■きみが涙を流すなら 37■


 相原は、午後十時すぎに帰宅した。

「ただいまー」

 と言いながら玄関に入り、そこに兄と妹の靴がないことに気が付いた。

 もしかしてあいつら、二人で出掛けてんのかな。

 そう思うと、胸にどろりとした不快感が襲ってくる。相原は、その不快感を払うように首を振ると、靴を脱ぎ捨てて家の中に入った。瞬間、カレーの匂いが鼻をくすぐる。あ、今日カレーやったんや。そう思うと、反射的に空腹を覚える。

 ダイニングを覗くと、おかんがお茶を飲みながらテレビを見ていた。

「お帰り。晩ご飯食べるん」

 ドラマを見ているらしい彼女は、テレビ画面から目を離さずにそう言った。

「食ってきた。けど、カレー食べる」

 ダイニングの中に入って自分の定位置に腰を下ろすと、おかんは露骨に嫌そうな顔をした。

「ええー、もう、何回ご飯食べるねんな」

 そう言いながらも、おかんは立ち上がって台所に向かい、カレーの鍋を火にかける。相原は待つ間、さして興味もないドラマをぼんやりと眺めた。

「ご飯、また吉川くんのとこで食べて来たん」

 台所からのおかんの声に、「おー」と返事をする。

「吉川くんも大変やねんから、あんまし入り浸ったらあかんで」

「おー」

 今後も吉川の家に入り浸る気満々であったが、とりあえず頷いておいた。そうしたら丸い肩越しに、おかんが睨んでくる。

「誠、気のない返事せえへんのよ」

「あーい」

 おかんは、諦めたようにため息をついた。


 しばらくして、おかんはテーブルの上に山盛りのカレーを置いた。思わず相原がぎょっとする程の量だった。

「え、晩飯食ったって言ったのに、更にこんだけ食えって?」

「食べるやろ、そんくらい」

「うんまあ、食べるけど」

 いただきます、と言ってスプーンを手に取った。おかんも椅子に座り、コップに残っていた麦茶を一気に飲む。

「……あのさあ、誠」

 おかんはコップを置き、やや神妙な調子で尋ねて来た。

「うん?」

「吉川くんて、何でご両親と離れて暮らしてはんの?」

「ああ」

 相原は、ジャガイモを咀嚼しながらしばし考えた。おかんが、こういうことを聞いてくるのは初めてだ。やっぱ気になってたんや、と思った。そら、気になるよな。おれもずっと、気になってた。

「親と上手く行ってへんかららしいで」

 多分おかんも半ば予想がついているだろうから、正直に答えることにした。変に誤魔化したりしたら、余計に気になるだろうし。吉川、ごめん。と心の中でこっそりと謝る。

「ああー……、やっぱそうなんや」

 案の定、彼女は納得したように頷いた。

「だって普通、高校生の子どもを一人大阪に置いとくなんて、出来へんもんね。吉川くん、ええ子やのに、可哀想やねえ」

 おかんは、しみじみとした口調で呟いた。そして、それ以上は追求してこなかった。

 ……ちょうど吉川の話題になったことやし、今日のことも言うとこうかな。

 と相原は、深く考えずにそう思った。別に隠すことじゃないし。吉川は嫌がるだろうけど、まあ、後で謝ろう。

「あのさ、おかん。その吉川やねんけど」

「うん」

「付き合うことになってん」

「へえ、誰と?」

「おれと」

「は?」

 おかんの声が、一オクターブ高くなった。それが何だか面白くて、相原は笑いそうになってしまった。その笑いを誤魔化すために、カレーを口に運ぶ。うん、美味い。いい辛さだ。

「吉川くんと、あんたが?」

 おかんは、高くなった声のまま続ける。

「そう」

「え、誠、ホモやったっけ?」

「いや、ホモではなかったと思うねんけど」

「あっらあ……」

 おかんは口を開けっぱなしにして、丸い目をぱちぱちさせる。そして何故か、勢いを付けて立ち上がると、台所に向かった。

「おかん、どうしたん」

「お母さんも、カレー食べるわ」

「何でそうなんねん……!」

 耐えきれなくて、相原は噴き出した。おかんは、何度も「あっらあ、あっらあ」と言いながら、カレーを山盛りよそって戻ってきた。そして腰を下ろしながら、「ということは」と言って相原を見る。

