■きみが涙を流すなら 31■
「……そんで、さっきの話やねんけど。兄貴と話したって?」
相原はすぐに、本題を切り出してきた。兄貴、と発音した直後から、とても不安そうな表情になる。僕は直接床に胡坐をかいた。フローリングが僅かに冷たくて心地いい。
「うん……何から言って良いんか、ちょっと分からんねんけど……」
僕は眉を寄せて考えた。ほら、こういう風になるから、事前に準備しておきたかったのに。寝てしまったことが非常に悔やまれる。
「えっと、浩一さんと香織ちゃんのことを相原が知ってるって、浩一さん、分かってはるらしい……で」
「マジ、で?」
僕の語尾にかぶせるようにして、相原は声をあげた。そしてみるみる内に、その表情が凍りついていく。しまった、と思った。いきなりその話を持ってくるのは、まずかっただろうか。
「分かってたんや」
呆然としたように、相原が呟く。もう、いつもの相原の顔じゃない。
「おれ、態度に出てたんかな……」
「いや、そんなことはない、と思うねんけど……。浩一さんって、そういうの、鋭くない? 他の人が気付かへんようなことに気付くって言うか」
「ああ、うん……。昔っから、兄貴には隠しごと出来へんかった」
「やろ? だから、相原の態度がどうって言うんじゃないと思う」
「そう、かな……」
相原は、右の手の甲を頬に当てた。視線は、自分の膝元辺りをさまよっている。
「……いつから、気付いてたんやろ」
ぐるん、と音がしそうな勢いで相原の眼が僕を見た。彼の瞼が、小さく震えている。そして、独り言めいた口調で続ける。
「最近確かに、部屋におっても静かやわ、そういえば」
「……うん」
僕は小さな声で頷いた。
「それは、おれが気付いたって分かったから……か? それともそんなんは関係なくて、もっと前から気付いてたんかな。そんで、おれが知ってるって分かってて、やってた……んかな」
内側からこみ上げて来るものをこらえるように、相原は絞り出した。そして僕から視線を外すと、ふっと笑った。
「よう、やるわ」
相原の口の端が奇妙に歪んでいくのを見て、僕は慌てて、
「ちょ、ちょ、待って相原!」
と両手を振った。
「浩一さん、誠には悪いことしてる、って言ってた……で」
「そう」
無感動に、相原は相槌を打った。
「そら、悪いと思ってもらわんと、やってられんわ」
ああ、どうしよう。相原の表情がどんどん荒んでいく。僕は何とか出来ないかと、必死で言葉を探した。どうやったら、相原がこんな顔をしないでも済むようになるのだろう。
「あの……それと、浩一さんは別れようとしてはるみたい」
僕がそう言うと、相原は黙った。
「潮時、みたいなこと言ってたし……」
「……何やねん」
苦しそうな声で、相原はそう言った。
「何やねん、それ……。潮時も何も、そんなもん……。最初っから、やんなよ……」
僕はやっぱり、相原の一言一言が、自分に向けられているような気持ちになった。ほんと、悪いと思うなら最初っからやんなよって、考えるよな。家族としては。
……うちの両親もきっと、そういう風に考えてるんやろうな。
そう思うと、目の前がどんどん灰色になってくる。
悪いと思ってる。
思うだけか?
