■きみが涙を流すなら 29■
「な……」
何を言ってるんだ、と言おうとしたけれど言葉にならなかった。
心臓がせり上がって来る。頭の中がざわめき出して、指先が震えた。 なんて答えればいいんだ。肯定すればいいのか、否定した方がいいのか。分からない。全く分からない。
「え……あ、相原が、そういう話を、したんすか」
僕は結局、そう言った。ストレートに肯定することも、否定することも出来なかった。
「本人から言われたことはないけどな。なんとなく分かる」
浩一さんは顔色を変えない。何を考えているのかが、少しも読めなかった。
「誠が家に寄り付かないで、自分とずっと遊んでるんも、そのせいなんやろ」
この人は、知っているんだ。 自分と妹が人に言えない関係であることを、弟に知られているという自覚があるんだ。
そのことを、相原は知っているのか。そして浩一さんは何故、僕にそんなことを言うのだろう。
分からないことだらけで、正直僕は相当混乱していた。しかし僕には、何よりも浩一さんに言いたいことがあった。
「相原……は、めっちゃ傷ついて、悩んでる……んす、よ」
動揺のせいで、声が引っくり返った。だけどそんなこと、気にしてなんかいられない。相原の苦しみを、この人は理解しているんだろうか。僕はそれを知りたかった。
「やろうな」
大して間も空けずにそんな返事が返って来た。「明日も暑そうですね」とでも言われたみたいな、軽い相槌だった。 考えるより先に、僕の手と体が勝手に動いていた。浩一さんの襟元を、噛みつくように思い切り掴む。
「何やねん、その言い方は!」
僕が怒鳴ると、浩一さんは僅かに眉を寄せた。鬱陶しそうに、僕から顔を背ける。
「……熱いなあ」
「ああ?」
「誠には悪いと思ってるよ」
「思うだけかよ……っ!」
もう駄目だ。こいつは一発殴らないと気が済まない。僕は拳を固めて振り上げた。暴力は好きじゃない。だけどこいつは本気で殴る。そう決心した。その瞬間、浩一さんが口を開いた。
「お前はどうやねん」
「な」
振り下ろそうとしていた拳が、自動的に止まった。浩一さんの眼が僕の眼を見る。冷たいレーザービームのような視線だ。
「同性愛者なんやろ? 両親に悪いって、思ったことないか?」
頬が、ひくりと引き攣る。心臓を貫かれたような気分になった。浩一さんの無表情が遠く見えた。
「で、お前は思うだけか?」
「……っ」
浩一さんの言葉は、僕の急所を的確に突く。それも深いところばかりを狙って来る。やっぱり僕とこの人は似ているんだ。僕たちは家族を苦しめている。自分のせいで家族が壊れそうになっている。悪いのは自分だ。
「悪いと思っても、同性愛者であることはどうしようもないんちゃうの」
「そ……っ、それはそうやけど……」
僕の声は震えていた。懸命に言葉を探すも、何も見つからない。彼に何を言っても、全て自分に返って来る。そう思うと、何も言えなかった。
この人も、僕みたいにどうしようもないんだろうか。
「……ああ、おれ、おとな気ないな」
浩一さんが、細く息を吐いた。そして彼の胸倉を掴んだままだった僕の手を、そっとほどく。彼は少し、ばつの悪そうな表情をしていた。
「ごめん。悪かった。そんなへこむな」
「いや……」
「ただの八つ当たりやし。吉川くんも、色々あるんやんな」
ちょっと労わるような口調で言われて、僕の胸はウッとなった。今の言い方は、何処となく相原っぽかった。全然似ていないようでも、やっぱりこの人は相原の兄貴なんだ。
「……あんま優しくフォローされると、泣きそうになるんで勘弁して下さい」
「泣いたら?」
正直な気持ちを吐露したら、今度は突き放すような口調で言われた。歩み寄って来たかと思ったら、また離れていく。何なんだろう、この人は。本当に掴めない。
僕は奇妙な気分になった。ついさっきまではこの人が憎くてしょうがなかったのに……いや、今でも、相原を傷つけていることに関しては腹が立つのだけど……浩一さんの気持ちも分かる気がするのだった。彼は僕に、「どうしようもないんちゃうの」と言った。それは本当に、その通りだ。僕が同性愛者なのは、もうどうしようもない。いくら両親に悪いと思ったって、女性と恋愛することなんて出来ない。どうしようもない。
「……浩一さんも、どうしようもない、んすかね」
