■きみが涙を流すなら 44■


 助けて、と聞こえた。誠くん、助けて。

  香織ちゃんの身に何があったのか。僕は、脳みそが激しく揺さぶられ、足下がぶわぶわと波打つような感覚に襲われた。

「な、何……何や、どうしてん!」

 相原は立ち上がりながら、電話機に食らいつく勢いで怒鳴った。受話器からはまた、香織ちゃんの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。しかし今度は、その内容までは聞き取れなかった。

「お前、今何処に……え? は? 何?」

 相原は眉を寄せて、電話を耳に強く押し当てた。香織ちゃんが、何かを喋っている気配がする。

「……うん、うん。分かったから、すぐ行くから、だから今おる場所を……えっ、なんて?」

 相原は声のボリュームを大きくした。受話器から漏れる、取り乱したような香織ちゃんの声のボリュームも大きくなる。随分と聞き取りづらいようで、彼は目を細めて「うん、うん」と何度も頷きながら、懸命に言葉を拾おうとしているみたいだった。

「今、家か? 家やねんな? そんで、お前は大丈夫なんか……あっ!」

 相原は声を挙げ、呆然と携帯を見つめた。

「……切れた」

「あ、相原……っ、香織ちゃん、何て……」

「全然分からん。何かもうとにかく、誠くん助けて、早く来て、ってそればっかり……。ごめん、おれちょっと行くわ」

 そう言って走り出そうとする相原の背中に、「ちょ、待って!」と声をかける。

「お、おれも、行く」

 僕は相原にそう告げた。何があるか分からないのに、相原一人に行かせてここで待っているなんて出来ない。

  香織ちゃんは家にいると言っていた。泥棒? 強盗? あ、もしかして……浩一さんが言っていたストーカーが乗り込んできたとか? 嫌な想像は尽きない。僕は震え上がった。心臓が潰れそうだ。

「いや、もしかしたら危ないかも分からん、し」

 相原はふらふらと首を横に振った。僕でさえ心配で恐ろしくてたまらないのだから、家族である相原の心境は察するにあまりある。いくら香織ちゃんが彼の鬼門であっても、彼女は相原の妹なのだ。

「それやったら余計に、一人で行かん方が!」

 僕は無意識の内に、相原の腕を掴んでいた。相原が危ない目に遭うのだけは、絶対に嫌だ。

 相原は一瞬だけ迷うような素振りを見せたが、すぐに「そんなら」と頷いてくれた。僕はほっとした。



 そういう訳で僕たちは、足をもつれさせながら駅まで走った。体育の授業でもこんなに真剣に走らないぞ、というくらいに本気で走った。電車に乗り込むときも全力疾走で、周りの乗客たちは、凄い形相で電車に駆け込んで来てゼエハア言う男たちを不審そうな目で眺めていた。

 電車が動き出して呼吸が整っても、僕たちは口を開かなかった。僕はひたすら、電車のドアが閉まる遅さや、途中の駅で止まることにイライラしていた。何で止まんねん。相原の家までチョクで行けや!

 理不尽な苛立ちであることは重々承知しているが、そう思わずにはいられなかった。だってこのドアの開閉や停車のタイムロスで香織ちゃんの元に到着するのが遅れ、最悪の事態になったらどうする?

 相原はずっと、香織ちゃんと連絡を取ろうとしていた。彼女の携帯にかけ、自宅の電話にかけ……を繰り返すが、誰も出ない。相原はぐっと眉間にしわを寄せ、諦めずにリダイアルし続けていた。

 香織ちゃんは大丈夫だろうか。命が無事でも、強姦なんかされてたら最悪だ。こういうときこそ僕がしっかりしていなければならないのに、頭の中がぐちゃぐちゃのドロドロで思うように働いてくれない。吉川四郎の役立たずめ!



 そしてやっと、やっと相原家の最寄り駅に着いた。僕たちは扉が開ききるのも待てず、身体を斜めにしてホームに飛び出した。階段を二段飛ばしで駆け下り、改札もダッシュで抜けて全速力で相原の家に向かう。

 相原の家は、いつだったか泊まりに来たときと同じく静かに佇んでいた。パトカーが来ていたり、近所の人が集まって来ていることもない。

  パトカー。
  そういえば、警察に連絡しておいた方が良かったんじゃないか。

  そう思ったところで、相原がこちらを振り返った。何だか久し振りに、彼と目を合わせた気がする。

「中見て来るから、吉川はちょっとここで待っとって」

「あ、う、うん」

 僕が頷くのを見て、相原は家の中に走って行った。僕はその場にしゃがみ込んで、しばらくの間、盛大に咳き込んだ。心臓がじゃんじゃんがんがん鳴っているし、息が苦しい。死にそうだ。真夏の昼間にこれだけ走ったのだから、そうなるに決まっている。

 胸を押さえながら、よろよろと立ち上がる。相原と香織ちゃんは大丈夫だろうか。ここで待っててと言われたが、あんまり遅いようなら僕も中に入ろう。というか、今すぐにでも踏み込みたくてしょうがない。

 そう思っていたら、玄関のドアが薄く開いた。

「よ、よしか、わ……」

 相原の細い声が聞こえる。僕は扉に飛びついた。

「相原! 大丈夫か!」

 ゆっくりと、内側から扉が開いた。そこに、真っ青な顔をした相原が立っている。

「おれは大丈夫、やねんけ、ど……。ちょっと、中、入って」

 おれは、ってどういうことや、香織ちゃんはっ?

