■きみが涙を流すなら 16■


「お帰りー」

 相原の部屋に戻ったら、彼が笑顔で出迎えてくれた。その笑顔に、僕の心はちょっと柔らかくなる。

 部屋の隅に、布団が畳まれた状態で鎮座していた。僕が席を外している間に運び込んだらしい。

「いやあ、布団持って来たのはええねんけど、敷けなくってさあ」

 相原は笑った。確かに、床には教科書や雑誌やメガホンやらが散乱していて、布団を敷けそうなスペースは見当たらない。

「んーどうしよっかな。吉川、ベッド使う? おれ、床で適当に寝るし」

「い、いやいやいや何でやねん! おれが床で寝るっちゅうねん!」

 お前はおれを殺す気かと思いつつ、全力で首を横に振った。相原のベッドで寝るなんてとんでもない。そんなこと出来るか。
なんて恐ろしいことを言うんだ、こいつは。

「そんな拒絶せんでもええやんけ」

 相原は冗談っぽく言って、尚も笑っている。

 違う、そうじゃない。その逆だ。
しかしそんなことを言えるはずがないので、僕は

「床に落ちてるものを、とりあえず隅っこによけたら何とかならへん?」

 と、話題をそらした。

「そやな。そうすっか」

 言い終わらない内に、相原は足で乱暴に教科書類を壁際に寄せていく。

「お前、雑やなあ……」

 僕は、タテジマのメガホンを拾いながら笑った。

「えっだって、一個一個手で拾うん、面倒くさくない? お前、律儀やなあ」

「律儀かなあ。普通ちゃう?」

  その会話の間にも、相原は足でどんどんスペースを作って行く。プリントがCDと漫画の間に挟まれてグシャッと潰れても、全くお構いなしである。

 そんな、男らしいというか荒々しいというか……とにかく彼の足さばきで、どうにか床にスペースを確保することが出来た。

 二人で協力して布団を敷いて、それからだらだらと二人でしゃべった。野球の話が主で、お互いの家族のことは話さなかった。

 相原としゃべるのは、楽しいしとても心地よい。嫌なことを、全部忘れることが出来る。彼はよく笑う。僕が話すなんでもないことに、笑ってくれる。その度に僕は、泣きたくなるくらい幸せになるのだった。


 夜も更けきり、話題も尽きてきた頃、「そろそろ寝よっか」という話になった。相原はベッドに、僕は布団に寝転がって、電気を消す。

 今日は色々あったなあ。

 ふう、と目を閉じた。明日は何時くらいに起きたらええんやろ。まあいいや。寝よう。

  寝よう。
  寝よう。

  寝る。

  寝るんだ。


 寝るんやっちゅうねん。


 寝る、言うてるやんけ。


 ……眠れない。
 脳は疲れているはずなのに、眠気が一ミリも湧いて来ない。

  色々と込み入った話をして、親父から電話がかかってきたりもして、頭の中がそれらで一杯になっていて忘れていたが、相原の部屋で寝るって、もしかしなくてもむちゃくちゃやばくないか?

 なんで僕は、ごく普通に寝ようとしてるんだ。どう考えたって、眠れるわけがないじゃないか。

 一メートルも離れていない場所で、相原が寝ているのだ。やばい。これはやばい。

 どうして僕は、我に返ってしまったのだろう。布団に入った瞬間は、間違いなく「片思い中の相手と同じ部屋で寝る」というシチュエーションであることを忘れていた。
そのまま気付かなければ、すんなり眠れていたかもしれないのに。

 一度意識してしまったら、もう駄目だ。たちまち、僕の身体は強張った。背中がじりじりしてくる。
部屋は冷房が効いていて涼しいはずなのに、汗が止まらなかった。
すぐ側で相原が寝ていると思うだけで、頭がおかしくなりそうだ。

 どうしよう。どうすれば、僕の頭と心は鎮まるだろう。
 胸に手を当ててみた。心臓は大暴れだ。

 僕は、相原に背を向けて寝転んでいた。絶対に、ベッドの方は見るまいと思った。
真っ暗だけど既に目が慣れて来たので、振り向けば相原のシルエットくらいは見える。それだけでもう多分、耐えられない。

 ……うん、駄目だ。一旦逃げよう。

   決心して、身体を起こした。
   ここにいたら駄目だ。一度部屋を出て、何か対策を練ろう。

 物音を立てないように、そっと相原の部屋を出た。
胸の中のモヤモヤを外に出すように、大きく息を吐いた。

 喉が渇きすぎて、ひりひりする。
 水。
 水が欲しくなった。

 電気のスイッチの場所が分からないので、手探りで階段を降りる。ぼんやりと輪郭が見えているとは言え、段差の感覚がつかめなくてちょっと怖かった。

 ダイニングに降りて来たが、いきなり人様の家の冷蔵庫を開けるのも気が引けるので、暗闇の中またも手探りで水道の蛇口をひねり、手で水をすくってごぶごぶと飲んだ。

 同じ水道水でも、僕の家の水道水と全然味が違う。断然こちらの方が美味い。大阪市内の水道水のマズさは異常なのである。

 僕はどんどん水を飲んだ。水分で、僕の中の悶々とした思いや薄汚い欲望だとかが、薄まればいいのに。

 突然、電気がついた。

 いきなりのことで驚いて、目が眩んだ。
ついでに、水を思い切り自分の顔に引っ掛けてしまった。

「び、びっくりした……!」

 か細い声が、背後から聞こえた。香織ちゃんだった。

 Tシャツにハーフパンツを履いた彼女は、電気のスイッチに手をかけたまま立ちすくんでいる。

 僕もびっくりした。そして、とてつもなくばつが悪くなってきた。

「水の音が聞こえたから、水道出しっぱなしなのかなって思った……」

「あ、ご、ごめん……! ちょっと、喉が渇いて……」

 Tシャツで顔をぬぐいながら慌てて水道を止めると、香織ちゃんはほんのりと苦笑を浮かべた。

「だったらそんな、水道の水なんか飲まなくても」

 そう言っておもむろに冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出す。そして食器棚からガラスのコップを出してきて、麦茶を注いだ。