「吉川くんが、そっちの人?」

「そうそう」

「あっらあ」

 さっきからそればっかしやんけ、と相原は再び噴き出した。だけど、気持ちは分かる。自分も、吉川がゲイだと知ったときや、彼に告白されたときは頭が真っ白になった。

「そんなら吉川くん、苦労してるんやねえ。あ、ご両親と一緒に住んでへんのって、そういう……」

「そういう事情やねんて」

「あっらあ……」

 おかんは眉を寄せて、悲壮な表情を浮かべた……が、口元はもぐもぐと動いているので、何だか間抜けな感じがした。

「ほんで、あんたのことが好きやって?」

「……え、あ、うん。そうみたい」

 流石にそこは恥ずかしくて、相原は歯切れの悪い返事をした。するとおかんは、はあ、と吐息を漏らした。

「あんたみたいなんの、何処がええの」

「……自分で産んどいて、ようそんなこと言うわ」

 言いながら相原は、そういえば吉川が自分の何処を好きなのか、聞いていないことに気がついた。自分は、どうして吉川のことが好きになったかちゃんと話したのに、フェアじゃない。次に会ったら、その辺のことを問い詰めよう。

「そんで、誠、どうすんの」

 急におかんが真剣な面持ちになったので、相原は少し戸惑ってしまった。今までは、世間話でもするような軽い口調だったのに、ここにきて急に迫力が出て来た。

「どうすんの、って何が……」

「あんた、その場のノリとか勢いとか、同情とかで付き合うって言うたんちゃうやろうね。そんな軽い気持ちなんやったら、許さへんよ」

「何でやねん。そんなんで言うわけないやろ」

 馬鹿にすんなや、と相原は顔をしかめた。しかしおかんは、まだ疑っているようだった。

「ほんまに?」

「ほ、ほんまにやって」

 やけにおかんが本気なので、相原は恥ずかしくなってきた。急に、何で自分は母親とこんな話をしているんだろう、という気になってくる。

「同性に告白するなんて、よっぽどの覚悟やで。誠、あんたその辺のことちゃんと分かってんの」

「分かってるって!」

 ……最初は、よく分かってなかったけど。と、胸中でこっそり付け加えた。おかんは、やけに熱っぽい調子で続ける。

「それにな、同性で付き合うのって、ほんまに大変やで。自分のことだけじゃなくて、相手のことも、周りのことも、女の子と付き合うのと比べて何倍も気を遣わんとあかんのよ。幸せよりも、苦労の方が多いかも分からんよ」

「分かってる、つもりやけど……。ていうか、おかん、何かえらい理解があるっていうか、言ってることがリアルっていうか……。昔、何かあったん……?」

 母の様子に尋常ならざるものを感じて、相原は恐る恐る尋ねてみた。このおかんのことだから、多分受け入れてくれるだろうなとは思っていたけれど、この反応は予想外だった。まさかこんな風に、いきなり突っ込んだ話をすることになろうとは。

 するとおかんは、半分程に減ったご飯を崩しながら、長い息を吐いた。

「身近にね、同性愛の子がおるの」

「えっ、そうなんっ?」

 意表を突いた答えに、相原は身を乗り出した。 おかんの身近に、同性愛者がいるなんて初めて聞いた。しかも、「いた」じゃなくて「いる」。現在形だ。一体誰だろう。

  あっ、そういえば、おかんの妹のかや子おばちゃんて独身や。親戚の集まりにも、ほとんど来ないし。あれ、もしかして……。

 と、頭がめまぐるしく回転した。脳裏に、かや子おばちゃんの顔が浮かぶ。おかんと違って痩せていて、のんびりなかや子おばちゃん。

  相原は物凄く気になったが、そこはあまり詮索しない方が良いような気がした。なので、喉元まで「それってかや子おばちゃん?」という言葉が出かけたが、どうにかそれを飲み下す。

「その子が悩んでるとこをずっと見てたし、相談受けたりもしてたからね。せやから、同性愛に関しては、お母さん理解あるんやで」

 おかんは、得意げな表情で胸をそらした。相原は「すげー……」と呟いた。

「実の息子が男と付き合っても、平気なんや」

 そう言うと、おかんは眉を寄せて少し複雑そうな顔になった。

「まあ……、びっくりはびっくりやけどねえ」

「せやろなあ。おれも、最初はめっちゃびっくりしたし」

「でも、ちゃんと二人が好き合ってるんやったら、お母さんはとやかく言わへんわよ。お母さんも、吉川くん好きやし」

 おかんのその言葉を聞いて、相原の中に最初に浮かんだことは、ああ吉川がここにいれば良かったのに、だった。吉川に聞かせてやりたい。そうすれば、あいつの卑屈もちょっとはマシになりそうだ。そんな後ろ向きにならんでも、こんな風に言うてくれる人もいるんやで。そう、彼に伝えたい。

 そして、それが自分の母親だということに、相原は気恥ずかしいような嬉しいような誇らしいような、妙な気持ちになった。どうにもおかんと目を合わせていられなくて、相原は下を向いてカレーをかき込んだ。

「誠」

「うん?」

「ほんまにねえ。吉川くん神経細そうやし、あんたがしっかりせんとあかんよ」

「……はい」

 相原は思わず顔を上げて、真面目に頷いてしまった。頷いてから、またやたらと恥ずかしくなって、首筋の辺りがじんじんと熱を持ち出した。