■きみが涙を流すなら 19■


 食べるタイミングを逸してしまって、未だ一口も食べていなかったカップラーメンに、僕は手をつけることにした。

  汁を吸いこんで膨らんだ麺を、もすもすと食べる。 ぬるい。
けど、美味い……ような気がする。安い味が空腹に染み渡るようだ。

「……あのさあ、相原」

 食べ終わった僕は、箸を置いて相原に声をかけた。彼は何か考えごとをしていたのか、「んー?」と、何処かぼんやりした声で答えた。

「お前ん家の話も……ちょっと聞いてええかな」

 恐る恐る尋ねると、相原は明らかに身構えたようだった。ぎこちなく身体をこちらに向け、

「お、おう」

 と硬い声を出す。

「あ、ごめん。嫌やったら別に……」

「ううん」

 彼は僕の言葉を遮って、首を横に振った。そして、ひとつ息を吐く。

「大丈夫やで。黙っとくより、しゃべる方が楽やわ」

 相原の気持ちは痛いほど分かったので、僕は黙って頷いた。

 聞いてええかな、とは言ったものの、何から聞けば良いのだろう。頭の中で質問を選んでいると、相原の方から話し始めた。

「一番最初に気付いたんは、半年くらい前かなあ……」

 ……半年前といえば、僕と親しくなる前だ。

  相原は自分も大変なのに、しょぼい失恋にへこんでいた僕なんかに声をかけてくれたのだ。それを思うと、息が詰まりそうになる。

「さっきも言ったけど、妹の部屋から変な声が聞こえてきてん。
おれ、最初はあいつがオナニーしてるんやと思ってな、うっわー気まずいもん聞いてもうたなーって……あ、こういう話大丈夫か?」

「ああ、うん。大丈夫やで」

「……そんでも、それはもう聞かんかったことにしよう、って思ってさ。 普通に生活しとってん。
でもあいつ、盛り上がると声でかなるみたいでな、ちょいちょい聞こえてくんねん。勘弁してくれよーって感じやってんけど、何か兄貴の名前呼んどってさ……」

 そこで相原は、口元に苦笑いを浮かべた。

「さすがにちょっと、えって思ってんけどな。
でも、兄貴と同じ名前の奴を好きになったんかな、とかさ、無理矢理思い込もうとしてたわけよ。
だって、コウイチ、なんて珍しい名前でもなんでもないもんな」

 僕は軽く相槌を打つ以外は口を挟まず、相原の話に耳を傾けていた。

「でもやっぱ、引っ掛かってはいてん。あいつ、兄貴のこと好きなんか? って。
そん時の鳥肌の立ちっぷり、今でもよく覚えてるわ。ていうか、今もサブイボ出てるし」

 はは……と力なく笑い、相原は右腕を差し出した。確かに、鳥肌びっしりだった。

「兄弟間の恋愛とかさあ、漫画の世界やと思ってたから……。だってあいつ、普段はほんまにフツーやねん。お前も、フツーやと思ったやろ?」

 僕は頷いた。香織ちゃんは何処からどう見ても、普通の女子高生だった。そんな秘密があるなんて、ちらりとも考えなかった。というか、今でもちょっと信じられないくらいだ。

「そっから何があったんかは分からんねんけど、一か月後くらいにさあ、妹の声に交じって兄貴の声も聞こえてくるようになったんすよね……」

 相原は、鳥肌が収まらない腕をがりがりと乱暴にかきむしった。日焼けした腕に、赤い爪のあとが幾筋も現れる。

「もうこれは、どう考えてもやってるやん。確実やん。
でもさ、やっぱおれは信じたくなかってん。だって自分の兄貴と妹がさ……有り得へんやんか……」

 そこで彼は一旦言葉を切って、細く息を吐き出した。 しばらく間を置いてから、相原は再び話し始める。

「その後、おかんが福引で温泉旅行当ててさ。おとんと二人で一泊二日の城崎旅行に出掛けてん。そんでその日、おれも、ともだちとカラオケオールするっつって、家を出てん。……そんな約束、ほんまはなかってんけどな」

