■きみが涙を流すなら 25■
長時間めそめそと泣き続けるのは嫌だったので、僕は下腹と目に力を込めた。
そうすると、どうにか涙は止まってくれた。
「何でそんな話になんねん……」
「え、いや、だって」
「相原お前……ほんまに、気付いてへんで言うてんの?」
まだ目にたまっていた水分を指で拭き取り、そう尋ねてみた。
「ん? 何の話?」
相原は目をぱちぱちさせて、首を傾げる。
「そっか、天然やもんな……相原って……」
「な、何でおれが天然やねん。どっからそんな話が出て来てん。天然ちゃうっちゅうねん」
「天然やっちゅうねん……」
面喰らったような顔をする相原に、僕は首を横に振った。
その拍子に、ほんの少しだけ涙がこぼれた。
だけど、それ以上は出なかった。もう、涙は打ち止めのようだ。
今更だけど、ばつが悪くなってきた。
僕は、相原の前で泣いてばかりだ。
普段はそんなに、よく泣くわけではない……と思うのだけれど。
「吉川が言うてること、全然分からんのやけど……」
本当に何を言われているのか分かっていないようで、彼は怪訝そうに眉をしかめた。
「……いい加減、気付いたらええのに……」
声に出すつもりはなかったのに、気が付いたら言ってしまっていた。
すると、相原はちょっとムッとしたように唇を結んだ。
しまった気を悪くさせてしまったと思うと同時に、僕もちょっとムカッとした。
僕が腹を立てる権利なんて全くないのだけど、ムカッとしてしまった。
だって、気付くやろ。おれがお前を好きやって。
気付くやん。気付くって。気付かへんか? 気付かへんもんか?
「だから、何をやねん。言いたいことあるんやったら、はっきりと……」
これ以上ループさせたくなかったので、僕は相原の言うことを遮って何も考えずに口を開いた。
「おれがお前のこと好きやって、いい加減気付けっちゅう話やがな!」
……あれ?
僕は、口を開けたまましばし考えた。
今僕は何を言った? 相原に向かって大きな声で堂々と、何と言った?
あれっ、今、おれ告白した? 告白……したよな? あれっ?
自分の言ったことを理解した途端、一瞬で頭のてっぺんからつま先まで、恐怖が全身に広がった。
が、それはすぐにしぼんで何処かに消えた。
ただ、クーラーをかけていたから窓が閉まっていたことにほっとした。
窓が開いていたら、近所に聞こえていたかもしれない。
それくらい、大声を出してしまっていた。
僕は大層驚いた。あれっ、びびってないぞ、おれ。
これが、腹を括るというやつだろうか。
それとも、訳が分かんなくなっちゃってるだけだろうか。
「……え?」
たっぷりたっぷり間を空けて、相原が声をあげた。
「え……っ、え? あ……え、え?」
何かを言おうとしているようだが、言葉にならないらしい。
よっぽど驚いたようだった。
僕がゲイだとカミングアウトしたときよりも、もっとずっとびっくりしているように見える。
「マジ、で……?」
「……マジで」
対照的に、僕は静かな心で頷いた。
「な、何で……?」
いきなりそんなことを聞かれて、僕は一瞬押し黙ってしまった。
恋する理由を聞かれて、即座に、かつ明確に答えを出せる人間が、この世に何人いるだろう。
「何でって言われても……。よう説明せんわ」
「え、え、いつから?」
「おれが失恋して、お前に慰めてもらったときから」
「え……な……何で?」
「それ、さっきも聞いたやん……」
僕はハハ、と乾いた笑いを漏らした。
相原は若干身を乗り出して、何回も「え?」を繰り返す。
「ていうかそんなん……全っ然気付かんかった……」
「何でやねん……お前、おれがゲイって知ってるやんけ……」
僕は軽く脱力してしまって、正座したまま項垂れた。
「いや、知ってるけど……」
しどろもどろになる相原に、僕は大きく溜め息をついた。
「お前さあ……ゲイと毎日一緒におって、惚れられたらどうしよう、とか考えたことなかったん?」
「いや……考えへんかったなあ……」
「何でやねん……」
僕はもう、それしか出て来ない。何でやねん。ほんまに、何でやねん。いやでも、相原らしいといえば相原らしい。
「だって吉川、こないだおれが片岡に告られたって話したとき、相原やったら彼女出来る、とか言うてんかった? お、おれのこと好きなんやったら、何でそんなこと……」