「……どうぞ」

 彼女が差し出してくれた麦茶を、僕は「ど、どうも」と言いながら受け取った。

 相変わらず距離感は掴めないが、香織ちゃんはいい子だと思う。彼女が相原の「鬼門」だというのが、とても不思議だ。

 内心首を捻りながら、コップに口をつけた。美味い。香織ちゃんはコップをもう一つ出して来て、自分用に麦茶を注ぐ。

「あのー……変なこと聞いてもいいですか?」

 麦茶のボトルを冷蔵庫にしまい、香織ちゃんはぽつりと口を開いた。

「な、なんやろ」

 無意識に、コップを握る手に力がこもる。一体何を聞かれるんだろう。もしかして、僕は何かヘマをしていただろうか。

 僕が相原に惚れてるって勘付かれた?

 そういうことに関しては、女性は恐ろしく敏感だと聞く。そうだったらどうしよう。いやでも、彼女の前ではボロは出していない……はずだ。多分。

「……誠くんって、彼女います……か?」

 控えめな口調で、微妙なことを聞いてくる。

 それは僕に対する牽制なのか、それとも全く無関係の単なる質問なのか。悩むところだ。

「いや……おらんみたいやけど」

 どうにか平静を装いつつ、僕は答えた。

「いない、って口ではいいつつ、実はいるとか」

「え、それはないんちゃうかなあ」

 僕の言葉に、香織ちゃんは、納得がいかない、というような表情をした。

 ……相原に彼女なんて、いない、よな?
 いたら泣く。というか死ぬ。

 いや、いない。最近ずっと一緒にいるから、流石に分かる。彼女がいないのが不思議だけど、少なくとも今は、彼はフリーだ。

「ええと、何で香織ちゃんは、相原に彼女が出来たって思うん?」

「だって誠くん、最近帰りが遅いから……」

「ああそれは、おれん家によく来てるから」

「それはアリバイ工作かなって」

「い、いやいや。ほんまにちゃんと、おれん家に来てるんやって」

 彼女の裏の読みっぷりに、少し感心してしまった。確かに最近僕と相原は遊び過ぎだが、そんな風に解釈されるとは思っていなかった。

「そうですか……」

 何処か残念そうに、彼女は言った。小声で、

「絶対いると思ったのになあ……」

 と付け加える。
 妹としては、兄に彼女が出来たら嬉しいのだろうか。その辺りの心理は、よく分からない。

「香織ちゃんは、彼氏はおらへんの?」

 全く他意のない質問だったのだが、彼女は「え」と言ってから一瞬間を空け、

「いないですよー」

 と答えた。
 もしかして、下心があると思われただろうか。

「ああ、そうなんやー」

  ごめん、ちゃうねん香織ちゃん。そういうつもりはなかってん。おれは好きなんは、きみの兄貴やねん。

 心の中で、こっそり呟いた。

 なんとも気まずくなってしまったので、僕はコップの麦茶を一気に飲み下した。
そのままさっさと立ち去ろうと思ったら、香織ちゃんが口を開いた。

「あの、ええと……吉川さん?」

「うん?」

「あの、誠くん……。あたしのこと、何か言ってたり……してました?」

 ぎくりとした。
 ここの兄妹は、僕を硬直させることばかりを言う。それも血筋なんだろうか。

「え、何で?」

 自分の顔が見えないので、ちゃんと普通の表情が出来ているかいるかどうかが不安だ。この返答が自然なのかどうかも、よく分からない。

 いきなり爆弾を投げ込んできた相原家の末っ子は、急に慌てたように、

「あっ、いや、やっぱいいです!」

 と裏返った声で叫び、足早にダイニングを出て行ってしまった。

 僕はその後ろ姿を、半ば呆然として見送った。

「……何やったんやろ、今の」

 初めてまともに香織ちゃんと会話をしたが、彼女のことがますます分からなくなった。特に、最後の質問。あれはどう捉えればいいのだろう。
香織ちゃんも、兄貴との関係が「いけてない」と思っているのだろうか。

 とりあえず、僕のやましい気持ちがばれている、という訳ではなさそうだった。多分。そうだと思いたいので、そういうことにしておこう。

「しっかし、わっからへんわ……」

 首を傾げた。

 そして、手にコップを持ったままだということを思い出した。このコップをどうすればいいのかも分からない。

 香織ちゃんはコップを何処にやったのだろう、と辺りを見渡してみたら、流し台のところにちょこんとガラスのコップが乗っているのが目に入った。
僕もその隣にコップを置き、首を回した。ゴリッという、くぐもった音がした。

 謎が増えて、より一層目が冴えてしまった。

 ……これから夜明けまで、どうやって過ごそう。