■きみが涙を流すなら 45■


 香織ちゃんと相原がいなくなって、浩一さんとふたりになった。

  兄貴のことを頼む、と言われたが僕はまだ頭が混乱していた。手当て、手当てをしなければと思うのだが、手順がすぐに出て来ない。ええと、包帯? いやその前に、血をなんとかしないと。

  浩一さんは片膝を立てて座り、後ろ頭をさすった。その拍子に浩一さんの手の甲から血が床にぼたりと垂れ、僕は息を呑み込んだ。

「だ、大丈夫……です、か」

 僕は恐る恐る尋ねた。起き上がれるくらいだから、そんなに大したことはない……のだろうか。そうだと思いたい。正直なところ、浩一さんのことを直視することが出来なくて、彼の怪我がどの程度のものなのか、よく分かっていなかった。

「ああ」

 短い返事が返ってくる。それから浩一さんは眉間に手を当てて、「眼鏡……」と呟いた。そういえば、浩一さんは眼鏡をかけていない。周りを見回してみるが、床には学校からもらったプリントやら、中身がぶちまけられたクッキー缶やら、DVDなんかが散乱していて、とてもじゃないけれど捜し物なんて出来るような状況じゃない。

「あの、服とかに血がついてるんすけど……そっちの方、は」

「ああ……何処切られたっけな」

 切られた、という言葉に僕は唾を呑み込んだ。浩一さんは無表情で、何を考えているのか全く読めない。こんなことになって平気なはずはないだろうから、本当に感情が表に出ない人だ。

 浩一さんは、手の甲を上にして自分の両手を眺めた。左手が全体的に赤くて、傷口がよく見えないけれど、酷そうだ。右の手の甲には、細かい傷がいくつかあった。あ、左腕も切れてる。でかいアザも両腕に出来ている。浩一さんの手と腕を濡らす赤が生々しい。

  僕は少し気分が悪くなって、奥歯を噛み締めた。しっかりしろ、吉川四郎。血にびびってる場合じゃない。

「え、ええと……傷のある部分を、心臓より高い位置に上げるんでしたっけ」

 僕は恐る恐る浩一さんの手を取って、持ち上げた。ぬる、という感触がして思わず手を引っ込めそうになるのを、どうにか我慢する。

「びょ、病院。病院行かないとヤバイ……っすよね」

 僕がそう言うと、浩一さんは首を横に振って「いい」と言った。

「指も手首もちゃんと動くし、見た目ほどは酷くないと思う」

「でも……」

 言いかけて、僕は口を閉じた。大事にしたくない、という相原と浩一さんの気持ちはよく分かるので、あまり強くは言えない。

「……どっかに救急箱、落ちてへんかな。あと、洗面所からタオル持って来てくれたら嬉しい」

「あ、はい!」

 僕は勢いよく立ち上がり、リビングを出た。階上から香織ちゃんの泣き声と、その合間から相原の声が聞こえてくる。香織ちゃんはまだ興奮しているようだった。相原は大丈夫だろうか。僕は心配になって、天井を見つめた。だけどすぐに自分の目的を思い出し、小走りで洗面所に向かう。

  洗面所からタオルを数枚持ち出し、リビングに戻って来た。その時に、部屋の隅に転がる救急箱も見付けた。幸い、留め金がきちんと嵌っていたので、中身は散っていなかった。

「あの、何があったんですか……?」

 びくつきながら傷口をタオルで拭い、僕は尋ねた。相原おかんが洗濯したのであろう白い清潔なタオルが、赤くなっていくことに激しく罪悪感を覚えてしまう。

「香織に別れ話を切り出したら、えらいキレて暴れ出して……」

 浩一さんは、思い出すように遠くを見ながら話し出した。

「それで、何があったかな……。そうそう、あいつが包丁持ち出したから、取り上げようとして……そんときにこの辺が切れたんやな、多分」

 浩一さんは、左の手の甲をじっと見つめた。

「で、揉み合ってる内に転んで頭打ったかなんかして、失神しとったみたい」

 淡々とした彼は口調で言うが、僕は改めて寒気を覚えた。本当に、こんなことが起きてしまったんだと思うと、体温がどんどん下がってくる。

「かすっただけやから、ほんまにそんな酷くない。揉み合ってるときに傷口がこすれて、血が広がって見えただけで。ほら」

 そう言って浩一さんは、血を拭い終えた手の甲をこちらに見せた。僕はウッとなった。確かに深い傷はないようだけど、如何せん数が多い。傷口を七まで数えたところで、僕は目をそらした。しかもこれはただの傷じゃない。自分の妹につけられた傷だ。そう考えると、胃がギュッと重たくなる。

