■きみが涙を流すなら 36■
……で。その後、僕と相原が何をしたかと言うと。
テレビで野球見ながら飯を食った。だけ。である。
僕はとにかく浮かれきっていて、相原と一緒に野球を観ているだけで幸せで幸せで、その他のことを全く考えていなかった。阪神ファンの味方サンテレビの中継を最後まで見て、
「そんじゃ、また明日来るなー」 と言って帰宅する相原を送り出して、鼻歌交じりに風呂に入り、スポーツニュースで今日の試合をもう一度振り返ろうとテレビの前に座ったところで、
「何で、両思いになった勢いで、相原を押し倒さへんかってん……!」
ということに気付いた。そして、死ぬ程後悔した。
二〇〇三年時の優勝よりも嬉しい、などと僕が発言してしまった為、どちらからともなく「あ、もう野球始まってるんちゃう?」という話になり、そのまま何事もなくごく普通に野球観戦に移行してしまったのである。
「アホ! おれのアホ!」
僕は頭を抱えて、自分自身を罵倒した。一世一代のチャンスやったのに! 何をやっとんねん、おれは!
しかし仮に、野球を観ようという流れになる前に「この勢いで押し倒してしまえ」と考えたとして、僕は相原を押し倒すことが出来ただろうか。
「……無理やな」
僕は、自嘲気味に笑った。無理だ。この根性無しの吉川四郎に、そんなことが出来る訳がない。所詮僕は、キスすら寸前で止めてしまうチキン野郎である。……あの出来事は、僕の人生の汚点として、いつまでも心に残ることだろう。ああ、情けない。
だけど、あのときは寸止めで良かったのかもしれない。だってほら、相原だって寸止めした僕を見て、おれは吉川のことが好きなんや、って思ってくれたらしいし。
そこまで考えて、我に返る。顔に手を当ててみると、信じられないくらいにデレデレと頬がゆるみまくっていた。
「きもい! きもすぎんねん、おれは!」
僕はソファの上でもんどり打った。そんな自分も、正直気持ち悪い。一人暮らしをしていると、独白が多くなっていけない。だけどもう、今日は仕方ない。そう思うことにした。
だって、未だに信じられないけれど、そして何故なのかよく分かっていないけれど、僕の想いが叶ったのである。
僕はソファに横たわったまま、テレビ画面に視線を移した。政治ニュースを伝えるキャスターの声が、何処かふわふわして聞こえる。
相原と、ノンケの男と両思いになるなんて、物凄いことなんじゃないだろうかと、今更ながらに実感が湧いてくる。本当に、ふられるつもりだったのに。ふられたときの三ヶ条まで作って臨んでいたのに。
直後に、明日になって「ごめん、やっぱ無理やわ」とか言われたらどうしよう……などと、いつもの癖で、後ろ向き思考が胸にじわりと沸き上がってくる。
これはもう、癖というよりは日陰者の習性だ。常に悪い事態も想定して心構えと覚悟はしておかないと、落ち着かない。後で傷つくのは自分なのである。特に、相原はゲイじゃない。僕みたいに、どうしようもない訳ではないのである。だから突然、相原が彼女を作ったとしても、そこはすかさず「ふられたときの三ヶ条」だ。うん。頑張れ、おれ。
そのとき脳裏に、相原の「お前、ほんっま卑屈やなあー」という言葉が蘇り、僕は少し笑ってしまった。全くその通りだ。僕はちょっと卑屈すぎる。両想いになったその日に、ふられることを考えている僕は、一体何なんだ。今日くらいは、素直に喜ぼう。
喜ぶ。
喜ぶぞー!