 不穏な気配に怯えつつも、僕は中に足を踏み入れた。その瞬間、家の奥から女性の泣き声が聞こえて来て、びくっと全身を震わせた。

「あ、あれって……香織ちゃん……?」

 相原は、青い顔のまま頷いた。

「リビングにおんねんけど……何かちょっと、大変なことに……」

「大変って、どういう……香織ちゃん、大丈夫なん?」

「香織も、大丈夫……なんか、な、あれは」

 相原も混乱しているようで、視線が奇妙な揺れ方をしている。

「相原、相原! しっかりしてくれ!」

 僕は相原の身体を強く揺さぶった。そうしたら彼は、ハッと目が覚めたような表情になった。

「……ごめん、おれは大丈夫やから」

 相原はまだ青ざめてはいるが、先程よりはしっかりした口調で言ったので、少しだけほっとした。

「リビングやんな。おれが行っても大丈夫か?」

 尋ねると、相原は頷いた。僕は泣き声が聞こえる方に向かって歩いた。リビングへと続く引き戸は開いている。その入り口に立って部屋の中を視界に入れた瞬間、僕の身体は凝固した。

 リビングの中は、控え目に言っても酷い有様だった。テーブルとソファが引っくり返り、割れた花瓶の破片が床に散らばっている。

 部屋の真ん中、倒れたテーブルのすぐ側で、香織ちゃんがうずくまって泣いていた。白地に赤い模様が入ったキャミソールの肩紐が二の腕までずれていて、彼女がしゃくり上げる度にその紐もひくひくと動く。

  そして香織ちゃんの傍らに……浩一さんが横たわっているのが見えた。僕の全身を濡らしていた汗が全て引っ込んだ。

「こ、浩一さん!」

 僕は慌てて、室内に入った。浩一さんは僕の呼びかけには反応せず、目を閉じてじっとしている。

 え、な、ちょっと待って、嘘やろ!?

 僕は、浩一さんの側にしゃがみ込んだ。

 浩一さんは白いシャツを来ていて、そこには赤い線と点がランダムに散っている。血。これは血だ。僕は反射的に香織ちゃんの方を見た。彼女の白いキャミソール。模様だと思っていた赤も、血、だ。

「な、相原、ま、まさか……」

 僕のすぐ近くに立っていた相原を見上げると、彼は固い表情でぶんぶんと首を振った。

「脈はある、から、生きてる」

 その一言に、僕は息を吐き出した。それから僕も念のため、浩一さんの首筋に指を当ててみた。暖かい。それに、ちゃんと脈打っているのが感じられる。良かった……!

「包丁があった」

 ほっとしたのも束の間、相原の言葉にまた僕の心臓は止まりそうになった。

「危ないから、向こうにどかしたけど……血がついてた」

 そう言って相原は、リビングの向こう、ダイニングと台所の方を指さした。見るとそこもめちゃくちゃになっていた。香織ちゃんと浩一さんが揉み合ってこうなった、んだろうか。それで、香織ちゃんが浩一さんを?

「お兄ちゃん……」

 涙で波打った、香織ちゃんの声が聞こえた。香織ちゃんが、ゆっくりと顔を上げる。見ると、彼女の手も頬も血でところどころ汚れていた。僕はぞっとした。

  香織ちゃんの第一印象は、普通の女の子だった。なのに今の彼女には、その面影は何処にもない。髪の毛も服装も乱れ、真っ赤に腫れた目は虚ろで、どこを見ているのか分からない。僕や相原が近くにいるということにも、気が付いているかどうか。

 半ば呆然と香織ちゃんを見つめてから、僕はぶんぶんと頭を横に振った。それよりも今は、やることがある。

「相原。とりあえず、救急車呼んだ方が」

 大量出血している様子はなさそうだけど、もしかしたら浩一さんは、頭を打ってるかもしれない。僕がそう言うと相原は、「そ、そうやな」と言って携帯電話を取り出した。そしてそれを開いたところで何かに思い当たったようで、不安そうにこちらを見た。

「……救急車呼んだら、警察呼ばれる、かな」

 僕はウッとなった。めちゃくちゃになった室内に、血で濡れた包丁。こんな状況では、どうやったって警察に連絡が行ってしまう。そうしたら、相原おかんやおとんにも知られてしまう。もしかしたら、相原が両親には絶対に隠そうとしていたあの秘密も、彼らの知るところになってしまうかも。

 僕たちはしばし、視線を合わせたまま固まった。そうしたら下方向から白い手がにゅっと伸びてきて、携帯電話を持った相原の腕を掴んだ。急に出て来た手に驚いて、僕は悲鳴をあげそうになった。

 それは浩一さんだった。薄く目を開いて、身体をずらすようにしながらゆっくりと起き上がる。

「お前ら、何やってんねん……」

 掠れた声で言ってから、浩一さんは顔をしかめて後ろ頭に手をやった。

「あ、兄貴、動かん方が」

「お兄ちゃん!」

 相原の声をかき消す勢いで、香織ちゃんが叫び声をあげた。そのまま抱きつこうとするのを、浩一さんが両手で押しのける。彼女を突き飛ばすようにして、浩一さんは香織ちゃんと距離を取った。香織ちゃんは傷ついたように浩一さんを見て、また声をあげて泣き出してしまった。

 僕は、香織ちゃんと浩一さんを交互に見た。ここに来て初めて、彼女は本当に浩一さんが好きなんだということを実感した。「香織はどうしようもない」という、浩一さんの言葉が脳裏に蘇る。

「……香織、こっち来い」

 相原はそう言って、香織ちゃんの手を掴んで立ち上がらせた。香織ちゃんは「いやあ!」と叫んで相原の手をふりほどこうとする。

「ちょっとこいつ、落ち着かせてくる。吉川、兄貴のこと頼むわ」

「お、おう」

 相原は香織ちゃんを半ば引きずるようにして、リビングから出て行った。