麦茶のボトルを取り出した。コップふたつと一緒に、居間のテーブルに置く。相原はソファにうつぶせに寝転んで、携帯でメールを打っているようだった。
「タイミングよく、おかんから『吉川くんとこ行ってんの? 帰って来るん?』ってメール来てた」
携帯のパタンと閉じ、相原は仰向けになった。
「すごいな、おかん。エスパーやな」
そう返事をしながら、僕は麦茶を注ぐ。相原、と声をかけてコップを彼の方に押しやると、相原は身体を起こした。そのまま彼はコップを掴み、一気に麦茶を飲み干した。相原にお茶を注ぎ足してから、僕も一気にコップを空にした。
「麦茶うめえ」
二杯目も一気に飲んでから、相原は呟いた。僕も今、全く同じことを考えていた。麦茶うめえ。暑い日に飲む冷えた麦茶って、何でこんなに美味いんだろう。……こういう些細なことが、僕たちを異常な世界から日常へと帰してくれる気がした。
「な、うめえな」
頷いて、自分のコップにおかわりを注いだ。
「吉川」
「うん?」
相原の呼びかけに、僕は視線を上げた。彼は真面目な顔をして、僕のことを真っ直ぐに見つめていた。
「今日は、どうもありがとうございました」
相原は、深々と頭を下げた。やけに丁寧な口調と動作に、僕は戸惑ってしまう。
「え、そんなん全然……ていうか、何で敬語なん」
「いや、ちゃんとお礼言っとかんと、と思って」
「ええのに、そんなん」
「ううん。ほんまに、助かった」
改めて言われると、何だか恥ずかしくて落ち着かなくなってくる。
「吉川がいてくれへんかったら、どうなってたんやろうって思う」
「そ、そうか、なあ」
「そんで、突然やねんけど」
「うん?」
「寝ていい?」
「はい?」
聞き返したときにはもう、相原はソファに横になっていた。そのまま、全く動かなくなる。
「……えっ、ほんまに寝てんの?」
僕は目をぱちぱちさせながら、相原の顔を覗き込んだ。彼の両目はしっかり閉じていて、胸が規則正しく上下していた。薄く開いた口の隙間から、微かに寝息が聞こえる。本当に寝ているようだった。
「寝るん、早っ」
寝る、と宣言してから五秒と経っていない。あまりの早さに、びっくりしてしまった。今までずっと張り詰めていたのが、ここに来て緊張の糸が切れたのだろうか。
相原、頑張ったもんなあ……。
ソファの側に座って、相原の寝顔を見つめる。初めて見る寝顔は、普段よりも幼く感じられて可愛かった。無防備なその顔をしばらく見ている内に、欠伸が口を突いて出た。急に、身体が重くなる。僕も、今日の疲れが一気に押し寄せてきたみたいだった。
あかん、眠い。おれも寝よう。
僕はよれよれと立ち上がり、自分の部屋からタオルケットを二枚取ってきた。一枚を相原にかけ、もう一枚は自分がかぶってソファ近くの床で丸くなる。関節が少し痛かったけれど、相原の側で寝たかったのだ。
目を閉じたら、すぐに眠りがやってきた。
寝入る瞬間に、今日のことを夢に見るかな、と思ったけれど何の夢も見なかった。僕は、どっぷりと眠った。
翌朝目を覚ますと、相原はまだ寝ていた。彼よりも先に起きるのが初めてだったので、少し気分が良くなった。時計を見ると、午前七時。早い……けれど、確か昨日寝たのが夜の七時くらいだったから、随分ぐっすりと眠ってしまっていたようだ。
僕は起き上がって、肩を回した。床で寝ると、流石に全身が痛い。軋む関節をほぐすように軽くストレッチをしている内に、昨日風呂に入っていなかったことを思い出したので、シャワーを浴びることにした。ぬるめのお湯を頭から浴びると、寝起きでぼんやりとしていた頭が、だんだんはっきりしてくる。
タオルで頭を拭きながら居間に戻ると、相原も起き上がっていた。
「おはよー。シャワー浴びる?」
声をかけると、相原は大きく伸びをして、「うん、浴びる」と頷いた。相変わらず、彼の寝起きはしゃっきりしている。
「あー、何か、めっちゃ腹減った」
浴室の方に歩き出しながら、相原が腹に手を当てる。僕も、激しく空腹を覚えていた。
「そういえば吉川、今日、何の日か覚えてる?」
相原は足を止めて振り返り、そんなことを言った。
「え、何かあった?」
僕は首をひねって、壁に掛かっているカレンダーを見た。今日は八月の三日。夏休みはまだまだ残っている。予定は、特には思い当たらなかった。
「今日は、吉川が親に電話する日やで」