 気が付けば、相原の手が小刻みに震えている。
 僕は思わず自分の手を持ち上げかけたが、直後に我に返って手を下した。この手で何をしようとしていたんだろう。

「そんで適当に外で時間潰して、夜にこっそり家に戻ってん。……この先は、大体予想つくよな」

 相原がこちらを見る。僕は小さな声で、「うん」と答えた。いたたまれなくなって、だから最後まで言わんでも、と言おうとしたら、相原は僕から視線をはずして早口で言った。

「ビンゴやったわ。ほんまにやっとった。居間のソファで」

 ……それ以来、ソファには座らんようにしてんねん、とつづけて相原は眼を閉じた。そして、深く深くため息をつく。

  むしょうに、相原を抱きしめたくなった。

  自分の想いがバレてもいいし引かれてもいいから、抱きしめたいと一瞬思った。だけどそれは本当に一瞬のことで、臆病な僕は実行出来なかった。 ただ、「うん」と頷いただけだ。

  何が、うん、やねん。思いやりのある言葉もかけられない。自分の無能さが、心底嫌になる。ほんまに、ちょっとはどうにかならんのかい。

 心の中で自分自身をなじっていると、相原が不意に笑顔になった。

「おれさ、吉川が梅田で泣いてるのを見つけて、マクドでしゃべってたときにさ、何かこう直感って言うんかな……、あっこいつおれと一緒かもって思ってん」

「えっ?」

 言われていることがよく呑み込めなくて、僕は首を傾げた。

「こいつももしかしたら、何か秘密があるんちゃうかなって。そう思ったら、むしょうに吉川と友達になりたくなってさ。いやあ、ほんまにその通りやったなあ」

 ……それは、喜ぶところなんだろうか? 分からなくて、僕は曖昧に微笑んだ。

 それにしても、僕と相原が一緒?

 ……確かに、家庭内に問題を抱えているという点では、似ているかもしれない。だけど、僕と相原は違う。全然違う。

 相原は兄妹の問題で悩んでいるが、吉川家の場合、元凶はこの僕だ。

 もしかしたら、僕と香織ちゃん、そして浩一さんの方が似ているかもしれない。
彼らの関係を肯定する気は全くないが、公に出来ない恋愛をしているという点では全く同じだ。それが原因で、家族を苦しめているという点でも。

 相原が兄妹の関係に不快感を示し、深く悩んでいるその姿は、そのまま僕の両親に当てはまるような気がした。

  僕の父と母も、こんな風に苦しんでいるのだ。

  相原は、無意識に金属バットを握り締めるくらいに追い詰められ、そして兄弟を憎んでいる。

  それじゃあ、僕の両親は?

 ……それに、相原は僕の秘密を聞いても「引かない」と言ったけれど、形は違えど僕も香織ちゃんや浩一さんと同じく、家族のことを苦しめている。

  そのことに、彼は気付いているのだろうか。
  もし気付いていたら、彼は僕に対してどう思っているだろうか。

 頭が痛くなってきた。こめかみが、ぎりぎりと締め付けられる。

 相原の力になりたい。

  秘密を打ち明けられた瞬間から、僕はそう強く思っている。だけど、僕がそんなことを思うのは、おこがましいんじゃないだろうか。

 頭痛が酷くなってきた。体に震えが走る。脳が「これはあかん」と叫んでいる。

「……吉川? どしたん?」

 相原はいつでも察しがいい。人のことより、自分のことを心配すべきなのに。
 もしくは、僕がよっぽど挙動不審だったのだろうか。平静を装っているつもりだったのに、僕はいつだって至らない。

「ごめん、おれの話、えぐかった……?」

 そんな的外れな気遣いをしながら、僕の顔を覗き込んでくる。僕は反射的に、顔を伏せた。

「や、ちゃうねん。ちゃうねん、ほんま」

「でも、めっちゃ具合悪そうやで」

「いや、ちゃうねん」

 僕はアホのように、「ちゃうねん」と繰り返した。相原は、何がちゃうねん、という顔をしていた。僕もそう思う。だけど、ちゃうねん、としか言いようがなかった。