■きみが涙を流すなら 35■
「吉川って、前の彼氏とおるときと、おれと一緒におるときでは、全然態度が違うやんか」
「へ?」
僕は、びっくりして顔を上げた。下を向いている相原の、つむじがよく見える。
小林の前と相原の前で、態度が違う? そんなこと、全く意識していなかった。
「え、そんな……違ったっけ?」
そう言って首を傾げたが、しかし思い返してみると、確かにそうだったかもしれない。
僕は小林に対しては、どうしてか横柄な態度で接してしまう。アホとかハゲとか平気で言うし(ちなみに彼の名誉のために言っておくと、小林の毛根はいたって健康である)、蹴りを入れたりどついたりもする。だけど相原には、そんなこと絶対に出来ない。出来るはずがない。
「あのとき、吉川と前の彼氏との会話とかを聞いて初めて、あれ、吉川ってほんまはこんな奴なんや、てことは、おれの前ではめっちゃよそよそしいんちゃうん、とか思ってさあ」
「よ、よそよそしくしてるつもりは……。単に、相原の前では『ええ奴』でいたかっただけで」
僕は慌てて答えたが、相原はまだ不満げだった。
「だから、そこが何かモヤッとすんねん。ええやんか、素で。何があかんねん。何で前の男には素で、おれの前では素と違うねん、と思って何かずっと、ムカついてた、かも。これって嫉妬、よな……」
相原は、恥ずかしそうに声のボリュームを小さくする。それから更に小さい声で、「うわ、何言ってるんやろ、おれ」と付け加える。
え、何この人、ほんまに、嫉妬してたん、や。
何故か唐突に、僕の頭の中にタイガースの今岡誠が現われ、あの独特のスイングでレフトスタンドにホームランを叩き込んでいた。わーすげえ今岡ナイスホームラン。
……我ながら、意味不明だ。嬉しすぎて、もう「嬉しい」という感情が一体何なのかも分からなくなってきた。
「い、や、だから、さ」
僕の脳内の今岡が三塁ベースを回ったところで、相原は再び口を開いた。僕はどうにか脳内今岡にご退場頂いて、相原の方に意識を集中させようと試みた。しかし彼を見ていると、恥ずかしさと落ち着かなさと愛しさとあれやこれやとで、肩や膝がもぞもぞしてくる。
「そんな、おれに気ぃ遣わんで良いし」
ほんの少し声に力を込めて、相原は言った。僕はそれに、ぎこちない頷きを返した。
「もっとこう、素でいこうで。そんな、必要以上にええ奴に見せようとか、ナシの方向で」
僕は目を細めた。相原はいつだって眩しい。眩しすぎて、僕なんか消えてしまいそうだ。というか、半ば本気で消えてしまいたい。いや駄目だ。消えたら相原に会えなくなる。
……さっきから、思考が迷走しすぎだ。落ち着け、おれ! いい加減、正気に返れ!
心の中で必死に叫ぶが、心臓は好き勝手に跳ね回るし、頭はぐわんぐわんして全く平常心が保てない。そんな僕に、相原は怪訝そうな顔をした。
「……吉川、おれの話ちゃんと聞いてるか?」
背中に電気が流れたような感じがして、僕は背筋を伸ばした。
「き、聞いてるけど。聞いてる、けど、でも」
「でも?」
「この、つ、付き合い始めのカップルみたいな会話は、一体何事かと思って」
「え。つ、付き合い始めのカップル、でいいんと違うん? おれらって」
僕たちは、しばし黙り込んだ。そして数秒の沈黙の後、ほぼ同時に口を開いた。
「恥ずかしー!!」
相原と僕は、顔を覆って絶叫した。見事なシンクロだった。あまりにもタイミングがばっちりだったので、僕たちは顔を見合わせて吹き出した。
「めっちゃ同じこと考えてるやん、おれら!」
と、僕らはしばし笑い合った。 笑っている内に、少しずつ心臓や脳が落ち着いてきて、僕は安心した。良かった。あのまま頭がおかしくなって、元に戻らなかったらどうしようと思った。
「ああー、恥ずかしい。こういうマジ話すんの、ほんっま恥ずかしいな」
相原はそう言いながら、手で自分の顔を扇いだ。その顔がまだ少し赤い。僕も同じように、手をバタバタさせて顔に風を送った。気持ちは少し落ち着いたが、熱はまだ冷めそうにない。
「おれも、恥ずかしくて死ぬかと思った……。あっ、そうや、相原!」
僕が声を大きくすると、相原は少したじろぎつつ「お、おう」と返事をした。僕は二、三回咳払いをして、相原を見た。恥ずかしいとかそういうことは置いておいて、先にきちんとこれだけは言っておかなくては。
「あの……、ほんまに、ええのん? おれは未だに、相原はドノンケやと思ってるねんけど、ほんまに、ほんまにおれで、ええのん?」
「うん」
相原は即答だった。むしろ、語尾にかぶせてくる勢いだった。彼は僕をまっすぐに見て、しっかりと頷いた。
もう何度目か分からないけれど、僕はそんな彼に惚れ直した。相原は本当にかっこいい。好きだ。ちくしょう、好きだ!
僕はうっかり泣きそうになって、慌てて歯を食いしばった。それでもこみ上げて来ようとする涙を、必死で押し返す。それと同時に、胸がじわじわと暖まってくる。混乱や戸惑いが収束して、ようやく素直に嬉しいと思えるようになってきた。
相原の言葉には、続きがあった。彼は僕から目を離さずに、こう言った。
「おれも、自分がゲイになったとはあんまり思われへんけど、でもちゃんと、吉川のことが好きやで」
「な……」
なんちゅうこと言うねん、と僕は顔を両手で覆ってうつむいた。それを見て、僕が泣いていると思ったのだろうか、相原は遠慮がちに僕の肩に手を置いて「だ、大丈夫か?」と尋ねてきた。
「……二〇〇三年に阪神が優勝したときよりも、嬉しい」
正直な心情を吐露したら、相原は声をあげて笑った。
「お前、ほんまに野球ばっかしやなあ!」
そう言って笑う、相原の笑顔も嬉しい。何もかもが嬉しい。嬉しい。嬉しい。ああ、嬉しい!!
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