■きみが涙を流すなら 33■
相原とキスしている間、僕の脳内では何故か、今までの人生が走馬灯のように流れていた。
それも、小学校の入学式で靴下を表裏に履いていたとか、中二のときの席に「佐々木望」と彫ってあったとかそういう、しょうもないことばかりが駆け巡る。ああなるほど僕は死ぬんだな、と訳も分からず納得してしまう。
数秒経って相原が離れたとき、僕は多分物凄く間抜けな面をしていたと思う。
何度か瞬きをする。目の前に相原がいるが、彼がどういう表情をしているのかは、分からない。見えているはずなのに、相原の表情が認識出来ない。
「え、自分、何してんの?」
パニック状態になることすら出来ず、僕は素の口調で尋ねた。
「何してんのやろ」
相原も、素の口調で返してきた。
「いや、相原。ちょっと考えてみ。この展開、おかしくない?」
「だって、吉川が寸前で止まったまま動かんなるから……。行くか戻るかどっちかにせえや、って思うやん」
「あ、そうか。ごめん」
「いや」
何だ、この会話。 僕は、ほとんど空洞になった頭をさすった。ええと、ええと。今現在何が起こっているのか、整理してみないと。
ええと、もう前後の脈絡は思い出せないが、僕は確か相原に対して腹を立てた。なので、目にもの見せてやる唇くらい奪ってみせるぜと意気込むも、寸前で怖気づいた。そしたら返り討ちにあった。
すなわち、僕は相原にキスされた。
相原にキスされた。
相原に、キ
「わあああっ!」
頭にようやく現実が浸透して、僕は叫びをあげた。突然の絶叫に、相原がびくっと反応して腰を浮かせる。
そうだ、こんなとぼけたやり取りをしている場合じゃない。
僕は口を開けたが、すぐには言葉が出なかった。空気の塊がせわしなく喉を行き来して、「う、あ、お」と切れ切れの声だけが時折漏れる。
そんなことを何度か繰り返して、やっとまともに声が出るようになった。
「お、お前! 相原! 何やってんねんお前!」
「おお。何や吉川、いきなりテンション上がったな」
相原は、感心したような口調で言った。
「今来た! 実感が遅れてやって来た! あっ、相原、お前! お前ほんま、なんちゅうことしとんねん!」
我に帰ってしまった僕は、震える声で叫んだ。頭の中で先ほどのことがリプレイされて、思わず口元を押さえた。
なんということだろう。こんなことが、あって良いんだろうか。何でこんなことになったんだ。そしてどうして、相原はあんなことをしたんだ。気の迷い、だとしてもあり得ない。
駄目だ、喜ぶよりも羞恥と驚きが勝って、この上なくいたたまれなくなってきた。顔が熱い。それだけじゃなく、眼球も耳の中も足の裏も全部が熱い。このまま僕は炎上してしまうんじゃないか、と半ば本気で思った。
「いや、なんちゅうこと、って言われても……」
相原は、ここに来て尚ぼんやりとしている。お前も早く我に帰れ、と言いたい。
僕は、口元を押さえたまま相原の方を見た。ようやく、彼の表情が見えるようになった。相原は首を傾げて考えるような顔をしていた。口の中で、何事かを呟いている。耳を澄まして聞いてみたら、
「えーと、そんで吉川が……ああなって、おれがこう言って」
と、先ほどの出来事のおさらいをしているようだった。僕も先ほど全く同じように反復したけれど、相原が今あのことを思い出してるんだと思うと、更に恥ずかしくてその場で転げ回りたくなった。
相原は小声で順調におさらいをしていたが、「そんで……」と言って、しばし黙りこんだ。やがてその顔が急に、朱を差したように赤くなったのだった。
「うわあああっ! おれも今来た! 遅れて来た! うわああっ!」
相原は耐えられない、というふうに頭を抱えた。
「な! 後から来るよな!」
僕たちは、うんうんそうやんな、と頷き合った。この共感もおかしい。おかしいのだけれど、このときの僕たちは明らかに、正常な判断能力を失っていた。
「ていうか、吉川!」
突然強い口調で相原が僕を呼び、そして真正面から見つめられた。うっかりその眼を見てしまって、僕の脳は熱くなった。
「は……はい。な、な、何でしょう」
大暴れする心臓を押さえつつ、僕はたどたどしく返事をした。
「変なことして、ごめん!」
生真面目な口調で言って頭まで下げる相原に、僕はまたずっこけそうになった。
「何でお前が謝んねん。こっちが謝らんとあかんとこやんか。ほんまごめん、暴走してマジでごめん!」
「でも、お前は寸前で止まったやん。実行するには至らへんかったやん。それやのに……ご、ごめん」