言われた瞬間に、思い出した。そうだ。そうだった。そんな話をしていたんだった。昨日があまりにも急展開すぎて、すっかり忘れていた。というか、相原はよく覚えてたな、と感心してしまう。
「そ、そうやった、なあ」
歯切れの悪い返事を返しながら、タオルで頭をがしがしと拭いた。
「……ほんまに今日、電話すんの?」
まるで人ごとのように、僕は尋ねた。何せ、昨日あんなことがあったので、頭が全部そっちに持って行かれてしまっていて、自分のことなんて考えられなかった。心の準備だって、全く出来ていない。
「うん、約束したやろ?」
相原は、有無を言わせぬ口調で言って、頷いた。 もしかしたら彼は、約束や予定をきちんとこなすことで、早く日常に戻ろうとしているのかもしれない。なんとなく、そんな気がした。
「せ、せやんな。約束したもんな。うん」
僕は自分に言い聞かせるように、うんうん、と何度も頷いた。相原ときちんと約束したのだから、僕も頑張らなければ。いつまでも逃げてばかりではいけない。うん。
「じゃあ吉川、何時くらいに電話する?」
「うーん、朝は忙しいやろうから、昼かな」
「ん、じゃあ、昼な」
そう言って、相原は笑った。いつもの、相原の笑顔だった。この笑顔を、随分久し振りに見た気がする。昨日からずっと、相原の悲痛な表情ばかりを見てきた。もう、彼のあんな顔は見たくない。奥歯を噛みしめながら、僕も笑った。
……で、昼。
僕は携帯電話を前にして、深呼吸を繰り返した。吸って吐いてを一回するごとに、心拍数が上がっていく。
「吉川、準備運動長いぞー」
僕のすぐ側で、相原が野次を飛ばしてくる。
「準備運動しっかりしとかんと、心臓麻痺起こしたりするやんけ」
僕は言って、もう一度深呼吸をした。内臓が全部、せり上がってくるような感じがする。
「プールかよ」
相原が笑う。それで、ほんの少しだけ心臓が落ち着いた。僕にとっては相原の笑顔が、何よりも効く薬だ。
「……よし」
意を決して、携帯電話を手にした。すると相原が、こちらに向かって手をひらひらさせた。
「手、握っとく?」
一瞬迷ったが、僕は相原の手を取った。相原は笑って、繋いだ手を軽く揺すった。ひとりじゃないという実感が湧いて、何だか安心する。だけど携帯電話に相対したら、またドキドキしてきた。
喉から出そうになる心臓を押し戻すように、僕は唾を飲み込んだ。ごくり、とやけに大きな音が響いた。相原にも聞こえたかもしれない。かっこ悪いな、と思った。だけど彼は何も言わず、僕の左手を両手で包むようにして握ってくれている。昨日はぞっとするほど冷たかった相原の手が、今日は少しだけ暖かく感じた。
僕は色んなことを思い出した。相原は昨日この手で、血の着いた包丁を洗って、香織ちゃんの頬を打って、拠り所を探すように僕の手を握った。
昨日、相原は頑張った。物凄く頑張った。今日は僕が頑張る番だ。
僕は、ゆっくりとボタンを押して、父親の携帯に電話をかけた。プルルルル、とコール音が聞こえ出した瞬間、心臓と脳が震えて急に恐ろしくなってきた。そういえば僕は未だに三者面談の話を両親にしていないし、夏休みに入ってからは父からの電話も無視し続けてきた。怒られるだろうか。いや、もしかしたら、電話に出てくれないかも。
プルルルル、と五回目のコール音が鳴った。時計を見上げる。昼の十二時半。今は昼休みのはずだ。プルルルル。出ない。あんなに電話するのを嫌がっていた癖に、いざ出ないとなると、不安になってくる。着信に気付いていないだけなのか、もう僕に愛想を尽かしてしまったのか。
相原の手を確かめるように、握りしめる。相原は無言で握り返してくれた。
『……もしもし? 四郎?』
出た!
僕は息を吐き出した。出た。良かった、出てくれた。
「あ、お、おとーさん?」
緊張でカサカサになった喉から、懸命に声を絞り出した。
『お前、なんちゅうタイミングで……』
おとんの言葉の後半は、ガサガサガリガリ、という雑音でかき消された。どうやら、外にいるようだった。
「タイミング? ていうかおとーさん、今何処にいんの?」
尋ねると、やや気まずそうな声が返って来た。
『いや……新大阪駅やねんけど』
予想外の言葉に、僕は言葉を失った。
え、だっておとーさん、博多に転勤になって、それで今、新大阪に、って、えっ?
えっ? ええっ?
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