僕は天井を見上げて、低い声で「あー……」と言って息を吐いた。自分でもぎょっとするくらい、暗いため息だった。
「あ、あかん……!」
僕は、起き上がった。
喜ぶぞ、と気合いを入れれば入れる程、心が闇にめり込んでいくこの感じは何だ。さっき相原と一緒にいたときは、何も考えずただ幸せだったのに。
そういえば僕という男は、初めて付き合った男がうっかり妻子持ちだった。ゲイ、不倫、相手は嫁と別れる気ゼロという、三重苦だ。だから僕は小林と付き合っている間、常に罪悪感に付きまとわれていたし、どうせ自分は不倫相手やから、という気持ちを何処かに持ち続けていた。とかく、安心という言葉から遠い恋愛だった。初めての恋愛がそんなだったから、恋愛イコール不安と罪悪感、という考えが僕の頭の中にインプットされてしまっているのかもしれない。
しかも、相原はついこないだまでノンケだったのに、僕のせいで何かこんなことになってしまってああもうそれはそれはたまらないほどの罪悪感が……。
あ、駄目だ。これは良くないパターンだ。ぐるぐるループ思考が始まりそうな予感がする。何てウザイ男なんだろう、僕は。
いやでもほんと、相原が僕のことを好きだと言ってくれた、なんて脳天気に喜んでいたけれど、相原の家庭の事情を考えると、どうなんだこれは。相原はただでさえ大きくて重い秘密を抱えているのに、またひとつ荷物が増えてしまった。
ああ、いよいよ駄目だ。これは、朝まで終わらないパターンだ。 僕は、本日の睡眠を諦めた。僕の思考の迷路は広大で難解だ。一度迷い込んだら、そうそう出ることは叶わない。
僕はテレビを消して、足を引きずり自室に戻った。ベッドに寝転び、相原にメールでも打とうかと思ったけれど、やめた。何を書いても暗くなりそうだ。
今日くらいは、気持ちよく眠りたかったなあ……。
暗澹たる気分で、僕は目を閉じた。
翌日の昼時。 相原は、いつも通りの翳りのないスマイルと共に、我が家にやって来た。
「おはよー」
「……はよー」
僕は当然のように一睡も出来なくて、憔悴しきっていた。日の光と相原の笑顔が眩しくて目が焼けそうだ。 いやはや、昨夜のは特に凄かった。なんせ明け方ぐらいには、自分が相原の両親に刺されるところまで想像が進んでいた。
「あれ、何で沈んでんの、吉川」
「いや、昨日寝るときめっちゃ色々考えてて……」
「また卑屈なことを?」
僕はぐっと喉を詰まらせた。相原は容赦ない。
「相原は、けろっとしてんなあ……」
「おう。昨日もめっちゃ寝たで。吉川は、何を卑屈ってたん」
「な、何か……、お前のおかんのこととかを思うと、胸にズシーンて来て……」
「ああ、そういうことな。あ、はい、これ」
相原は軽く頷きながら、手に持っていた紙袋を僕に差し出した。毎度おなじみ、相原おかんの手料理だ。あまりにも何でもない口調で言うので、こいつは僕の心配や不安を分かっているんだろうかと、ほんの少しだけムッとした。
しかし、「今日はカレーやで」なんて言って無邪気に笑う相原を見た瞬間、重たく垂れ下がった僕の心が、ふわんとなった。こいつに何をされても何を言われても、この笑顔一つで僕は全部許してしまいそうだ。
相原は玄関で靴を脱ぎ、居間に向かいながら僕を振り返った。
「吉川、おれの親のこと心配してんの?」
「そら、するやろ……! だってお前、親に秘密、増えるやんか……」
それを考えただけで、僕はたまらなく苦しくなる。ついため息をつくと、相原はあっさりとした口調でこう言ったのだった。
「ああ。おれ、昨日おかんに、このこと言ったで」
「はあっ!?」
相原の発言が信じられなくて、僕は口を開けたまま固まった。相原誠という男はどうしてこう、僕の想像の及ばないことばかりを言ってのけるのだろう。
「こ、このことって、男と付き合うことになった、てこと!?」
「うん、そうそう。別にそれは、隠すことちゃうしなーと思って」
「いやいやいや! おれは十年近く、親に隠してたっちゅうねん!」
「それはほら、ええと何やっけ……適材適所? ん、何か違うな。あ、十人十色か。それやん、それ」
頑張って四文字熟語を使ってみたふうの相原に、僕の胸はきゅんとなった。いや、違う。今は、ときめきは心の隅の方に寄せておこう。
「あ、相原。もしかして、相手がおれって言った?」
わななきながら、僕は尋ねた。言ってないよな、言ってないよな、と心の中で繰り返し唱える。そこをばらされたら、僕はもう、相原おかんに合わす顔がない。頼む、相原。言ってないよな? ほんま、頼む。
相原は「ああー」と言いながら首を傾けた。
「言わん方が良かった?」
「言ったんかい!」
僕は思わず、思い切り相原の背中を叩いた。一瞬、ハッしまった、と思ったけれど、いや良いんだ素で良いんだ、と自分に言い聞かせる。
「はは、言っちゃった」
相原は笑う。
言っちゃった、ってお前。
その言い方がかわいくて、僕は顔を赤くしてうつむいた。一瞬で、脳みそが煮詰められたみたいになる。駄目だ。こいつには、どうやったってかなわない。
「そ……そんで、おかんはどんな反応してたん……」
そう口にしたは良いが、聞くのが恐ろしい。否応なしに、自分の母親のことを思い出してしまう。相原おかんも、そんな反応だったらどうしようどうしよう。そのせいで、相原家が壊れてしまったらどうしようどうしよう。そうだったら僕はもう死ぬしかない、などと瞬間的にそこまで気持ちが落ち込んだ。
「吉川、吉川」
うつむく僕の肩を、相原が軽く叩く。どんよりした気分で顔を上げると、僕のいとしいあんちくしょうは、「卑屈はあかんでー」などと言って微笑んでいた。くそ、人の気も知らないで。
「順を追って説明するから、卑屈になるんは、話聞いてからにしてや」
そう言って相原は、話し始めた……。
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