■きみが涙を流すなら 24■
固まる僕を妙に思ったのか、小林が後ろを振り返った。
そしてそこに立っている目撃者の存在に気付き、しまった、という風に顔を強張らせる。
僕は今更だと思いつつも、小林から身体を離して距離を取った。
当の相原は、こちらをじっと見ていた。ぽかんとした表情だった。
そして彼は数回瞬きをしてから、にこっと、いつもの愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。
「ちーす」
軽い口調で挨拶をして、こちらに向かって歩いて来る。
「四郎、知り合い……?」
小声で、小林が僕に囁く。僕も、ごくごく小さな声かつ早口で「クラスメート」と呟いた。小林は、「ごめん!」とでも言いたそうに顔をしかめた。僕はそれに気付かないふりをした。
ごめんで済むか、この野郎。
相原は僕たちの側までやって来ると、人好きのする笑顔を浮かべたまま「ちす」と小林に会釈をした。
突然爽やかに挨拶をされた小林は大層戸惑ったようで、「は、はあ……」と口をもごもごさせた。
僕は完全に機能停止してしまった思考回路をなんとかしようと、懸命に頭を回し始めた。
何処から見られただろうか。
いや、何処からでも見られた時点でアウトだ。
カミングアウトする前なら、もしかしたら誤魔化せたかもしれない。
しかし、相原は全部知っているのである。
最悪だ。
そういう関係に見えただろうか。
見えるに決まってるわな。
どれだけ善意的に解釈したって、男同士の逢引き現場だ。
ノンケの男子高校生がその光景を見たら、どう思うだろう。控え目に言っても、ドン引きするんじゃないだろうか。
僕は急激に死にたくなってきた。手を握られたとき、もっとしっかり拒絶しておくんだった。小林と会うんじゃなかった。
でも、誘ったのは僕だ。
だからこれは、自業自得なのだ。
「吉川ごめんな、こんな時間に。何か、どうしても持って行けって言われてさあ」
相原は少し恥ずかしそうに、茶色い紙袋を僕に差し出した。
僕はしばし硬直したままだったが、ああそうだ受け取らないと、と数秒遅れて理解した。
震える手で受け取った紙袋の中には、白い箱が入っていた。
「おかんが作ってんけど、ケーキやって。お前、甘いもん大丈夫やっけ」
「あ、ああ……、うん。大丈夫」
「ほんまに。そんなら良かった」
相原は笑った。
この空間で、彼のいつも通りの口調が浮いて聞こえる。
「んじゃ、お話し中すいませんっした」
相原は小林に向き直って礼儀正しく頭を下げると、そのまま立ち去ろうとした。
「あっ、相原……! ちょっと待って!」
咄嗟に、僕は相原の肩を掴んだ。
振り払われたらどうしようかと思ったが、そんなことはなく、彼は
「うん?」
と言いながら、こちらを向いた。
いつもの相原だ。不快だとかウンザリだとか、そういう顔はしていない。
それに、とりあえずほっとした。
いや、彼は空気を読む男だから、表に出していないだけで、心の中ではドン引きしているかもしれない。
何触ってんねん気持ち悪い、とか思われているかも。
そう思うと、僕は二の句が継げなかった。
そして、相原の隣でボーっと突っ立っている小林の存在を思い出し、腹にふつふつと怒りがこみ上げて来た。
「……お前、いつまでそこに立っとんねん」
「えっ?」
急に矛先を向けられた小林は、面喰ったように目をぱちぱちさせる。そんな反応にもまた、どうしようもなくイライラしてしまう。
お前のTPOをわきまえない行動のせいで僕はこんなにもテンパっているのに、何が「えっ?」やねん。今ここでボッコボコにしてやりたいくらい、腹が立つ。
しかし相原の手前そういうわけにもいかないので、
「さっさと帰れや」
と、刺のある声で促すだけにしといてやった。
「えっ。ちょっと待てよ、四郎」
四郎とか言うな。ちょっと待てとか言うな。素直にさっさと帰れ。
「小林お前、さっき帰るって言うとったやんけ」
「いや、でも……」
でもって何やねん、と言い返しかけてやめた。
駄目だ。これ以上、こいつと言い合っていては、どんどんドツボにはまってしまう。
相原の前で修羅場なんて、御免だ。
これ以上相原に不快感を与えたくない。
「……相原、中に入ろうで、中! そんで、小林はさっさと帰る! そういうことで!」
僕は一方的にそう言い放ち、双方の返事は一切聞かずに相原を半ば無理やり家の中に押し込んで、玄関の扉を素早く閉めた。
次いで、しっかりと施錠もしてしまう。
これでもし、まだ小林がインターホンを鳴らす、ドアをたたくなどの行動に出るようなら、刺してでも彼を止めなくてはならない。
そう思ったが、扉の向こうは静かだったので、僕は安心して息をついた。
「……吉川、良かったん? 話し中ぽかったけど」
相原の言葉に、僕は頬をひきつらせた。
小林と一緒にいるところを、相原に見られたくない。かといって、相原と小林を一緒にもさせたくない。
そう思ってついつい相原を部屋の中に引き込んでしまったけれど……これからどうしよう。この夏一番の気まずい時間の始まりだ。
「いやあ、話なんかそんな全然……なあ?」
何を言ってるのか、自分でもさっぱり分からない。
言葉をきちんと組み立てることが出来ない。
僕は相原の顔を見るのがいたたまれなくて、足元を見ていた。
彼の黒いスニーカーが目に入る。
