■きみが涙を流すなら  ■


「う」

 僕の口から、呻きのような妙な声が出た。一旦口を閉じ細く息を吸い込んで、また吐いてを数回繰り返してから、改めて口を開く。

「嘘つけっ!」

 僕は全力でそう言った。それが正直な気持ちだった。

  うわあそんな相原もおれのことが好きだったなんて……とか、そんな風に呑気に喜ぶことはどうやったって出来ない。僕は単純だけど、そこまでおめでたくはない。

 だけど、冷静というわけでもなかった。びっくりした。それはもう、掛け値なしにびっくりした。正直、脳みそがひっくり返るかと思ったし、こんなことを考えている今もめちゃくちゃ動揺している。

  だけど頭のど真ん中に「絶対にそれだけは有り得ない」という考えがどっしりと座り込んでいて、テコでも動きそうにない。

  僕の態度に、相原は「なっ」と一瞬絶句した。それから眉をしかめて、不満そうな顔になった。

「吉川お前な、その反応は流石にないぞ……」

「いやだって……そんなんどう考えたって嘘やん! 何でそんな嘘つくん」

 僕はそう言って、首を横に振る。

「な、何で嘘とか言うねん。お前が言えって言うから、めっちゃ頑張って言ったのに」

「説得力がないねんて! 絶対そんなん嘘に決まっ」

 途中で僕は言葉を切った。相原の顔が近付いて来たからだ。

  えっ、と思う間もなく彼の唇が僕の唇に覆い被さってくる。全身が硬直した。唇と指先と、あと何故か睫毛がピリピリする。

 何これ何これ何これ何これ。
 いやいやいやいやいやいや。
 死ぬって死ぬって死ぬマジで死ぬ死ぬ死ぬ。


  ……ややあって相原は唇を離し、むちゃくちゃ恥ずかしそうな口調で言った。

「こ、これでも説得力ないか!」

 その言葉を聞いた瞬間、僕の脳の奥の奥辺りでドカンと何かが爆発するような音がした。顔が熱い。特に頬と耳の後ろが熱い。ああもう駄目だ。訳が分からない。フローリングの床板が歪んで見える。このまま気を失ってしまうんじゃないだろうかと思った。

「な、な、何やお前。な……いやほんま、お前何?」

 僕の口から、意味不明の言葉がぽろぽろと零れ出す。その声も、自分の心臓の音に半分くらいかき消されてしまって、よく聞こえない。

「何って言われても」

「だ……だって相原、お前ついさっきまで、考えてる最中やって言ってたやん……」

「うん、さっきまで考えてるとこやってんもん」

「それやのに何で急に、そ、そんな話になんねん……!」

「だってそれは……急に結論が出てんから、しゃあないやん」

「何やねん、それ! お前はおれを殺す気か!」

「ちょ、うん、分かったから。ちょっと落ち着け」

 僕がよっぽど取り乱しているように見えたのか、(いや実際取り乱しているという自覚はあるのだけれど)相原はそう言って、僕の腕をギュッと掴んだ。それで僕は、感電したみたいに動けなくなってしまった。

 相原はひと呼吸置いて僕を見た……かと思ったら、恥じらいの表情を浮かべて眼をそらした。その仕草に、僕はまた感電してしまう。何それ。何なんそれ。何でそんな可愛いねんお前は。

「さっきお前が、ほら……顔をここまで持って来て寸前で止まったやんか」

 僕の腕を掴んだまま、相原は話し出す。相原に触れられているということで、全身を緊張させながら僕は頷いた。

「う、うん」  

  そこはあんまり振り返って欲しくないポイントやねんけど……と、心の中でこっそり呟く。

「そんときの吉川が、震えてたって言ったやん」

 僕は恥ずかしいのと情けないのとで、何の反応も返せなかった。そんなに、あからさまに震えていたんだろうか。かっこ悪い。寸止めだけでもかっこ悪いのに、それに加えてブルってたなんて酷すぎる。恥だ。