「それは……お前に、ええ顔したかったからやんけ……」
ぼそぼそと言うと、相原は「ええええ」と大きな声を出した。
「そんな……そんな変化球、分からんわ……!」
そして相原はひとつ息をつき、僕の方を見た。
男に告白されて、相当戸惑ってはいるようだが軽蔑したり嫌悪している様子はない。
凄い、と思った。相原は本当に凄い奴だ。
世界中の人間がみんな、相原のようだったら良いのに。
「……ちょっと、考えてもええかな」
姿勢を正して、彼ははっきりとそう言った。
僕はそんな相原から目をそらしてしまう。まっすぐな視線が胸に痛かった。
断られなかった。
相原ならそう言うだろうな、とは思っていた。相原はいい奴だ。
「考えんでいいよ……」
「何でやねん。考えさせろよ」
「考えることなんて、何もないやろ。ここで一発断ったらええだけやん……」
「いや、考えるわ」
「やめとけって……。お前、ただでさえ色々大変やのに」
「それとこれとは別やし」
「何でやねん……。心配せんでも、お前はノンケやって」
「考えるわ」
相原は頑として譲らない。
一体何を考えることがあるのだろう。
「……いやあの、ほんまに……ええよ」
「さっきから何で、考えんでいい、とか言うねん。好きです、考えさせて下さい、考えなくていいです、って、流れとして明らかにおかしない?」
相原は笑った。
大分、混乱も収まって来たらしい。舌も、滑らかに回るようになったみたいだ。
「……相原はええ奴やから、ほんまに、真剣に考えてくれると思うねん」
「べ、別にええ奴ではないけどな」
「相原やったら分かると思うけど、考えるのってめっちゃしんどいやん」
彼は何も言わない。黙って、僕の顔をじっと見ている。
「……おれのことで、相原がしんどくなんの嫌やなあって、思う、わけよ……。まあ……それやったら、告白すんなって感じやねんけど……」
胸の中がむずむずして、無性に謝りたい衝動に駆られた。
だけどここで謝ったら多分「何で謝んねん」とか怒られてしまうんだろう。
そう思って、 言葉をぐっと喉の奥に押し込んだ。
「そんなら、適度に真面目に、適度に気楽に考えるわ。しんどくならん程度に」
相原は、むちゃくちゃなことを言った。
「いや、だから……」
僕の言葉にかぶせるように、何処からともなく、場違いな程景気の良いメロディが流れて来た。
僕は驚いて、肩を震わせた。相原もほぼ同時に、体をびくっと反応させた。
この曲はよく知っている。六甲颪だ。
「ご……っごめ、電話かかってきた」
そういえば、相原の着メロは六甲颪だった。
彼はあたふたと腰を浮かせ、ジーンズのポケットを探ろうとした……が、正座で足が痺れたらしく、
「おあああ」
と顔を苦痛に歪め、背中をのけぞらせた。
その間も、六甲颪は鳴り続いている。
「何やってんねん、お前」
僕はついつい、笑ってしまった。
相原は半笑いで携帯を取り出し、耳に当てた。
「もしも……あ、おかん」
相原おかんからか。
告白してしまった直後なので、僕はやや身構えた。
すんません。おたくの息子さんに惚れてしまって、ほんますんません。
「うん? 何? ……え、何言ってんのか、よう分からん。……ああ、そんじゃ代わるわ」
思わず身を引いた。
代わるわ、って、誰とだ。
僕か。僕だよな。 僕しかいない。
だけどちょっと待ってくれ。
平時ならともかく、今は有事だ。
一体どんな顔をして……いや、顔は見えないけれど……彼の母親と話せばいいのだろう。
「吉川、おかんの相手したって」
「えっ、いや、そんな……困るわ……!」
そう言っているのに、相原は僕に電話を投げてよこした。
避けるわけにもいかず、渋々キャッチする。
そして電話を手に取ってしまったら、もう出るしかない。
「も……」
『吉川くん!!』
もしもし、すら言う隙を与えず、相原おかんが絶叫に近い声を上げた。
「は、はい……っ」
僕は震え上がった。何だか分らないが、物凄い迫力だ。
一瞬、僕が相原に告白したことがばれたんだろうか、とかそんな意味不明なことを考えた。
そんな訳ないのに。
やっぱり、僕もいまいちマトモではないらしい。
『もう食べた!?』
「え……何が、っすか」
