■きみが涙を流すなら 43■


 運命の八月三日……の前日、八月二日。真っ昼間。

 僕は居間のテーブルに肘をついて、懸命に明日への対策を講じていた。ソファでは相原が寝転がって、ジャンプを読んでいる。

「ああ……明日、どうしよっかなあ……」

「吉川、さっきからそれしか言ってへんやん」

 呟くと、相原につっこまれた。確かにその通りだ。多分、十回くらいは「明日どうしよっかな」を口にしている。今日は朝からそのことについて考えているのに、全く前に進まない。

「まず、さ。何て言って切り出したら良いかが分からんやん」

 僕はぼんやりと、窓の外を見た。ジイイーミミミという蝉たちの大合唱と、近所の工事現場の音が混ざり合って、物凄い騒音だった。クーラーのために窓を閉め切っていても、まだうるさい。

「そこはもう、吉川の素で喋ればいいんちゃうん。こっちが構えたらさ、向こうも構えるやん。だから、楽に行こうで」

「……素で。楽な感じで」

 相原の言葉にひとつずつ確認して頷いたら、彼は笑い出した。

「その顔が、既にガチガチやっちゅうねん!」

 お前も昨日はガチガチやったやんけ! と思ったけれど、口には出さなかった。

今日の相原は、百パーセントいつもの相原だ。「やっぱまだ色々思うことはあるけど、言いたいこと全部言って一晩寝たらかなりスッキリした」と、僕ん家に来たときに言っていた。そういう言葉を聞くと、とてもホッとするし嬉しくもなる。

 僕も言いたいことを全部言ったら、そんな風にスッキリ出来るだろうか。だけど、相原家と違って吉川家の場合、家族崩壊の原因を作ったのは僕だ。ことの元凶である僕が、すっきりして良いものなのだろうか……。

「……相原さあ、昨日、家はどんな感じやったん」

 煮詰まってきた僕は、話題を変えることにした。相原は、「おれんち?」と聞き返してから身体を起こし、傍らにジャンプを置いた。

「めっちゃ普通」

 あっさりと返って来た。普通。普通か。僕はその言葉を、心の中で幾度となく反芻した。普通。何気ない言葉だが、家庭に問題を抱える人間にとってはこの上なく尊い言葉だ。

「浩一さんは?」

「んー、基本的におれと兄貴、そんな喋らんからなあ。昨日もそんな……ああ、お前によろしく言うとってくれ、って。そんだけ喋った」

「そっか……」

 そういえば浩一さんも、僕と相原が付き合うことに関しては、何も言っていなかったな……ということを思い出した。弟が男と付き合っていると知っても、あの無表情。全くもって、相原家の人間はどうなっているのだろう。家族総出で度量が大きすぎる。

「でもなー、おかんがちょっとウザいわ。二人になったら、すぐ小声で吉川くんはどうなん大丈夫なん、ってしつこいねん。もうええっちゅうねんな」

 相原は本気で面倒くさそうに言った。僕は恥ずかしいやらいたたまれないやらで、そっと顔を伏せた。

「そ……そっか……」

  次に相原おかんに会うとき、どんな顔すればいいのか。本気で困る。理解してもらって心から嬉しいし感動もしているけれど、相手の両親に全部知られているというのは、やっぱり恐ろしく恥ずかしい。

「そんじゃ……香織ちゃん、は?」

「めっちゃ普通」

 相原はそう言って、やや表情を引き締めた。

「……おれと兄貴が水面下で話したことなんか全然知らんねんやろな、って思ったら、何か微妙な気持ちになるわ」

「ああ……香織ちゃんだけ、何も知らんねんもんな……」

「ほんまに、全然知らんのかな。女の方が勘が働く、って言うやん」

「でも、恋は盲目とも言うし。浩一さん以外のこと、考えられへんのかも」

 僕の言葉に、相原は一瞬身震いした。嫌なことを思い出させてしまったか、と僕は焦った。

「ご、ごめん! 言い方が悪かった」

 慌てて謝ると、相原は腕をさすりながら首を横に振った。

「いや、ちゃうねん。それは全然良いねん。ほんまに、香織は盲目なんやろうし。それは分かってんねんけど。やっぱいつまでも慣れんなあ、と思って」

 そう言って相原は、苦笑いする。その背後に自分の両親の姿が見えるようで、胃がズドンと重くなった。ああ、駄目だ。どうしようもなく気が沈む。僕も両親には、一発くらい殴られておかなければならない。何なら二発でも、三発でも。いっそタコ殴りにされたっていい。

