■きみが涙を流すなら 20■
それから数日後。 終業式の日がやって来た。
ホームルームの後、僕は職員室に呼び出された。結局、三者面談の希望日を提出しなかったからだ。
連絡しなければ、と思いつつも、僕は父に電話することが出来なかった。
あの日から何度も、金属バットを握り締めた両親に襲い掛かられる夢を見た。今までに見た悪夢にランキングをつけるとするなら、この夢がダントツで一位だ。
そんなわけで僕は消耗していて、職員室に向かう足取りがとても重かった。担任に怒られるんだろうなと思うと、更に気分がどんよりしてくる。
僕は目的地に着くまでに、必死で言い訳を考えていた。とにかく、父親の仕事のせいにしよう。その線だけは決まっていた。後は状況に応じて、ありもしない親戚の法要などをでっち上げればいい。
……しかし職員室に着くなり、担任にこう切り出された。
「こっちからお前の親御さんに連絡取って、三者面談の日にち決めたからな」
あれこれと言い逃れを考えていた僕の脳は、土砂崩れを起こした。深い絶望が僕を襲う。
三者面談を回避するのは、やっぱり無理だった。分かりきっていたことなのだが、ショックを隠すことが出来ない。
「八月二十一日の午後一時からやからな。ちゃんと来いよ」
八月二十一日。夏休みも終盤だ。多少猶予があることに、少しほっとした。いきなり明日、とかでなくて良かった。
来月下旬なら、それくらいまでには何とか……。果たして何とかなるのだろうか。全く自信がなかった。
「何やお前、三者面談のこと、親御さんに言うてなかったらしいやん。お母さん、びっくりしてはったぞ。連絡事項はちゃんと伝えろって、いつも言うてるやろうが」
担任のガラガラ声が遠く聞こえる。僕は生気のない声でぼそぼそと、ハイすんませんでした、と呟いた。そんな僕を見て反省していると勘違いしてくれたのか何なのか、担任は説教もそこそこに、早々と僕を解放してくれた。
職員室を横切りながら、僕はひたすら心の中で「どうしよう、どうしよう」と唱え続けていた。
何があっても八月下旬には親と会わないくてはならなくなったし、三者面談の存在を黙っていたこともばれた。これはピンチだ。掛け値なしのピンチだ。
だけど廊下に出て、夏休みの到来にうきうきする生徒たちの顔が視界に入った瞬間、なんとなく気持ちが軽くなった。
そうだ、夏休みなんだ。楽しい夏休みがやって来るんだ。ゲイだろうがネクラだろうが、夏休みは嬉しい。問題は後回しにして、今を楽しもうという気持ちになってくる。
「お、吉川。どやった?」
職員室の前で、相原が待ってくれていた。彼の笑顔に、僕もつられて笑ってしまう。
「やっぱ、三者面談の話?」
「うん……。勝手に日にち決められとったわ。八月二十一日やって」
「ああ、やっぱ決まっちゃったんや。どうすんの」
「どうしよ、ほんま……。ギリギリまで悩むわ」
「早い方がええでー」
「それはそうやねんけどなあ」
僕は右肩をぐるぐると回した。それから、相原の方を見る。
「相原、今日はどうすんの。うち来るん」
「行く行くー」
歌うように、相原は答えた。
あの日から毎日、彼は僕ん家に来るようになっていた。やることは、以前と変わらない。ダラダラしゃべって食べてゲームして、六時になったら野球を見る。それだけだ。
相原は少し変わった。爽やかで愛嬌があっていい奴なのは前と同じだけど、しんどいときはしんどいと言うようになった。僕はそれが、少し嬉しかった。
……しかし相原は、ちょっとでも僕の気持ちに気付いたりしないのだろうか。彼は、僕が同性愛者だと知っている。そして僕と相原は、ほぼ毎日一緒にいる。
惚れられているかも、とか思ったりしないのだろうか。
しかし今のところ、相原の、僕に対する態度は変わらない。僕のことを、普通に友人だと思っているようだ。
本当の本当に、全然気が付いていないのだろうか。本当に? そんなことってあるのか? こんなに、周りのことをよく見ている奴が?