『ケーキ、もう食べた!?』
言われた直後は、ピンと来なかった。 ケーキって何の話だ。
「え、ケーキ……?」
と呟きつつ視線をうろうろさせていると、相原が「これこれ」と言って僕の傍らに置かれていた紙袋を指差した。
「ケーキ……。ああ、ケーキ! はい、あのありがとうご……」
『食べた!?』
受話器から、相原おかんが飛び出してきそうな勢いだ。
僕は思わず、電話を少し耳から離してしまった。相原が、すまなさそうに頭を下げる。
「いや、すいません、まだ食べてないんすけど……」
『食べんといて!』
「え?」
『おばちゃん全っ然、気ぃ付けへんかってんけどな、そのケーキに使ったバター、賞味期限切れててん!』
「え、あ、そうなんすか。でも別に、ちょっとくらい……」
『ちょっとと違うの、二年よ二年! 二〇〇五年の六月が賞味期限やったんよ!』
「にっ」
僕は、絶句すると共に噴き出しそうになった。
二年とはまた、豪快なことだ。ぶっちぎりじゃないか。
『いやあ……おばちゃんショックやわあ……。吉川くん、ほんまごめんやねんけど、そのケーキ食べんといてねえ』
「は、はい」
『ショックやわあー。吉川くんに食べさせたろって思ったのに。おばちゃんのケーキ、ほんまに美味しいんやで』
相原おかんは何回も、ショックやわあショックやわあ、と繰り返した。
それが何だか可愛らしくて、僕はつい声を上げて笑ってしまった。
「いや、大丈夫じゃないっすかね。加熱してるし……」
『あっかんがな! 何言うてんの! お腹壊したらどうすんのよ。食べたらあかんよ。絶対やで! 分かったら返事しなさい!』
「は、はいっ」
おかん口調で叱られると、条件反射で頷いてしまう。
相原おかんは僕の返事に満足したようで、うんうん、と頷いてからまた深くため息をついた。
『……はあ……。ショックやわあ。あ、誠に代わってくれる?』
僕は肩を震わせながら、手で口を押さえて電話を相原に返した。
あかん、ショックやわあ、がツボに入った。
相原は僕の手からもぎ取るように電話を奪い、
「おい、あんま恥ずかしいこと言うなや……! 吉川、めっちゃ笑ってるやんけ」
と、恥ずかしそうに言った。
その表情が可愛くて、胸がほわんとなった。
……駄目だ。この状況下で相原にときめけるなんて、僕は相当重症だ。
相原とおかんの通話は、すぐに終わった。
舌打ちしながら電話を切った相原は、顔を赤くして、
「ご、ごめんな吉川……。何や……バターの賞味期限切れてたんやって? 何でそんなバターが冷蔵庫に入ってんねん……」
と、顔をしかめた。
「いや、ええよええよ、そんなん。何か、むっちゃなごんだ」
そう言うと、相原は「はっず……」と、更に顔をしかめる。
そんな相原にも、僕はなごんだ。相原も、相原おかんも凄い人だ。
「……そんならそのケーキ、持って帰るわ」
足の痺れがまだ取れていないらしい相原は、ゆっくり立ち上がって、相原おかんお手製のケーキが入った紙袋を持ち上げた。
「え、敢えて食べてみようかな、って思っててんけど」
「あっかんがな! 何言うとんねん!」
相原は眉を吊り上げて、厳しい口調で言った……が、その言い方が相原おかんと全く一緒で、僕は声をあげて大笑いしてしまった。
「な、何やねんな」
「相原、おかんにめっちゃ似てる……」
「えっ、嘘! やめてや! 何それ、おれ、おばはん臭いってことかよ」
相原が本気で慌てたような素振りを見せるので、僕はそれにも笑ってしまった。
結局ケーキは相原が持ち帰ることになった。
彼を玄関まで見送る最中も、僕は時折肩を震わせて笑った。
「……そんなら、またな」
相原は、ぶすっとした顔でそう言った。僕は必死で笑いを押さえ、
「うん」
と頷いた。
「ちゃんと、考えるからな」
その瞬間、流石に笑いは引っ込んだ。
「……うん」
少し間を空けて、僕は頷いた。
本当は、もうええっちゅうねんとか頼むから忘れてくれとか、色々言おうと思っていたのだけれど、相原の顔を見たらついつい素直に頷いてしまった。
相原はそれを聞いてにこっと歯を見せて笑い、扉を開けて外に出て行った。
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