「……どうしたん、吉川」

「い、いや」

 僕は顔を上げた。相原と目が合う。相原はじっとこっちを見て、きゅっと眉根を寄せた。そんな表情をされると、どきっとしてしまう。

「何かまた、卑屈なこと考えてる顔や」

 僕は一瞬黙った。何でこうもあっさり見抜かれるのだろう。そんなに表情に出ているんだろうか、と手の甲で頬をごしごしこする。

「何考えてたん?」

 相原の質問に何て答えようか、僕は数十秒くらいたっぷり悩んだ。視線が定まらなくて、あちこちうろうろしてしまう。

  相原は僕を静かに見つめている。そんな彼を見て、自分が思ったことは全部相原に言ってしまおう、と決意した。

「なんていうか……結構前から、考えててんけど」

 言葉を探しながら、僕はぽつぽつと話し始めた。

「相原がさ、おれもお前も秘密を持ってるから、おれらは似てる……、みたいなことを言ってたやん」

「うん、言ったな」

「でも、おれは、それは違うと思うねん。相原が悩んでるんは、兄貴と妹が原因やろ? おれが悩んでるんは、おれが原因やしさ……」

「え? でもそれは……」

 相原はそこまで言いかけたが、

「いや、やっぱ、とりあえず吉川の話を最後まで聞くわ」

  と言って口を閉じた。僕はそんな彼に内心感謝しながら、再び口を開いた。

「だからむしろ、おれと浩一さんのが似てるかな、って思う……。人に言われへんような恋愛してるとことか、そのことで家族があかんくなってることとか」

 僕はやや早口になりながら、言った。相原は黙って聞いていてくれている。

「何ていうかさ。相原が家族のことで苦しんでるとこを見ると、ああーうちのおとんとおかんも、おれのことでそういう風に苦しんでるんや、とか……考えてしまうわけ、よ。相原が、浩一さんと香織ちゃんに向けて言う言葉が全部、おれにも向かってきてるような気がする。それに」

 この辺りでそろそろ、考えるよりも先に口が動き始めてきた。自分が何を言っているのか、口に出してから理解する。そんな感じだ。それは良くないと僕自身も分かっていて、一度止まって冷静になってから喋らないとと思うのだが、ブレーキが効かない。口が止まってくれない。

「ひ、卑屈なん分かってるけど、おれもめっちゃ家族を苦しめてんのに、そんなおれが相原と一緒におっていいんかな、とか思うし……」

 話し終わると同時に、うるさかった工事の音が止まった。周りが静かになって、僕の頭も静かになった。

  そうなると途端に、物凄い後悔が押し寄せてきた。僕はなんちゅう話をしてるんだ。こんな話、控えめに言ってもウザイだけだ。特に最後のひとことは余計だった。むしろ最悪だった。口に出しながら自分でも、うわっこいつウザッと思ったくらいだ。相原にとっては、どれだけ鬱陶しかっただろう。ああ、どうしよう。相原に愛想をつかされたらどうしよう。このままサクッと振られて、女子に乗り換えられたらどうしよう。

 身体の奥底から噴き上げる不安に耐えられず、僕はそっと相原の顔を盗み見た。

「……うん」

 相原はひとつ頷いて、明るい笑顔になった。

「そこがお前のあかんとこやんな!」

 物凄く爽やかかつ朗らかにそんなことを言われて、僕は「お、おお?」と中途半端な相槌を打った。責められているのかそうじゃないのか、よく分からない。

「んんー、何やろなあ。どう言ったらいいかなあ」

 相原は首に手を当てて、しばし考え込んだ。それからそのポーズのまま、話し始める。

「おれと、吉川のおとんおかんって、別に何も関係ないやん。なのに、何でおれとお前のおとんおかんを繋げて考えるわけ? そこが意味分からん」

「え、だって、境遇が一緒っていうか似てるっていうか……」

「同じ境遇っつっても、家族仲が上手くいってへん、ってとこだけやん。歳も職業も立場も育った環境も全然違うのに、そうそう同じ考えになんかなるかい。本人に聞いてみんと分からんやん」

