■きみが涙を流すなら 28■


 浩一さんは、相原にこのことを話すだろうか。

 僕の心はそれのみに支配されて、他のことは全く目にも耳にも入らなくなってしまった。僕の側で誰かが歌っているようだけど、よく分からない。

 あいつは天然だから、僕が合コンに行ったなんて話を聞いたら、「そうか吉川も女に興味持ち始めたんか」とか、そんな勘違いをするんじゃないだろうか。

  ……しかしそれはそれで、相原にとってはいいことなのかもしれない。 彼がもしそう思ったら、僕のことで思い悩むこともなくなるじゃないか。溜め息を呑み込んだら、喉の中がざわついた。

 ……ああ、駄目だ。合コンで社会勉強をしようと思っていたのに、全く集中出来ない。  

  僕は席を立って、トイレに行った。気合いを入れ直すために、顔でも洗おうか。そう思って洗面所の蛇口を勢いよくひねると、鏡にすらっとした男性の姿が映った。すぐにそれが浩一さんだと分かり、僕は顔を強張らせた。

 浩一さんは雑巾を持っていて、何も言わずに僕の隣に立って洗面台を拭き始めた。

「ど、どうも……」

 横顔に会釈すると、浩一さんはこちらを見ずに口を開いた。

「合コン?」

 短い言葉が臓腑を抉る。顔が熱くなって、思わずうつむいた。

「あんま嫌そうな顔してたら、向こうも気を悪くするで」

「えっ、そ……そんな顔してたっすか」

 僕は顔を上げて浩一さんの方を見た。彼は相変わらず無表情で、今度は鏡を拭いている。

 嫌そうな顔をしていた……のだろうか。そんな自覚は全くなかった。なんてことだ。僕は口の端を両手で揉んだ。それなりに愛想よく見えるように努めていたつもりだったのに。

「声かけるつもりはなかってんけど、自分が声あげるから」

「だ、だって……びっくりしたんすもん……」

 声が小さくなる。相原の兄さんと二人でこうして会話をすることになるなんて、不思議な感じだ。

  僕は浩一さんにばつの悪い現場を見られてしまったし、それに……そうだ、僕は彼の秘密を知っている。

  僕は視線を落とし、蛇口から流れ出す水流を見つめた。どういう顔をしていれば良いかが分からない。

 今僕は、相原を苦しめている張本人と対峙している。
 
 全くそんな風には見えないけれど、この浩一さんは、実の妹と関係を持っているのだ。本当に、全くそんな風には見えないけれど。

「誠は来てへんの」

「……来てない、っすよ」

「毎日誠と遊んでるんやと思った」

「や、そんなことは……」

 特にここ数日はおれが告白なんかしちゃったせいで、微妙に気まずいです。

 と、 内心で、こっそり吐き出した。

 浩一さんは、ひとつ隣の洗面台を拭き始める。綺麗好きなのか、彼が掃除した洗面台と鏡は隅々までピカピカになっていた。

「自分ら、付き合ってんの?」

 浩一さんは、静かな口調で言った。

 心臓が、止まるかと思った。

 恐る恐る顔を上げると、浩一さんは僕の目をまっすぐ凝視していた。射抜くような視線に、僕は震えあがった。

  僕と相原は付き合ってない。付き合っているわけがない。だから浩一さんのその言葉は不正解だ。笑って否定すればいい。 だけど、ちょっと待ってくれ。もしかして、浩一さんは気付いている? 僕が相原のことが好きだということを。

  以前相原の家で顔を合わせたときも、まじまじと観察するような視線を向けられた。あのとき、僕は何かボロを出していたんじゃないだろうか。

  浩一さんは勘が良さそうだ。自分の弟にべったりくっ付いている自称友人の存在を、あのときから怪しんでいた、の、かも?

「な……なっ、な」

 僕は平静を保つことが出来なかった。

  どうしよう。どうしよう。

  呼吸が不規則になってくる。

  どうしよう。どうしよう。どうしよう。

「……冗談やってんけど」

 静まり返ったその場に、浩一さんの平板な声が落ちた。

「えっ?」

 僕は素っ頓狂な声を出してしまった。

 冗談? 今のが? あの真剣な表情と口調で、冗談?

 間抜けに固まる僕をよそに、浩一さんは相変わらず眉ひとつ動かさずに、掃除を再開する。

 ……冗談なら、もっと冗談らしく言えよ!

 流石にそんな口はきけないので、僕は胸の中で思いきり吠えた。彼が相原の家族でなければ、殴っていたかもしれない。 洗面台に手をついて、こっそり息を吐き出す。なんて紛らわしい人なんだ。

  そして僕は、彼の冗談にまんまとハマって、動揺を露にしてしまった。それはもう、取り消すことは出来ない。新たなピンチ到来だ。

  なんとかしないと。なんとか……。

「もしかしておれ、聞いたらあかんこと聞いたかな。マジやった?」

 抑揚のない声で呟かれて、僕は更に焦ってしまった。とにかく否定しなければという気持ちばかりが先立って、冷静に思考を巡らせることが出来ない。

「いえいえいえいえいえ! 違います違いますマジで違います!」

「嘘つくん下手やな」

 浩一さんは、僕の言うことを全く信用していないようだった。ここまで挙動不審だったら、当たり前だ。

「いやいやいやいやいや! ほんまに! ほんまに違うんですって! マジで!」

「ふーん」

 僕はどんどんドツボにはまっていく。

  やばい。このままではいけない。このまま、勘違いさせるわけにはいかない。相原の名誉だけは、守らなければ。

  僕は拳を握った。息を吸い込む。

  よし、覚悟は出来た。

「……おれが、一方的に相原を好きなだけ、です……」

 力ない声で呟くと、浩一さんは手を止めた。

  ゆっくりとこちらを見るので、僕は視線をそらした。今浩一さんに眼を直視されるのは、さすがに耐えられない。

「そうなん?」

「そう……です」

 と小声で言ってから、慌てて付け加える。

「あの、相原はホモとか全然、そんなんじゃないんで。健全なんで。」

 僕の必死の弁解を、浩一さんは「そう」の一言で流した。いかにも興味がなさそうな口調だ。

  魂を振り搾ったカミングアウトにも、さして関心を抱いている様子はなく、黙々と掃除を続けている。

 ここまで無反応だと、何となく肩すかしを喰らったような気分になる。

「あんま……驚かないっすね……」

「まあ、世の中には色んな奴がおるし」

「お、おお……すげえ」

 あまりの度量の広さに、ついため口になってしまった。相原家の人間は、同性愛に寛容であるらしい。


「世間に堂々と言われへんようなことをしてんのは、おれも一緒やし」


 僕は耳を疑った。

  しかし浩一さんの表情は変わらない。蛇口をひねって、灰色に汚れた雑巾をばしゃばしゃと洗っている。

「何、を……」

 言葉の途中で、唾を呑み込んだ。

  浩一さんが、笑ったからだ。

  初めて見る彼の笑顔は、相原みたいに愛嬌のある笑いではなく、何処までもひんやりとしていた。

「誠から聞いてるんちゃうの」