正にそんな感じだ。
だけど僕はどうしようもない。どうしたって、自分を変えることは出来ない。浩一さんは……どうしようもないことはない、と言っていた。僕はどうしようもない。どうしたらいいんだろう。
……そういえば、香織ちゃんの方はどうしようもない、と浩一さんは言っていた。本当にそうなんだろうか。そうだとしたら、彼女はどうするんだろう。
「……浩一さんは別れる気やけど、香織ちゃんが難しい……っぽい、で」
「ああ……」
力なく頷いて、相原は視線を落とした。
「香織は……そうやろうな。あいつの方が入れ込んでる、って感じは確かにする」
相原はそう言って、深くて細い息を吐いた。
「……何やろ、おれ、どうしたらいいんやろ。何かもう、よく分からん」
「うん……」
「今はまだ、めっちゃムカついてんねん。ほんまに、あいつら殺したいくらいムカつく」
「うん、それはしゃあない」
「キレる権利くらい、あるよな」
「うん、殺すのはあかんけど、殴る権利くらいはあると思う」
というか相原は、今までよく我慢したと思う。だって僕なんか第三者であるにも関わらず、浩一さんと対峙したとき衝動的に殴りかかろうとした。考えるより先に、拳を出していた。相原は本当に、よく耐えている。
「でも、別れるんやったらホッとするような気もするし……。でも、別れたってもうどうしようもないわ、って気もする……」
「うん……。それが、普通やと思う」
「普通かなあ……」
「普通やって」
僕たちは、しばし黙りこんだ。窓の外で、勢いよく蝉が鳴いていた。うつむいてただじっとしていると、その蝉の声が耳から脳に入って来て、頭の中でわんわんと響き始める。
僕は、相原を見つめた。眉を寄せて口を結び、真剣に考えて込んでいる様子の相原。
あー、かっこいい。
一番初めに浮かんだ言葉は、それだった。終わっている。救いようがない。
蝉の声が大きくなる。ベランダにでも止まったようだ。あまりの大音量に、頭とこめかみの奥ががしびれてきた。
「……吉川、おれさあ」
相原の声が聞こえた瞬間、僕の中から蝉の声は消えた。すぐに、相原の声で頭がいっぱいになる。
「一回、あいつらと話しするわ」
すぐに返事が出来なかった。
相原の真っ直ぐさが眩しい。僕は彼のそんなところが好きだ。そしてそれと同時に、相原に比べて自分はどれだけ駄目なんだと思って、胸が重くなってくる。自分から、家族と話をしよう、という選択が出来る相原は本当に凄い。対して、僕はどうだ。家族から逃げっぱなしだ。
「向こうも分かってるんやったら、黙ってる意味ないもんな……」
相原は、自分に言い聞かせるように言って、数度頷いた。そして、僕の方を見る。
「あ、妹の方は知ってんのかな」
「……いや、香織ちゃんは知らんみたい。って、浩一さんが言うてた」
「そっか……。そんなら、とりあえず兄貴とやな」
顎に手を当てて、相原は呟いた。
「香織に知られへんように二人で話しするのが、割と難しそうやけど……って、吉川、どうしたん」
「……えっ、何が?」
何があるわけでもないのに、僕は辺りをきょろきょろと見回した。
「いや、ぽかんとした顔してたから」
「ああ、それは……、相原は偉いなあと思って」
「え、何でやねんな。偉くないっちゅうねん」
「だって、ちゃんと気持ち切り替えて、向き合おうとしてるやん」
「切り替えられてない、切り替えられてない。まだまだ、頭ん中大混乱やで」
相原は、ぶんぶんと頭を横に振った。
「でも何か、吉川と喋ってたら落ち着いてきたわ」
相原は、歯を見せて笑う。いい笑顔だ。僕が一番好きな顔である。しかも、僕と喋ってたら落ち着いた、なんて最上級に嬉しい言葉付きだ。 嬉しいけれど、それと同時に僕は何だか悲しくなった。
相原はすぐにそういうことを言う。僕を無闇に喜ばせることを、無意識に言うのである。
「……相原、あんまそういうこと言うな」
どうしても、口調が暗くなってしまう。
「え、何が……」
相原が本当に分からない、というような顔をするので、僕は自嘲気味に笑った。
「おれはアホやからな、期待してまうねん」
やや早口でそう言うと、相原は数度瞬きをして、口をきゅっと結んだ。そして彼はソファから立ち上がり、床に正座した。
「……こないだの話」
姿勢を正して、相原は静かに言った。僕は全身を緊張させる。唾を呑みこみながら、僕も足を正座に組み替えた。
「考えるって言ったやんか」
「う……うん」
……ついに、引導を渡される時が来た。まさかこんなタイミングで来るなんて。いや、でも良いんだこれで。早い方が良い。ここで僕とのゴチャゴチャに蹴りをつけて、相原は家族との問題に集中する。それが一番だ。
僕はゆっくりと、息を吸い込んだ。
相原に告白した後、僕は「ふられたときの三カ条」なるものを作って心に刻んだ。三カ条の内容は、こうだ。
ひとつ、泣かない。
ふたつ、未練を残さない。
みっつ、恨まない。
とにかく相原が不快な思いだけはしないように。それが一番大事なことだ。僕は今のうちから、眉間に力を入れておくことにした。気を抜いたら、多分今すぐにでも泣いてしまいそうなので、あらかじめ気合いを入れておく。ついでに、歯もしっかり食いしばった。何を言われても涙は流すまい、と胸の中で強く念じる。
「で……その、考えてんけど」
大丈夫。おれは大丈夫やから、ズバンと来い。僕は更に眉間に力を込めた。こめかみが、キュッと絞られたようになる。何があっても、気まずい空気にはしない。男らしく、かつ爽やかにふられてみせようぞ。
「……途中経過を言っとこうかなと思って」
僕は前のめりに倒れそうになった。
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