 何言うてんねんお前、と呆れたような口調で言われ、僕はぽかんとしてしまった。

 僕が今話したことは、ずっとずっと考えていたことだった。時間が経つごとにガチガチに凝り固まって、頭の中に居座ったまま、いつまでも出て行ってくれなかった。それなのに相原の一言で、そいつがぐらりと揺らいだ。

「そ、そう……かな」

「そうそう。自分の想像だけで決めつけるんは、良くないぞー」

「お、おお……」

「だから、そういうの全部、おとんとおかんに聞いてみんと」

 ぐらりぐらりと頭が揺れる。よくよく考えたら、相原はごく当たり前のことを言っているだけだ。なのに僕は全くその発想に行き着かなかった。相原の言葉が、とても新鮮に響く。

 本人に聞いてみんと分からん。

 あれっ、本当だ。その通りだ。あれっ。あれっ?  僕は首をかしげた。びっくりするくらい当たり前だ。

「そう……か。そう、やんな」

 頷くと、相原は笑顔を更に明るくした。相原スマイルは、一体何処まで輝くのだろう。彼の笑顔は無敵だ。

「そうそう。何事も、本人に聞かんとな」

「そう……な」

 僕は我に返った。目が覚めたと言っても良い。一人で考えていたらループする考えや悩みも、人に話してみたら案外あっさりと無限回廊から抜け出すことが出来る、ということに目から鱗が落ちる思いだった。

 人に相談出来るってすごい。相原ってすごい。

 そして僕は急に恥ずかしくなってきて、「ご、ごめん」と小さい声で謝った。僕は卑屈な上に馬鹿だ。分かっていたけれど、改めて再認識した。

「あと、相原と一緒にいていいんかな、とかそういう話はさー、もうさー、やめようぜー」

「はい、ごめんなさい……。おれも言ってから、自分ウザイって思った……」

 死ぬほど自己嫌悪しながら僕は頭を下げた。相原は「分かったらええよ」と言って僕の肩をぽんぽんと叩いた。

「そんじゃ、分かってくれたところで、もう吉川のおとんおかんに電話しちゃおうぜ」

 相原は軽い調子で、とんでもないことを言ってきた。僕はぎょっとして、反射的に携帯電話を自分の後ろに隠した。

「えっ、な、何でそういう話になるん。明日って言ってたやん……!」

「こういうのは、その場の流れでガッとやっちゃった方がいいって」

「いやいや無理無理。心の準備が出来てへん! 今電話したら、おれ絶対固まる! 気まずい沈黙を作り出してまう!」

 必死でそう主張する僕に、相原は「大丈夫大丈夫」と笑って手を振った。何が大丈夫やねん。

「そうなったら今度は、おれが吉川の手を握ったるから」

「あ、あほか! 余計しゃべれんなるっちゅうねん!」

 僕は声を半分引っ繰り返しながら、言った。相原誠という奴は、本当に恐ろしい男だ。  

  その時、何処からか六甲颪のメドレーが高らかに流れ出し、僕はびくっと身体を震わせた。一拍おいて、ああそうだ相原の着メロだということを思い出す。

「あ、電話電話」

 相原は手を伸ばして、ソファの隅に放り出していた携帯電話を手に取る。

「相原さあ……その着メロ、何とかならんの? 毎回びっくりすんねんけど……」

「何でやねん。これ以外ないやろ、阪神ファン的には」

 そう言いながら相原は携帯を開き、「うわ」と短い声をあげた。

「あー……、妹やわ。何やろ……」

 嫌そうに顔をしかめ、のろのろとした動作で通話ボタンを押した。そして、これまたのろのろとした動作で電話を耳元に持ってくる。

「もしもし」

『誠くん!!』

 香織ちゃんの声は「絶叫」という表現がぴったりで、僕の耳にもはっきりと聞こえてきた。空気が一気に張り詰める。相原は表情を固くする。僕も身構え、息を詰めた。明らかに、何かがあったとしか思えない声だった。

『誠くん! 誠くん! 助けて!!』

 ひび割れた泣き声が、電話から漏れてきた。