「だから! おれはええんやって! ほんま、何回も言わせんといて欲しいんやけどな、おれはお前のことが好きなんやってば」
「あ、ああー。ああ、そうか。いやでも……ああ、そうか」
相原はせわしなく瞬きをしながら、何度も頷く。絶対に理解していない。というか多分、彼もそれどころではないのだろう。
「しっかりしろ相原。いや、おれも全然しっかりしてへんけど……ってそうや相原、水!」
「水? 飲むん?」
「違う、水っていうか、うがい! うがいして来いお前!」
そう言って、僕は洗面所を指さした。すると相原は首を傾けかけたが、すぐに僕の言わんとしたことを理解したようで、「ああ」と声を上げた。
「ええよ、そんなん」
「ええことあるか! うがいして来い!」
「いや、ほんまに」
相原は、飽くまで首を横に振る。親切で言ってやっているのに、どうして断るんだ。僕は、やきもきしてきた。
「おれに気を遣わんでもええねん。だって、き、気持ち悪い、やろ?」
「いや……そんなことは……」
「嘘つけえ!」
僕は勢いよく手を振り下し、力任せに相原の頭をはたいた。パァン、と乾いた良い音がする。その音のあまりの大きさに、僕はぎょっとした。しまった。つい、心の底からツッコミを入れてしまった。
「嘘つけ、って何やねん。お前、どうもいちいち卑屈過ぎへんか?」
相原が、不本意そうに目を細めて僕を見る。
「ゲイがノンケに惚れたら、誰だってそうなるっちゅうねん!」
「そっか。そういうもん、か」
僕がそう言うと、相原は一転して神妙な顔で頷いた。ああもう、何で僕はこいつに惚れてしまったのだろう。真面目で鈍感な男って、一番タチが悪い気がする。
しかし多少なりとも余裕が出来たのか、僕の心にじりじりと、喜び、というやつが広がりつつあった。僕は相原とキスをした。
過程がどうであれ、僕は好きな人とキスをしたのである。しかも、同性愛者でもなんでもない、ふっつうの男である相原と。奇跡だ。奇跡としか言いようがない。相原にとっては人生の汚点になってしまうかもしれないけれど、僕は神様に有難うと叫びたい。
「しかしほんま、おれは相原のためを思って寸止めしたのに、何で踏み込んでくんねん。訳分からへん。ほんま、訳分からへん!」
本当はただ根性がなくて実行出来なかっただけなのだが、そういうことにしておいた。自分でも小さいと思うけれど、僕だってメンツは大切にしたい。
「それは、だって」
そこまで言って、相原は黙りこんだ。そして何故か急に、手と肩をそわそわさせ始めた。
「ど、どうした相原」
「……ちょ、ごめん。何かおれ、まためっちゃ恥ずかしなってきた……!」
「え、何なん。それはだって、の続きは何なん!」
僕は身を乗り出した。
それは、だって。
胸が、うずっとした。つい力が入って、両手の拳を握り締める。 何だ、何だ、一体どう続くんだ。それは、だって。だって? だって、何だ。それに続く言葉を、僕は頭の中で色々と考えた。
『だって、なんとなくそんな気分やったから』
『だって、そこに唇があったから』
もう、何でも良い。彼が僕にキスをした、その事実があれば理由は良い。だけど、それを相原の口から聞きたい。
「それはだって、の続きは!」
僕は再度問い詰めた。しかし相原は女子のように、肩をすぼめて首を横に振った。
「いややあー、恥ずかしくて死んでまう!」
「それは、おれのセリフやっちゅうねん! だって、の次は何やねん! 顔隠すなコラ!」
両手で顔を覆って小さくなろうとする相原の、両腕を掴む。こじ開けようとしたが、向こうも相当力を入れているようで、渾身の力を込めても彼の手はほとんど動かない。だけど僕は諦めない。ここだけは、絶対に、何があっても彼の口から今この場で聞いておかないと。
手の隙間から相原の鼻がちょっと見えたところで、彼はごくごく小さな声で呟いた。
「だって、吉川、震えてたから」
「えっ?」
かろうじて聞き取れたその言葉を、一瞬聞き間違いか何かだと思って、僕は首をかしげた。
え、ていうかおれ、震えとった? うそ。うそやん。かっこわる! 寸止めの上に震える男、吉川四郎。それはかっこ悪い。最悪だ。今すぐ逃げ出したいくらいにかっこ悪い。
などと思っていたら、相原の言葉には続きがあった。
「……おれ、たぶん、お前のこと好きやと思う」
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