「それを見て、やっぱお前に言われたとおり、その瞬間まで吉川に告白されたってことの意味を、ちゃんと理解してなかったんやと思ってん」

「お、おう」

「分かってるつもりやってんけど、やっぱりびっくりしすぎて実感が湧いてなかったというか……」

「……うん」

 相槌を打ちながら、そうやろうなあ、と僕は思っていた。

 相原は口を開けて話を続けかけたが、ためらうように口を閉じた。そして、こちらをちらちら見ながら言う。

「すいません、やっぱり恥ずかし過ぎて死にそうなんですが」

「……お互い様なんで、続けて下さい」

「……はい」

 相原は肩を落とした。それから言いにくそうに、少しずつ言葉を継いでいく。

「震えてる吉川がな、何かえらい葛藤してる感じやってん。それを見て、ああ、こいつはほんまに、おれのことが好きなんやなあって思って……」

 僕の脳の裏側で、またドカンという爆発音が聞こえた。


「そ、そんで何か、何やろ、急にこう、ポンと頭の中に来てん。あーおれ、吉川のこと好きなんやわー、って、はい、うん」


 吉川のこと好きなんやわー、


 ドカンドカンドカン。頭の中で三回爆発が起こった。相原と出会ってから、何度も「もう死んでしまう」と思ったけれど、今日が一番死に近い気がする。というか、今この瞬間に絶命してしまってもおかしくない。いやだって、そんな、まさか。

「えっ、おい、大丈夫か吉川。しっかりしろ」

 急に相原はぎょっとした顔になり、僕の体を強く揺すった。一体、僕はどんな顔をしていたのだろう。そんなにやばそうに見えたのだろうか。

「おおう。大丈夫大丈夫。いやごめん、嘘やわ全然大丈夫ちゃうわ」

 口が勝手に動いて、そんなことを言っていた。自分でも、全く意味が分からない。

「何やねん、それ。ほんまに大丈夫か……?」

「いや、だから大丈夫ちゃうって。死にそう。マジ、死に、そう」

 突然、全身に力が入らなくなって、体がガクッと前に傾いた。

「お、おいおいおい!」

 倒れそうになるのを、相原が支えてくれた。それにまた、死にそうになる。頭はぼうっとしているのに視界は妙にはっきりしていて、自分が履いているジーンズの縫い目なんかがよく見えた。

「え、何、おれが吉川のこと好きって、そんなにショック受けること……?」

 そう言って、相原は首をかしげた。その発言に、僕は勢いよく顔を上げる。

「そらそうやって! だっておれ、ふられる準備万端やったのに!」

「お前、ほんっま卑屈やなあー」

 素の口調で、あっさりと己の本質のど真ん中を突かれて、僕は一瞬ウッとなった。

  相原は、もう随分普通に戻っている。頬の赤みも引いてきているし、声の調子もいつもと変わらない。と、思う。多分。

  あれ? 普段の相原ってどんなテンションだっけ? こんなんだっけ? こんなんじゃなかったっけ?

 ……駄目だ。衝撃が大きすぎて、そんなことも分からない。

「た、確かにおれは卑屈かもしれへんけど! でもそれを抜きにしても、そんなん絶対ふられるって思うやん!」

「おれ、女あかんようになった、って話したのに?」

 相原は、眼をぱちぱちさせてそんなことを言う。その動作に、僕は身悶えしそうになる。あかん、やめて。可愛いから。そんなんせんといて。

「だってそんなん、一時的なものとしか思われへんかってんもん……」

 語尾が萎む。なんせ僕は、今でもそう思っている。彼の女性不信は一時的なものであると。家族とのゴタゴタが済んだら、絶対かわいい彼女を見つけるに決まってる。

「……でも、多分おれ、前から吉川のこと好きっていう片鱗があった気がすんねんけど」

「えっ嘘っ、何それ!」

 僕は声を大きくした。今日は一体何なんだ。何のサービスデーだ。神様は僕をこんなに幸せまみれにして、どうしようと言うんだ。

 相原はまた恥ずかしそうに、口元をもぞもぞさせる。

「ほら、こないださ、吉川の前の人とばったり会ったやん」

「お……おお……」

 上がりかけたテンションが、一気に下がった。

  小林と相原が鉢合わせしたあの日。とにかく最悪だった日だ。しかも、非は全て自分にあるという、最悪の中でも下の下に位置する日だった。そのときのことを思い出すと、小林や両親や相原や、いっそ全世界の人たちに申し訳なくなってくる。

「あんとき、おれ、ちょっと半ギレやったやんか」

 気まずそうに、相原は言った。僕はそのときの相原の様子を思い出して、胃の辺りがキリキリしてきた。あのときの相原の視線は痛かった。実際に殴られるよりも痛かった。

「半ギレっていうか……。軽蔑されてる、って気はしたな」

「いや、別に軽蔑はしてへんかったで。いや、うん。あれは今思うと、嫉妬、やったかなあ……とか、思うねんけど……」

「な……お……っ」

 何言ってんねんお前、と言いたかったのに、全く声にならなかった。