「そんで吉川くんは、何でここにおんの」

「あ、香織ちゃんから相原に、助けて、って電話がかかって来て……」

 そこまで言ったところで、階上から怒声が聞こえてきた。次いで、バタバタと階段を駆け下りる音。

「おい! 待てや香織!」

「うっさいわ! 何よ何よ誠くんのアホ!」

「ああっ? 何やとコラァ!」

 今まで聞いたことのない相原の声に、僕は身体をすくませた。マジギレだ。これはきっと、相原のマジギレなんだ。め、めっちゃ怖いんですけど。

「何でそんなこと言われんとあかんの! 誠くんに何が分かるん! ただ好きなだけやんか!」

「……っ、この……アホ!」

 バシッ、という音が響いた。次いで、「きゃあ!」という香織ちゃんの悲鳴。

 え、もしかして相原、殴った?

 僕は驚いて、ついついリビングの戸を開けて廊下の様子を窺った。

 一番最初に相原の背中が見えた。拳を握りしめて、肩で息をしている。その向こうに、へたりこむ香織ちゃんが見える。彼女の頬は腫れていた。だけど、ほんの少しだ。相原はちゃんと手加減したんだと思ってほっとした。

「親父とお袋のこと考えろや! 自分の息子と娘がやってるなんて知ったら、どんな気持ちになる思ってんねん!」

 相原のこの言葉が覿面に効いたようで、香織ちゃんの表情が大きく歪んだ。彼女の全身から迸っていた、怒気というか半ば狂気に近いオーラが、一瞬で引っ込んだように見えた。

「そんなん……」

 彼女はうつむき、弱々しい声で言った。

「そんなん、誠くんに言われんでも分かってるもん……。自分がどんだけ最低で異常かって、分かってる、もん……」

 香織ちゃんはよろよろと立ち上がった。おぼつかない足取りで相原の横をすり抜け、リビングの戸口に立つ。そしてぼんやりとした目で、浩一さんを見つめた。僕のことは全く見えていないようだった。

「お兄ちゃん」

 掠れた声で、浩一さんを呼ぶ。浩一さんも、彼女を見る。

「お兄ちゃん……。誠くんが叩いた……」

「……ああ、しょうがないな」

 浩一さんは無表情に頷いた。香織ちゃんは、彼に突き飛ばされたときと同じ、傷ついたような顔をした。

「何でよお……」

 そのまま何度かしゃくり上げ、彼女はふらつきながら今度は階段の方に向かう。

「何処行くねん」

 相原の呼びかけに、彼女は短く「部屋」と答えた。相原が追いかけようとすると、

「来んといて」

 と、尖った声を出す。

「一人で考える」

「……お前、変なこと考えんなよ」

「変なことって何よ」

 そう言って、香織ちゃんは相原の方を振り返った。その目には一転して強い光が灯っていて、僕は少し怯んでしまった。

「自殺やったら、せえへんわよ。死んだら全部無しになるやんか。お兄ちゃんを好きになったことも、全部」

 彼女は吐き捨てるように言って、階段を駆け上がった。それからすぐに、バアン、とドアを叩きつけるように閉める音が階下まで聞こえてきた。

「……何やねん……」

 相原は天井を見上げて、押し殺した声で呟いた。それからこちらに向き直り、リビングの中に入って来る。

「兄貴、は」

 相原は、僕に向かってそう言った。

「あ……うん。今、血を拭いたとこやから……ええと、次は消毒?」

 僕は慌てて救急箱の中をガサガサと漁った。底の方にマキロンが転がっているのを見付けたが、こんなんで良いんだろうか。とにかく僕は、そのマキロンを傷口に振りかけた。適量がよく分からない。足りないよりは多い方が良いだろう多分、ということで沢山振りまくった。