でも、周りはよく見えていても、自分自身のことに関してはとことん鈍い、という人種は確実に存在する。
もしかして相原も、そのクチだろうか。それならそれで良い。気付かれても、困らせるだけだもんな、うん……。
そう考えると、僕は急に切なくなるのだった。一体いつまで、僕はこの不毛な恋を続ける気だろう。
「なあなあ、吉川」
「うん?」
「また野球、見に行こうな」
相原の輝く笑顔の前では、僕の胸中のグダグダな悩みもいっぺんに吹っ飛んでしまう。そして代わりに、言いようのない幸福感が全身を満たす。相原スマイルの威力は絶大だ。
……夏休みに入るといつも、時間の流れが急に早くなるように感じる。
カレンダーを見ると、いつの間にか七月も終わり。夏休みの宿題は進めども、僕と家族の問題は一向に進まない。それは相原も同じのようで、夏休みに入っても、彼は僕の家に入り浸っていた。
勿論、僕と相原の仲も全く進んでいない。進みようがない。毎日ふたりで、野球ばかりを観ている。何でこんな、ノンケど真ん中な男に惚れたんだろうと思う。
今日の相原は、夕方くらいにうちにやって来た。手には、紙袋を提げている。
「これ、うちのおかんから」
「お、サンキュー」
こんな風に彼は、しばしば手土産を持って来てくれる。それは大抵相原おかん手作りのおかずで、僕はいつもそれを楽しみにしていた。
相原の手から紙袋を受け取った時、僕はあれっと思った。何処となく、彼の表情が暗い。
「……相原、何かあったん?」
また家で、嫌な思いをしたのだろうか。そう思って、そっと訊ねてみた。すると相原は苦笑しつつ、
「いやあ、何ていうかなあ……」
と言い淀んだ。
「ま、とりあえず入りいや。相原おかんの飯食おうぜ」
そう言って促すと、彼は「うん」と頷いて靴を脱いだ。
どうしたんやろ。言いにくいことなんかな。
心配になりながらも、僕は夕飯の支度を始めた。支度といっても、相原が持って来てくれたおかずを温めて、食卓に出すだけだけど。 今日のおかずは、肉じゃがだった。じゃがいもがつやつやでつゆだくて、とても美味そうだ。
僕たちは一緒に夕飯を食べながら、野球中継を見た。
「あのさ、吉川。片岡って分かる?」
突然、相原はそんなことを言った。片岡と言われると、僕は一人しか思い浮かばない。
「日ハムから阪神に来て、去年引退したあいつ? 引退試合、最高やったよな」
と、現在は野球解説者を務める元プロ野球選手、片岡篤史について述べると、何故か相原は大笑いした。
「何でやねん、ちゃうって。うちの学校の片岡やって」
「何やそれ! 野球見ながらやったら、片岡っつったらあいつしか出て来んやろ……。
ええと、うちの学校の片岡な。ああ、女バレの子やっけ。一年の時、同じクラスやったわ。片岡……ユリコ?」
「ミホコ、って言ってたで」
「全然ちゃうな。そんで、片岡がどしたん」
努めて平静を装っていたが、僕の胸はざわざわし始めていた。何で急に、女の話が出て来るんだろう。
僕は片岡ユリコ……じゃなかった、ミホコの姿を思い出そうとした。しかし、あまり話したことがなかったので印象が薄い。そういえば、当時後ろの席だった川本という男子が、片岡は足がいいとか何とか言っていた気がする。
「おれ、片岡と中学一緒でさあ。結構しゃべったりとかしててんけどな」
「うん」
僕の胸騒ぎは最高潮だ。ざわざわとさざめいていたのが、ごうごうという唸りになってきた。もはや胸騒ぎというより胸大嵐といった風情で……ああもう、自分が何を考えているのかもよく分からなくなってきた。
僕は相原の顔を見るのが恐ろしくて、テレビ画面を凝視した。今日は阪神の先発ピッチャーが早々につかまり、一回表ノーアウト満塁という最悪の状況になっていた。嫌な予感が走る。
キャッチャー矢野がサインを出した。先発ピッチャーは頷いて、モーションに入る。ボールが手から離れる。
あっ、ボールが高い。
そう思った瞬間、相原が口を開いた。
「何か今日、その片岡に告られてさあ……」
バッターは高めに浮いた球を見逃さず、完璧なスイングでバットを振り抜いた。
鋭い打球は、まっすぐにスタンドに突き刺さった。
完。
……という言葉が、頭の中にバーンと浮かび上がってきた。完。終了だ。
野球も僕の人生も終わった。
いや、野球はともかく、僕の恋がこんなふうに終わるのは最初からわかっていたことだ。
うん、そうだ。そうだよ。だってあいつ、ノンケだもん。それに、普通にもてるもん。そりゃそうだよ。そうなるよ。むしろ、この日まで相原に彼女がいなかったことが、奇跡に近かったんやって。
無理矢理そう思おうとするが、手が震えるのを止められなかった。テレビの中で実況が何事かをがなり立てているが、全く耳に入って来ない。
何か。
何か言わなくては。
こういうとき、普通の友人ならどういう言葉をかけるだろう。
マジでか、やるやんお前。
こんな感じだろうか。嫌味にならない程度に冷やかして、祝福する。うん、その辺だな。 そして笑顔で言わなくては。心から祝っているように見える笑顔で。
頭ではそう思っていても、口は全く動いてくれなかった。笑うどころか、泣きそうだ。やばい。駄目だ。あかん。あかんって。
「……どうしよう」
ぽつりと、相原が呟いた。見ると、女子から告白されたというのに、彼のテンションは全く上がっていないようだった。むしろ、いつもよりも低い。
そんな彼の様子に、すぐそこまでこみ上げてきていた涙が、しゅっと引っ込んでいくのを感じた。どうも、僕が想像していたのとは全く違う展開が待ち受けているような……そんな気がする。
「ど、どうしようって……。何が……?」
びくつきながらそう尋ねると、彼は凄い勢いでこちらを向き、僕の両肩を掴んだ。その勢いに驚いて、僕の手から箸が飛んだ。
「吉川、聞いて!」
「は、はいよ!」
驚きのあまり、妙な返事になってしまった。
相原はそれにツッコミを入れる余裕もないようで、半分裏返った声でこう言ったのだった。
「おれ、女あかんかも!」
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