「ていうか、吉川。今の人って」
来、た……。
僕は身を縮めた。
そこから先は、出来れば聞きたくない。
タイミングよくパトカーとか消防車とかが来て、彼の声をかき消してはくれないだろうか。 ついそんなことを考えたが、嫌になるくらい周囲は静まり返っていた。
「えーと……。新しい恋人っていうか彼氏っていうか……そういうの?」
相原は、言いにくそうに尋ねて来た。
死んでしまいたい。
そうだよな、やっぱりそう思うよな。死んでしまいたい。
「い、いや……その……そういうんじゃなくて……」
適当に語尾をぼやかしておけば許してもらえるかなと思ったけれど、非情にも相原は、
「そういうんじゃなくて?」
と、先を促してきた。
僕は口を開きかけては閉じ、を何度も繰り返した。沈黙が流れる。それを破ったのは、相原の方だった。
「もしかして、前の人?」
心臓がズドンと鳴った。
相原おかんが焼いてくれたケーキが、むちゃくちゃ重く感じる。僕は、ほとんど吐息に近い声で
「……うん」
と頷いた。
「えーと……」
相原の戸惑いを含んだ声に恐る恐る顔を上げると、彼は言葉を探すように視線をうろつかせていた。
そして、リビングへと続く短い廊下を指差した。
「上がってええんやっけ?」
そういえば、狭くて暑い玄関で立ちっぱなしだった。
僕は慌てて、相原をリビングに通した。
相原は無言で、ソファに座る。僕は無意識に、床の上に正座をしていた。
「えっ、吉川、何で正座してんの……!」
「いや、何か……」
僕はうつむいたまま、膝の上で拳を握った。
「……ほんなら、おれも正座しよっと」
相原は腰を上げ、僕の正面に腰を下ろした。
「おお、結構足痛いな、これ」
なんて言いながらしばらくもぞもぞしていたが、やがてきれいに姿勢を正した。
こっちが勝手に正座してるだけなんだから、相原まで正座しなくても……。そう思ったが、言葉にすることは出来なかった。
「で、さっきの話やねんけど……」
相原は話始めるが、相変わらず僕は彼と目を合わせることが出来ない。
リビングは冷房が効いていたが、早速手のひらと首筋に汗がにじんできた。
「前の人と、ヨリ戻したん?」
「そういうわけではなく……」
「でもさっきの見る限りでは、付き合ってるっぽかったけど」
相原は、攻めるでもなく冷やかすでもなく、淡々と話す。
彼が一体どう思っているのかが全くつかめなくて、僕はどんどん焦燥感に駆られていく。
「いや、あの……それは……おれとしては、そういうつもりは全くないねんけど……」
「そんじゃ何であの人、ここおったん?」
「それは……向こうが話がしたいって言うから……」
「で、家に来たん?」
「……うん……」
自分が誘ったなんていうことは、流石に言えなかった。
「前の人、奥さんと子どもおるんやんな」
「……う、うん……」
僕が消えてしまいそうな声で頷くと、相原は考え込むように、
「うーん……」
と唸った。
「でも、会ってるやんな?」
「いや……別れてからは、今日は初めてやけど……」
「あ、そうなんや。でも、そういうのって、なんか……良くないと思う」
相原の言葉が、脳にぐっさりと刺さる。全くもってそのとおりだ。
いや、良くない、なんてレベルじゃない。最低だ。
そんな優しい表現じゃなくて、もっと悪しざまに罵ってくれてもいいのに。
「……おれも、そう思う……」
震える声で答えると、相原が息を吐く気配がした。きっと、呆れているのだ。
僕は唇を噛んだ。
「……前に話聞いたときは、もう別れたって話やったから何も言わんかったけど、まだ切れてないんやったら言っとく」
相原の口調が少し厳しくなって、身体がより一層縮こまる。
「そもそも、不倫って時点であかんと思う。そういうのは良くない」
相原の言うことは正しい。
不倫は良くない。
全く持って、その通りだ。というか、当たり前のことだ。僕もそう思う。
膝の上に置いた手が震えていた。その上に、汗が落ちる。
「はい……」
自分の声が、遠くなったり近くなったりする。
僕は今、相原に軽蔑されている。あんなに心が広い相原に、軽蔑されている。
「吉川、これからも、会うつもりなん?」
会わない。 会わない。
絶対にもう会わない。僕はもう、彼の家族を傷つけない。絶対に。
そう言いたくて、顔を上げた。
しかし相原は僕からそっと視線を外し、苦笑しているような怒っているような顔をしてこう言った。
「……まあ、そんなん、おれが言うことちゃうかもしらんけど」
その言葉を聞いた瞬間、僕の全身から汗が引いた。
なんというか、その素気ない、他人行儀な言い方にトドメを刺されたような気がした。
それが悲しくて悲しくて、僕の目からばらばらと涙がこぼれ出した。
「えっ? 吉川?」
相原は驚いたように目を見開き、「え? え?」と、繰り返しながら口元に手をやった。
「え、ええと……。それは、まだ、さっきの人が好きとかそういう……感じ?」
ここに来て尚的外れなことを言う相原に、涙が止まらなくなった。
何でそうなんねん。
何でやねん。
何でやねん。
「何で……やねん……っ」
嗚咽と一緒に、言葉が口を突く。目元に手を持っていくと、瞬く間にびしゃびしゃになった。
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