「……うわ。結構酷いやんか」

 浩一さんの傷を覗き込み、相原は顔をしかめる。

「つうか……何でこんなことなっとんねん……」

 怒りを含んだ声で、相原は言った。浩一さんは目を閉じて、「ごめん」と短く言った。それに、相原が爆発した。

「お前、ちゃんと別れるって言うたやんけ! 香織の目を覚まさせる、って! それやのに、何やねん、これは!」

 相原の叫びが、耳に突き刺さる。昨日の話し合いのときも、これくらい爆発したかったんじゃないか、と僕は思った。やっぱり人前だったから、かなり我慢してたのかも。

 浩一さんは返す言葉もないのか、じっと黙っている。

「何か言えや!」

 そう言って相原が浩一さんに殴りかかろうとするので、僕は慌てて止めに入った。

「あ、相原! 気持ちは分かるけど、浩一さん怪我してんねんから今はあかんって!」

 二人の間に入って、浩一さんの胸ぐらをつかもうとする相原を、どうにか押し戻そうとする。

「それに今は、この状況を何とかする方が先やって! どうにかして、おとんとおかんにバレんようにせんとあかんやん!」

 そう言うと、相原の身体がぎくっと固まった。そして僕も、自分で言ってから初めて気が付いた。そうだ。それがあった。浩一さんの手当てをして終わりじゃないんだ。

「そういえば……、おかんって、いつ頃帰って来るん。おとんはいつものように遅いとしても、おかんは普通に帰って来る……よな……?」

 呆然とした声で、相原が言った。浩一さんは眉間にしわを寄せ、「……夕方には帰って来ると思う」と低く呟いた。

「夕方……」

 僕は壁にかかった時計を見た。現在の時刻は四時。夕方って何時だ。むしろ、もう既に夕方なんじゃないか。

「と、とにかく、帰って来るまでに部屋をなんとかして……」

 そう言いながら、僕はリビングを見渡した。室内は空き巣にでも入られたのか、ってくらいに荒れている。もしかしたら浩一さんが気を失っている間に、パニックになった香織ちゃんが暴れたのかも。この状態を元通りにするのに、一体どれくらいの時間がかかるのだろう。しかも、おそらく普段この部屋を管理しているであろう相原おかんに、何かがあったことを悟られないように、完璧に片付けなければならないのである。

 僕は絶望的な気分になった。だって、無理だ。どう考えても、無理だ。

「……誠。とりあえず、包丁だけでも洗って来てくれ」

 浩一さんは、そう言って目で台所の方を示した。相原は一瞬躊躇したが、やがて「う、うん」と頷いて台所に走った。そして今度は、浩一さんは僕の方に向き直った。

「吉川くん。申し訳ないけど適当でいいから、包帯巻いてくれるか。傷を隠さんと」

「あ、は、はい」

 僕は急いで、救急箱から包帯とガーゼを取り出した。

「何事もなかったように……って、無理、ですよね」

 包帯なんて使ったことがない。だけどとにかく早くしないと、と思って僕は浩一さんの手に包帯をぐるぐる巻き付けた。

「無理やろな」

 浩一さんが言うと同時に、台所から水音が聞こえてきた。相原が、血の着いた包丁を洗っている音だ。そう思うと、気が遠くなりそうになった。胃の辺りがぐるぐるして気持ち悪い。見ると、今まで気が付かなかったが、浩一さんも随分具合が悪そうだった。

「あの……大丈夫ですか。やっぱ、出血が多くて……」

「いや、そういうんじゃなくて」

 浩一さんは、ゆるゆると首を横に振った。

「妹に包丁を突きつけられて、その包丁を弟が洗って……流石に死にたくなるな」

 死、という言葉に、僕は縮み上がった。

「だ、駄目ですよそんなん……!」

「分かってるよ。そんな卑怯な逃げ方はせえへん」

 浩一さんは、息を吐きながらそう言った。僕は包帯に視線を落とす。何でこんなことに、と、そればっかりが頭のなかを駆け巡る。

「それにしても……ほんま、どうしましょう。言い訳とか、考えないとですよね……」

「言い訳、な……。年貢の納め時なんかも」

「ちょ……そ、そんなん……! そんなん」

 今まで相原が苦しんでたんは何やってん、って話になるじゃないですか……!

 そう言いたかったけれど、言葉が出て来なかった。

「……洗ったで」

 相原が、台所から戻ってきた。それとほぼ同時に、僕も包帯を巻き終えた。

「一応、元通りしまったけど……。あれ、捨てたらあかんの……」

 相原は真っ青な顔をしていた。浩一さんは、だるそうに首を振る。

「包丁が一本なくなってたら、流石に何かあったってバレるやろ」

「でも……今後、あの包丁でおかんが飯作るんかと思うと、もうおれ、飯食われへんわ……」

「……ほとんど使ってない古い包丁やから、大丈夫やろ。折を見て、下宿の友達にあげるとかなんとか言って、おれが捨てとくわ」

 ……なんて悲しい会話だろう。兄弟でこんな会話をしなければならないなんて。そう思う反面、頭の片隅で何処か冷静な自分がいて、そうか古い包丁だったから切れ味が悪くて、浩一さんの傷も浅かったんだなどと納得もしてしまった。

「うん……」

 口元に手をやりながら、相原は力なく頷いた。そして、そのときだった。

「ただいまあー!」

 玄関先から良く通る高い声が聞こえて来て、僕たち三人は身体を硬直させた。

 相原おかんが、帰って来た。