そう呟いたら、浩一さんは口元に苦笑いを浮かべた。さっきみたいな、冷たい笑いじゃなかった。やっぱりちょっと、相原に似ている。いつもこういう、人間らしい表情をすればいいのに。
「んー……。おれはそんなことないよ」
意外な答えが返って来て、僕は眼を瞬かせた。浩一さんは少し眼を伏せて、続ける。
「でも香織は多分、どうしようもない」
「あ……そっち、っすか」
僕は気まずくなりつつ頷いた。やっぱり、相原家は複雑のようだ。その辺りをもうちょっと突っ込んで聞きたい気もしたけれど、口には出せなかった。そうしたら、浩一さんが口を開いた。
「でもほんとに、誠には悪いと思ってる。潮時や、ってことも分かってる」
潮時、という言葉に僕は眼を瞬かせた。潮時ということは、ええと、つまり……。
「ま、頑張るわ」
浩一さんは僕の肩を軽く叩いた。そのまま背を向ける彼を、僕は「あの」と呼び止めた。
「何」
「ええと……相原が知ってるってことを、香織ちゃんは……知ってるんすか」
聞いてどうなることでもないかもしれないけれど、僕は訊ねた。すると浩一さんは、軽く首をかしげた。
「おれの質問に吉川くんが答えてくれたら、教えるわ」
「え、なんすか」
今度は僕が首をかしげる番だった。何だろう。彼が僕に聞きたいことなんて、あるんだろうか。
「誠の何処がええの」
僕の胸は再びウッとなった。何て痛い質問だろう。
「い、いや……それは……」
適当に誤魔化そうと言葉を濁していると、浩一さんの強い視線が両眼に突き刺さった。みたび、胸がウッとなる。この眼に見詰められると、答えないといけないような気分になってくる。
「……ぜ、ぜんぶ、っす」
ついつい答えてしまって、僕は恥ずかしさの余り死にたくなった。物凄い勢いで、顔が熱くなる。恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
「全部、なあ」
浩一さんは、抑揚のない声で復唱した。勘弁して欲しい。繰り返されると、恥ずかしさが倍増して僕に襲いかかって来る。僕は歯を食いしばった。相原の兄さんに対して、僕は一体何を言ってるんだろう。恥ずかしすぎて吐きそうだ。
「……で、おれの質問はどうなんすか」
さっさとこの話題を打ち切りたくて、僕はちょっときつい口調で言った。我ながらテレ隠し丸出しで、それにまた恥ずかしくなってくる。
「香織は知らんと思うよ。そういう感じじゃない」
「そう、ですか」
僕は手の甲で頬をごしごしと擦った。熱よ、早く冷めてくれ。
「そういえば吉川くん、戻らんでええの。合コンなんやろ」
その一言で、僕は今日が合コンであることを思い出した。そうだった。僕は今日、社会勉強に来ていたのだった。あまりのことに、その辺が全て吹っ飛んでしまっていた。
僕は慌てて、部屋に戻った。彼らは相変わらず、盛り上がっているようだった。結構なことだ。だけど僕には、もっと大事なことがある。
僕は女の子たちの方は一切見ず、大股に酒田の方に近寄った。
「ごめん、酒田! おれ帰るわ!」
面喰ったように眼を見開く酒田が何か言う前に、僕は大声で言葉を継いだ。
「さっき、じいちゃんが倒れたって電話あってん。ごめんな!」
ちなみに僕のじいちゃんは、父方母方両方とも亡くなっている。天国のじいちゃんたち、こんなとこでダシに使って、ごめん。
僕は財布から千円札を数枚取り出して、テーブルの上に置いた。女の子たちの、「え、何?」「どうしたん?」という声が聞こえたが、それを振り切るように部屋を飛び出した。
ごめん、酒田! 浮きまくってた上に、空気読めなくてごめん! でも、僕がいなくてもあれだけ盛り上がってたんだから、酒田とええ声の佐伯くんだけの方が絶対に上手く行くよ、うん!
心の中で謝ったり言い訳したりしながら、店の外に出た。外の熱気が全身に絡みつくよりも早く、僕は携帯電話を取り出した。
相原、相原! と脳内で繰り返しながらボタンを押す。浩一さんと会ったことを話そう……とか、そういう考えはこの時点では全くなかった。色々あり過ぎて、そこまで頭が回っていなかった、と言った方が正しいかもしれない。
僕はとにかく、一分でも一秒でも早く相原の声を聞きたかった。
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